平和ボケはあらゆる分野に悪影響、エネルギー問題も

令和4年3月22日、東京電力と東北電力管内で「電力需給逼迫警報」が発令された。

実際、100%を超える需要に対して供給のバランスを綱渡り的にかろうじて保つために、揚水発電が使われた状況で、しかも余力は無かった様だ。あるワイドショーでは「その様な状況だとは知らなかった」「もっと早く知らせてくれないものか」など、余りにも無責任な発言のMCやタレントコメンテイターに不快感を抱かざるを得なかった。

事実関係を簡単に整理しよう。

民主党政権時に超法規的政府要請により原発は稼働停止し、脱炭素・脱化石燃料の流れで火力発電設備は更新が滞り、休眠設備まで稼働させて急場を凌ぐ状況だった。その後供給側の状況は大きく変化していない。

一方で需要側は大きく変化している。省エネ効率を向上させる技術開発、製品化は大きく前進し、デマンド監視システム導入によるピークカットなど、企業においても様々な省エネ対策の設備投資を活発化し、エネルギー削減施策を行ってきた。

その結果、需要は拡大しているものの、省エネ・節電・効率化で絶対量としては最小限に抑え、かろうじて綱渡りが出来ていたのだ。しかし、この状態は、通常考えられるリスクの顕在化により、危機は起こり得ることを予てより警鐘が鳴らされてきた。実際に2018年9月に北海道でもブラックアウトの危機は訪れた。

その様な状況下で、元首相5人組等の一部の非論理的、非科学的な「再生可能エネルギーで対応可能」「原発は無くて大丈夫」という論が、大義名分である「環境」「安心」を盾にして、実しやかに叫び、現実から国民の目を晒し続けたのではないのか?マスコミは、両論併記せずに、これらの論を拡散し、或いは都合の悪い、原発稼働の必要性の論には目を背け報道しなかったのではないのか?

それを「知らなかった?伝えてくれなかった?」ふざけるにも程がある、マスコミが知らせなかった、伝えなかっただけだろう。

<エネルギー問題は今に始まった訳では無い>

まず前提として抑えておきたいのが、エネルギー需要はこの先大きく増大するということだ。デジタル化していく環境、セキュリティ安全保障上の問題でデータセンタの国内化が必要不可欠な状況で、現状とは桁違いのエネルギー需要が生じる。

つまり、現時点で綱渡りしている様では国家としてたちまち危機に陥るリスクが高い。コロナ禍で喧伝された様な「何もしなければ42万人死ぬ」と同様のロジックで語れば、最悪のシナリオは、凍死、熱中症死、入院加療時の治療不備、貧困による餓死、国防脆弱化による侵略を受け大量虐殺など、桁違いの被害も想定できる。もちろん、コロナ禍と同様「何もしなければ」というのは、あり得ない前提なので、その場での対処は実行され被害は抑えられるだろう。しかし、それが後手後手の泥縄方式であれば被害は無視できなくなるので、リスクに正面から向き合った根本的なリスク低減策が必要不可欠なのだ。

エネルギーを調達資源と考えるならば、偏ればあらゆるリスクが生じる。1極集中せず2重化、いや多重化することが安定調達の基本である。加えて、需要の量に相応する規模の調達が求められ、需給の変動に対応できる蓄積、需要地への適時運搬、デリバリも大きな課題なのだ。

多重化に関しては、例え再生可能エネルギーでも一極集中するのは危険だという事だ。エネルギーである限り限界はある。太陽光であっても、風も地熱も、無限ではない。既に存在するエネルギーは自然が吸収し環境を形成しているのだから、一部を別の形に変換すれば当然ながら、自然への供給量は減少する。僅かなら影響は無視できても、増えれば必ず自然環境変化を起こす。これを一般的に自然破壊と呼ぶ。環境に影響を与える限界は未知だから、多重化で一つのエネルギー源への依存度を少なくするのが安全なのだ。

従って、再生可能エネルギーを過信せず、原子力、火力(石炭石油ガス)、水力など可能な限りバランスを保つべきなのだ。

そして現実的には、現時点の技術レベルと需要供給量の実態を元に考えるべきである。

現時点の再生可能エネルギーで需要の大半を賄うのは難しい。将来、開発され、効率化され、絶対量が安定確保できる可能性を否定はしないが、現時点では無理である。しかし、原子力発電、火力発電ならば可能なのだ。その現実から目を背けるべきでない。

そうやって考えると、ブラックアウトするリスクに備える優先順位は

  • 原子力発電の再稼働
  • 火力発電所の設備更新、高効率発電設備の置き換え、増設
  • 再生可能エネルギーや小型モジュール等の新技術研究開発強化

の順に本気でエネルギー政策を再検討するべきであろう。

安全保障面から見た、絶対量の安定的確保と自給率向上も検討に必要な観点だろう。

<日本の技術力がカギを握る>

原子力発電に関しては、様々な感情的な反対論ではなく、冷静かつ論理的に現実論を展開するべきである。まず、現状ある設備は、安全基準をクリアした所から早急に稼働させるべきだ。テロ対策なども必要に応じて後からでも防御設備、運用改革をすれば良い。リスクがあるから出来ない、ではなく、リスクを低減しながら安全に運用するのがリスクマネジメントなのだ。

そして、将来を見据えて、日本が誇る最先端の技術力を失うべきでもない。軍事研究忌避、原発忌避の感情が蔓延れば、優秀な技術者は国内では育たず、海外に流出するだろう。学生も専攻しなくなる。それ程危険な事は無いのだ。技術力を失えば、現在の原子炉の廃炉や破棄物処理も対応力が無くなる事を忘れてはならない。技術力が継承されれば、最新の技術を開発し、更なる安全性と経済性も追求できるのだ。

そして優秀な技術者が育つ環境になれば、小型モジュールなど未来型の開発も安全に推進出来るのである。

再生可能エネルギーの最大の課題は蓄積と運搬だろう。エネルギー生成、変換自体は安定しないのは当たり前だろうが、効率的な蓄積、運搬性が高まれば可能性は高まる。筆者の本音を言えば小規模地産地消の形が全体のバランスを埋める有効な手段と考える。

逆に言うとその課題が解決されるまでは補助エネルギーでしかないのが実態だ。大きく期待すべきではない。

蓄積とは、蓄電池だけでなく、水素やアンモニアを生成し蓄積するのも有用、運搬も可能なのだ。そうなれば、内燃機関への応用も展開できるだろう。

火力発電を脱炭素で忌避する傾向も冷静に考える必要がある。再生可能エネルギーと比較して現実的にエネルギー効率や脱炭素など対抗しうる技術力はある。廃棄物処理の比較も同様だろう。

日本の技術力による高効率石炭火力発電は世界に誇るレベルである。少なくとも切って捨てるべきではないだろう。同じ理由で内燃機関の技術も日本が世界に誇るレベルであり、電気自動車と比較しても総合的には負けない環境性を有するエンジンも存在し、更に発展できるのだ。

日本の技術力を封じる戦略に振り回されるだけでなく、本来の課題を解決する日本の技術力を世界に示すべき時代なのだ。

情報論理分析の要諦、分かり易い情報とは?

企業内の業務遂行時に、自身の業務成果を資料として残す。また、自身の業務遂行において過去の他人の実績を参考にするために過去の資料を紐解き、分析して自身の業務に役立てる。当然の業務遂行上の規範である。

ある日耳に入ってきたのが、過去の資料が分かり難く、読み解くのに当時の担当者に何度もヒアリングするなど苦労したので、他人が見て分かり易い資料の作成を心がけよう、との事だった。しかし、言わんとすることは正論でも、それでは精神論でしかなく、結局何も改善しないと言わざるを得ないのだ。

分かり易い資料とは、具体的にどんな資料なのだろうか?

<資料が分かり難い原因は情報の中身?>

一言で分かり易い資料といっても、具体的にはどの様なものを指すのだろう。巷のハウツー本では、箇条書きにして、図表など一目見て感覚的に認識できる様にだとか、テクニックは語られている。しかし、それだけでは情報自体の品質は保証できない。情報を伝えるべき資料であれば最優先するべきなのにだ。

情報と言う観点で言うなら、あらゆる情報が満載された情報に不足ない資料は、読み手に取って極めて分かり難いだろう。プロセスを割愛したグラフィックや図表を使えば視覚的に理解し易いが、そのプロセスの誤謬性には気付き難くなる。

一方で、全ての必要情報が分かり易く論理的に整理されてあっても、読み手側の読解能力不足で誤った解釈をしたり、自明である推論すら、明確に記述されておらず曖昧と資料の責任に転嫁する場合もあるだろう。

そもそも人間が作成した資料であり情報なのだから、記載されている内容に間違いもある、或いは誤った解釈されている場合は当然あり得るだろう。従って、読み手側にも一定の解釈が必要なのだ。

<世の中にまん延する情報の誤謬性>

企業の業務報告や記録の例で語っているが、世の中に広まるメディア発信の情報も同様の誤謬性、読解力不足の誤解など、全く同じ構造が存在する。まずは、この情報について反面教師として考察してみたい。

マスメディアの発信する情報とは、2次情報、或いは3次情報である。従って、常々鵜呑みにせず、1次情報に当たり確かめる事を推奨している。1次情報からどの様なプロセスと論理考察で生成された2次情報なのか紐解くのである。ニュースソースは明かされず1次情報に辿り着けないとの批判もあるかもしれないが、殆どの場合、外堀を埋める情報は存在し、少なくとも推論は立てられる。

そうすると、余りにも可笑しい論理飛躍、結論ありきの無理筋が如何に多いか気付くのである。仮設としてその結論に辿り着く1次情報は何が考えられるか、推論すれば、その周囲の情報との矛盾が隠せず、帰納的にも論理破綻が示せる場合が多い。その様な作業を心がけておれば、自然と2次情報を見ただけで、その誤謬性の存在、胡散臭さに気付けるような能力も養われる。

マスメディアの発信する情報が偏向するという事実は、歴史的に見ても明らかである。大本営発表と悪の権化の様に政府情報統制を語られるが、事実は民間の新聞社の発信する情報だったのだ。

現在の、電波系メディア、新聞系メディアもある思想信条、意図を持った方向性に偏向しており、現実的に放送法4条は守られていない。結論ありきの無理筋、過去発言との整合性ない論理矛盾。意向に沿わない情報を発信しない報道の自由。これを鵜呑みにすることは危険極まりないのだが、未だ影響力は絶大で、多くの人は知らず知らずに信じ込まされている。

しかし現在はネット空間に発信される情報が存在する。もちろん、その情報の一つ一つ、個々に見ると夫々に偏向していると言っていいだろう。しかし、規制がかからない、いや色々な規制がかかっても全員参加の双方向性メディアとして、オールドメディアに比べて大きく情報発信の自由度が高く、種々雑多な情報が埋もれている。

実は、オールドメディア側から見るとこれは大きな脅威なのだ。自分達の情報の信頼度が低下する事態を招きかねないからだ。従って、ネットの情報は胡散臭く、オールドメディアが正しいというプロパガンダが蔓延り、規制に必死なのだ。場合によっては、報告などで広告剥しやアカウント停止を目論んだ抑制が厳しいのが実態である。

しかし、よく考えて欲しい。情報とは、発信側は自身が伝えたい意図に沿ったものなので偏向は当然だろうが、受け手側はあらゆる情報を受け取る権利がある。そして、多くの情報の中で自身が必要とする情報、活かせる情報を取捨選択するのが当たり前ではないか。

ならば、オールドメディアの様にどこを見ても金太郎あめの様な一律の情報(しかも偏った)ではなく、ネットを中心とする有象無象の情報から受け手側が是々非々で取捨選択する方が正しい姿ではないのだろうか。実は、今迄はこの役割を書籍が果たしてくれていた。これからも書籍の役割は継続するだろう。しかし、ネット情報の活性化により、情報革命が起こり、素人でも昔の諜報部員並みのオープンデータ取得した情報分析が可能な時代になったのだ。逆に大なり小なり、情報力を高めなければ、社会に適合できなくなるリスクすらあるだろう。

だから、常々、情報の論理分析力を高める活動を推奨し、1次情報に当たり、自身の頭で考察する癖を身に着けるべきだと言い続けている。

<企業における情報伝達、ノウハウ継承>

前述した情報論理分析力は、これからの社会において必要不可欠であり、企業人としても是非、普段から心がけてもらいたいと思っている。

その上で、そうは言っても資料の1次情報に毎回当たっていては業務効率が悪すぎるのも事実だろう。

そのために必要となるのが必要な情報の構造化ブレークダウンだろう。

前述の例で考えて見よう。過去実績の担当による資料が分かり難いのは、何故か考察するのだ。情報が不足していたのか、必要のない情報が満載で必要な情報が検出し難いのか、情報に誤りがあったのか等。

この考察の結果、情報不足であれば、どの様な情報があれば良いのか、具体的に項目出しをしなければならない。当然それは、継続的にフィードバックがかかるようなプロセスで、不足情報の項目出しを加えていく仕組みが必要になる。何故なら、一度の考察、検討で、必要な情報の全てを網羅するのは不可能だからだ。やりながら、レベルアップしていくのだ。そして必要項目記載をルールとし、ミスロス削減の為にもテンプレート化しておくべきだろう。

不要な情報が満載でと言うのなら、少し考える必要がある。何故取捨選択が出来ないのか。

情報が整理されておらず判然としないのなら、定型の情報は固定表記される様にテンプレート化して整理すれば良いだけだ。むしろ情報が満載なのは良い事で、受け手側とは一人ではなく多面的なので、それに対応するのは情報自体が最小公倍数を実現する必要がある。

必要な情報が整理され表記されていて、尚且つ分かり難いと言う事例を多く確認する事がある。つまりこの現象の原因は、受け手側の情報読解能力の問題なのだ。

その次の情報に誤りがある場合も難解だ。基本的には資料として記録を残す際にミスロスを防ぐ策が大前提である。前述の項目整理やテンプレート化は有効な策となろう。それでも人間のする事に完全はなく、一定のミスは発生する。

これは本質的には一定のリスクを受容する必要はあるが、最小化する為に資料作成時の対策は不可欠だが、加えて受け手側が利用する際に一定程度の感性を持って見抜ける能力の養成が必要不可欠なのだ。

ひとつの方法は、時々抜き取りでも、1次情報に戻る作業で能力を高める。普段から周辺で起きている時事問題、経済界の課題などに関心を持ち、書籍やネット情報を確認し、時々その背景にある1次情報、オープンデータや論文も確認し、自身の思考を磨く作業を行っておく事が重要だろう。

実は、この能力の基礎は、義務教育で誰もが教育されている、国語の読解力、長文を読んで筆者の気持ちは?この主人公の言葉の意図は?とい問いであり、演繹法や帰納法を駆使した論理証明などである。そんなに難しい事では無いはずなのだ。

国際社会の協力を勝ち得るウクライナの頑張りと今後の交渉

国際社会における交渉とは、「押してもダメなら引いてみな」的な日本文化で語られる方法論で語るのは危険である。

国家間の交渉とは国益のぶつかり合いであり、引くという事は一部の国益となる事を諦める事である。この一方的な譲歩で関係が良くなると考えるのはお花畑思考の非現実的夢想であり、性善説に過ぎない。国益のぶつかり合いという事は、ぶつかり、拮抗するポイントがパワーのバランス地点であり、引くという行為はこのパワーバランスを崩す事に他ならない。つまり、引いた結果として発生するのは、引いた地点がパワーバランスの拮抗点に変化するのである。

即ち、何か妥協して引く場合、別の何かを獲得する前提でなければ交渉ではない。これらの交渉カードを複数持ち、交渉に当たり国益を守るのが外交である。そして、軍事力は核も含め、この交渉カードなのだ。

実際に、ロシアのプーチン大統領がウクライナに対して核使用も持さない考えを公言したのは、大きな交渉カードになっている。逆にバイデン大統領がロシアのウクライナ侵攻前に、アメリカ軍の派兵を否定したため、国際社会側のロシアに対する交渉カードを失い、ロシアの侵攻を許す結果になってしまったと評する専門家が多い。

かろうじて、ウクライナのゼレンスキー大統領が国内に残り、戦う姿勢を明らかにし、ここまで立派に国を守る戦いをした事で国際社会の声もウクライナ側に大きく傾いている。これが、逃げて亡命政権として外から対応していたら、現在の様なここまでの国際協力、情報武装化と経済制裁は得られなかったのではないだろうか。

<パワーバランスを崩す情報戦と場外戦>

この様な状況で、国家の国土と主権のために自衛戦争を戦うウクライナの方々に、逃げろ、命を大事にしろ、今負けても長い目で勝つ道がある、プーチンは高齢のため数年我慢すればよい、等との発言が発信され、炎上している。当たり前だろう、当事者を愚弄する無責任発言にしか聞こえないからだ。

「降伏しろ」など一言も言っていない、と主張するネット民も大勢いる。確かに、その単語は殆ど使われていない。しかし、同義の発言は数々あり、論旨としてはその様に受け取られても仕方がない。ウクライナ人に命を優先して降伏せよと迫っている様に感じ取られ、憤怒され、炎上しているのは事実である。意図が違うというなら謝罪して弁明するのが当然だろうが、言い換えてはいるもののウクライナの方に寄り添う様な発言は現時点で聞こえてこない。

NATOの責任で交渉しろとの論点をずらしも多く見受けられる。

ウクライナはNATOには加盟できていない。同盟国も無い。その状況でNATOが交渉の前面に立つことがどれ程難しいか理解すべきだ。むしろ、今現在のウクライナの頑張りと情報戦が、国際社会の理解を得て、通常では考えられない武器供与や強力な経済制裁、国連でも緊急特別総会での非難決議など、ほぼ国際社会が連帯してロシア批判に踏み切らせている。この事実は実は大きいのだ。ウクライナが戦う姿勢を示さずに超えられる壁では決してないだろう。

中国の姿勢を云々する向もあるが、実はウクライナの頑張りが国際社会の連動を生み出した事実を垣間見る限り、自国の国益を考えた場合、取り得る手段としてロシアと同様の軍事侵攻は困難である事ぐらい馬鹿では無いので理解しているだろう。その上で、どの様に強かに立ち回るべきか、相当研究しているだろう。

その様な激動の国際情勢において、表面上、水面下共に活発な研究、論考、議論が聖域を排除して必要なのだ。それは、際秩序や人道などと綺麗ごとだけでなく、日本の国家としての存亡に関わる国益の観点でだ。

無責任なウクライナ撤退論は侵略者優位に働く結果に繋がる危険性を度外視できず、自国の国益も損ないかねない。もちろん、最優先されるのは当事国であるウクライナの国家としての意思を尊重するべきだが、その結果が我が国のこの先の判断にも影響するのも疑い様の無い事実である。国際ルールを無視してようと、非道であろうと、実効支配、征服した結果を覆すのは、話し合いで解決などと言うレベルではなく、無責任に他ならないからだ。

ウクライナのネオナチ化という批判もある。確かに大なり小なりその様な批判はあるかもしれない。それはそれで克服できていない部分があるなら、国際社会の批判の対象にはなるだろうが、それがロシアの軍事侵攻、一般市民を巻き込み、病院や市庁舎などの施設破壊、各施設への攻撃、占拠などの行為を正当化は絶対に出来ない。必要であればロシア自身が国際社会に訴えかける努力が必用だったのだろうが、一方的な論理が酷すぎる。日本に対して慰安婦や徴用工、アイヌ先住民問題などを交渉カードにするべくプロパガンダを繰り返すのと同様に見えて仕方が無いのだ。

未だに戦争ではなく、攻撃もしてない、ウクライナで核開発や生物化学兵器開発、コロナまで生み出したとまで言うロシアの情報を鵜呑みにして一方的に信用できるはずがない。

<交渉とは>

ここまでの状況は、例えロシアが前面侵攻に成功し、一部の地域を占拠し、傀儡政権を樹立できたとしても、既に国際社会を敵に回し、経済的には致命的な打撃を受け、国内の情報統制が崩れた時に国家存亡の危機状態にまで陥るだろうと見るのが妥当であろう。

つまり、ロシアにとって戦闘に勝って、戦争に負け、国益を失う状況なのだ。

国家間の話し合い、外交は交渉である。交渉とは、社会人なら当然の常識レベルで学ぶだろうハーバード流交渉術によると、WinWinを目指すのが前提である。つまり相手の利益も考えた上で、当方の利益も獲得する両立を目指すのである。

もちろん、国益は相互にWin-Winとなるとは限らず、Win-Loseの場合もあり得る。それは、スタート地点の国力、パワーバランスの崩れがその様な結果を招いているのだ。パワーバランスが崩れるから、そのバランスを適正化する為にWin-Loseとなってしまう。

このパワーバランスを崩す最大の状況は実効支配である事は、日本人であり、歴史を少しは勉強しているなら、理解しているはずであろう。

そして交渉に第三者を巻き込むには、当事者の本気が前提であり、第三者に相応の利益、つまりWin-Win-Winを成立させる必要がある。ウクライナの頑張りで第三者を巻き込む大義名分が生まれ始めている。もう少しだ。ロシアの窮状を生み出せたのは、大きな交渉カードになるのだ。

但し、物事は詰めが肝心である。無責任で当事者を愚弄する様な情報は逆行する力を増しかねず、その認識が拡散してしまうと、非道を正当化してしまう最悪の事態すら生まれかねない。そうなることで自国の活動が抑制されず、最大の利益を得る国家はどこか、考えれば自明なのだ。