デジタル庁発進、前途は多難か?

2021年9月1日、デジタル庁が発足した。電子政府が話題に上がったのは、もう昔の事、日本は諸外国に比べ政府のデジタル化周回遅れ状態に陥っている。国民の個人認証の基盤となり得るナショナルIDも過去幾度となくトライし暗礁に乗り上げた事だろう。今や、先進国の中でナショナルIDすら導入されていないのは日本だけという状況で、ラストトライと言われたマイナンバーも数々の批判を受け、未だ充分に普及しているとは言えない状況だ。

コロナ禍は、デジタル化の遅れを現実の問題として国民の前に突き付けた。給付金の支給遅れ、自治体或いは首長のリテラシー格差によるサービスレベルの格差、判断すべき統計データがリアルタイム集計・発信できない実態、バーコード読み取りすら出来ないでシステム忌避しながら自己正当化し政府批判に転ずる事を受け入れる社会環境、等。

市民生活はインターネットを基軸とし、Wi-Fiによる接続環境が充実、デバイスとしてのスマートフォン、タブレット、PCの一人複数台接続、家電も含めたIoT(Internet of Things)どころかIoE(Internet of Everything)へと進展している。

AI(artificial intelligence)人工知能は、ほんの数年前は夢物語の技術で極めて概念的な領域に留まっていたが、計算機能力の飛躍的向上により日常の中で普通に使われる技術になってきた。そして、間もなく量子コンピュータが更に飛躍的、否、爆発的な進化をもたらす。

量子コンピュータでは、従来のコンピュータが2進法で成り立っているのが、3進法に進化する。従来、16bitでは、65,536通り、32bitで43億通り弱なのが、量子コンピュータでは、32bitで1853兆通りとなり、たった32bitの世界で43万倍の処理能力を持つ事になる。64bitだと1861億倍と可能性はとんでもなくなるのだ。

この効果を享受するのは、デジタル化の浸透が前提である。そして、決して2番ではなく、1番を目指さないとこの成果を享受するのに大きな障害構造を生み出してしまう事も自明なのだ。

なのに、未だお役所は、FAXで情報交換しているらしい。バーコードすら読めないと恥ずかしげもなくシステムに責任転嫁する自治体も存在する。果たして、デジタル庁は、この問題状況を突破できるのだろうか?

<デジタル庁発進時の姿から見えてくるもの>

まず、デジタル庁平井大臣のメッセージを見てみたい。筆者が引っかかる言葉が「誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化」だ。極めて聞こえはよく、政治家的発信ではあるが、筆者には大問題発言に感じるのだ。

前述のデジタル化が進展できなかった問題は、ひとえに個々のリテラシーの差に帰結すると考えている。技術進展の著しい分野で、全ての年齢層、様々な個人の適応能力を考慮すると、同様の浸透を図る事は不可能なのである。もし、本当に全ての人を対象とした場合、最大公約数にレベルを合わせる必要があり、技術の進展に取り残される事になる。それこそが今までデジタル化が公的に進展してこなかった最大の原因ではないだろうか。

左派系反対勢力は、表向きは人権と平等を盾にして、進歩を批判し、殊更リスクを喧伝するだろうが、技術の進展が著しい場合は、着いて行けない人達へのケアは別途しながら、先端を走らなければ国際競争力を毀損する事に成り、回り回って全ての人のメリットが大きく目減りする事態に陥る。

そういう意味で、デジタル庁は、先端を独走する『トップランナー』になる必要がある。それが、「誰一人取り残さない」といった瞬間、出来る事はたかが知れてくるのだ。

本当に期待しているからこそ、厳しい言葉とならざるを得ない。

百歩譲って、最終的なケアも含めての「誰一人取り残さない」であったとしても、先端を走るメッセージが決定的に欠落している事は否定できない。

他にも様々な疑問がある。

その一番は、全省庁、自治体等のデジタル化統制を図るなら、実開発、実運用はどうやって責任を持たせるのだろうか。デジタル庁が単なるガバナンスを担うだけならば、政策投信とその実行監視、監査は可能だろうが、実務面での機能は今まで通りになり、強制力なければ大した変化は生み出せない可能性が高い。

実務面までデジタル庁が担うならば、一般企業で言う、情報システム部門の開発や運用機能、最低でもPM(プロジェクトマネジメント)やPMO(プロジェクトマネジメントオフィス)機能を持たねば何も責任持って動かせず、調達も出来ない。それは、丸投げでしかなくなるからだ。

この辺りは、まだ実態不明なので、期待値を高く持って、見守る以外に無いだろう。

そして、早急に取り組むべきはWebページの改編だろう。デジタル化を推進する部門があのコンテンツでは少々寂しい。華々しくトップを走って、各省庁着いて来いと、言えるコンテンツ開発は名実共に重要なのだから。

システムは道具に過ぎない、デジタル化も方法論でしかない。問題はその中身であり、何の為にやるかが重要。技術が発展する中で、その技術を最大限活用し、より良い社会に成長させていく為に、道具を変え、方法を磨く必要がある。原始時代に回帰しないで発展し続けるために、先端を走る牽引力、現場レベルに落とし込む実行力とそれを支えるビジョンが最重なのだ。

経済安全保障、日本は本気になれるのだろうか?

『経済安全保障』という言葉を最近よく耳にする。その現れだろうか、日本企業に対しての影響が出始めている。

ソフトバンクは、ファーウェイとの関係で国際的5Gへの参入障壁をなかなかクリアできなかった。楽天は、テンセントとの資本提携で米国防省含めた監視対象、日本からも外為法違反等で日米両国からの監視対象となってしまった。ユニクロは、新疆(しんきょう)ウイグル自治区の強制労働をめぐるアメリカ政府から輸入禁止を受け、直近ではフランス政府から捜査を受けている。勿論、日本企業だけではないが、この様な事例が現実化している事から目を背ける事は出来ない。

ところが、日本の政治は訳の分からない迷走を繰り返している。

対中国非難決議が見送られたドタバタ劇は記憶に新しい。与党である公明党が慎重であったが、立憲民主党までが賛成に回り、慌てた自民党親中派の動きでドタバタ劇が演じられ決議されなかった。これだけでも国際社会の中で、日本はどうするのだろうかと疑問に思った矢先に更に上回る事案が発生した。

それは、中国共産党100周年記念に対して祝意を、筆者の知る限りでは、立憲民主党の枝野幸男代表・小沢一郎衆議院議員、自民党の二階俊博幹事長、河野洋平元衆院議長から寄せられたのだ。これは確実に政治利用されるだろうし、G7等国際社会に対してどの様に説明できるのだろうか、甚だ疑問だ。

政治がこの状況で、経済界が本気で経済安全保障と言う名の、サプライチェーンの再構築、市場再構築が出来るのだろうか。

<CSR調達とは>

CSR調達と言う言葉はご存じだろうか。

CSR(Corporative Social Responsibility)は企業の社会的責任という意味であり、CSR調達とは、調達先の選定や条件の設定において、コンプライアンスや環境・人権への配慮を行い、調達先を選定すると同時に、調達先にも同様の社会的責任を果たす様に求める活動であり、多くの企業でかなり前から経営課題とし活動が既に定着している。

つまり、自社がコンプライアンス問題や環境破壊、人権問題に繋がる事業活動を行わないだけでなく、調達先企業にも同様の活動を求める。即ちその調達先企業もその先の調達先企業に求めると言う連鎖を生み出し、サプライチェーンとしてCSRを実現する事になる。

しかし、本当に定着しているのならば、前述の企業摘発の様な問題が発生する訳がない。企業は収益拡大の目的で、安い賃金を求めて生産体制や部材調達を低コストで実現し、価格競争力を構築する経済活動を企業は行っている中で、先の先まで厳格に調査し条件とする厳しさを持っていれば起きないし、誤った場合も必ず正常復帰のマネジメントが働くはずだ。この経済活動自体、企業の競争力の為に否定されるべきではないが、先の先までに至る厳格さに問題があり、甘かったと言う以外に表現は無いだろう。

言葉を選ばず極論を言えば、調達先企業が『大丈夫だよ』と言えば、性善説ではないだろうが、鵜呑みにする方が波風もたたないし、敢えて厳しく追及する事無く、アリバイ造りの形式的なCSR調達が完成している可能性がある。

現実に目を向けると、実はそれほど簡単でもない事も分かるのだ。

トランプ政権時代に中国IT企業からの調達を規制する大統領令により、日本政府もファーウェイ社やZTE社等から新規の政府調達は行わない決定を下しており、各企業も政府系関連事業などの受注条件も踏まえ、調達状況を一斉に確認に動いている。しかし、現実は既に切っても切れないぐらい、入り込んでいる事が判明している。新規調達は制限できるかもしれないが、保守なども含めて関係を断つことは簡単ではないのだ。

企業として、この簡単ではない事を推し進めれば経済的な損失が大きくなる。その対価を払っても推し進めるには、国家としての明確な指針が必要であり、守らなかった時のリスクの高さを自覚した上で、経営上の覚悟が必要なのだ。

<グローバルマーケットビジネスは国家間のWinWinが条件>

10年以上前だろうか、筆者は同僚と海外ビジネスに関して議論を戦わすシーンがあった事を記憶している。社会的には、安い労働力を求める海外展開に先行き限界が見えてきて、グローバルビジネスは本来、地産地消が成立しなければ意味が無いと言われ始めていた頃だ。

その中で、同僚は中国マーケット進出を更に強化する事を主張していたが、筆者はカントリーリスク面も含め、目先の利益にはなるし連結上の効果はあるが、最終的にその成果がどこに行くのか疑問を投げかけていたが、回答は成果を現地で出せれば持ち帰れなくともよいという趣旨の説明を同僚から受けたのであった。その同僚は、その後中国マーケットのビジネス拡大に携わり、一定の成果を上げる結果を出した。

恐らく多くの企業が同様の成果を上げているのだが、その結果が今の中国でもあると言う見方もある。間違いなく中国は大きな経済発展を遂げ、覇権国家を伺う状況にまで成長しているのだから。

企業が現地で成果を出すという事は、間違いなくその国家は繁栄するのである。つまり、グローバルで見る限り、WinWinの関係式が国家間に成立している事が、必要条件になるのではないだろうか。

<日本は本気になれるのだろうか>

対中国非難決議が議論される状況、中国国内でも反外国制裁法のリスクなどを考慮すると、企業としても覚悟を決める時代になってきたのかもしれない。しかし、この経営判断は皆で揃って同じ方向に向かえれば良いが、抜け駆けして上手く立ち回れば独り勝ちも可能で、その場合の目先の利益は大きくなる。その利益を取らずにいばらの道を選ぶには、国家としての明確な方向性、指針が欲しいのだ。それこそ、抜け駆けを許さない、抜け駆けをする方がリスクが大きいと経営者に思わせるだけのものが必要なのだ。

ところが、媚中派、親中派が厳然と存在し、政治的には一定の力を持っている事が見えている。この構造がある限り、経済界から見た時にうまく渡り合うバランス対応が可能ではないかと疑うのも道理なのだ。それこそ、莫大なコストを払って、経済安全保障対応を確立しても、梯子を外されるリスクすら感じる政治状況に見えるのだ。まるで、お隣の国の米中日和見対応に似て見えるのだから。

政治的にアジアの大国との関係を絶つ事はありえないが、是々非々の厳しい対応が必要な局面である事も間違いない。政治的にそれが示されるべきだろうし、その方向に民主的な選択で政治家を選択できるぐらいでないと、いつ梯子を外されるか分からないリスクを考慮せざるを得ないだろう。即ち政治と国民の覚悟無くして、経済界が本気で経済安全保障に向かえないのだが、如何なものだろう。

情弱が産み出す国民感情に政治は寄り添えるのか

リスク評価に対応する科学的対応策だけでなく、国民感情に寄り添い勘案するべきだとの主張をする有識者もいるが、では、国民感情とは何なのか?そこから考えなければならないだろう。

<感情とは>

感情とは個人がコントロールする事が難しい。アンガーマネジメントの方法論など書籍が多数発刊されているという事は、悩む人が多いから需要がある現れなのである。では、特に怒りの感情のコントロールが難しい原因を確認していきたい。

まず、完璧主義である事。物事が自分の理想的な思いの通りに進まない事にはストレスを受けるのだが、完璧主義であるが故、世の中の出来事の殆ど全ては思い通りに行くはずもなく、ストレスが極大化する傾向にある。

更に、ネガティブ思考は過去も含めていつまでも失敗や後悔、他の人への恨みなどを引きずってしまうので、同様にストレスを増大させる。

これらのマイナス要素でストレスを増大させることで、怒りの感情はコントロールできなくなり爆発してしまう。爆発してしまった感情に寄り添う事など事実上あり得ないので、爆発しない様に、コントロールできる範囲に収める事が必要不可欠になる。

では、コントロール可能な範囲に収める為にはどうすれば良いかを次に考える。

完璧主義に対しては、人の考えや意見などは多種多様であり、専門家といえども異論反論は普通に存在するという現実を知らしめることだろう。その結果としての個人の見解や主義主張を持つ事は問題ないが、それが唯一絶対の真理、絶対正義でない事を認識する必要があるだろう。

ネガティブ思考に関しては、言うまでもなくポジティブ思考に少しでも転換する事。ネガティブにより全否定される状況から、あの手この手、どうにかしてこの状況を好転させる為には何ができるか、確実に一つ一つ実行に移す事でストレスは解消されていく。ポジティブまでは難しい、とするのなら少なくともデータやFACTに目を向け、感情的にならず論理的に思考する事で、少なからず不要な不安に陥る様なストレスは回避できるだろう。

以上の事から、感情に寄り添うには、多様性を認めた議論、意見交換が活発に行われる事、ポジティブに、事実に基づいて思考する静かな環境が必要になる。

逆に言うと、この必要な環境を壊せば、感情はコントロールできない状態に導くことが可能なのだ。実は、この環境破壊を日常的に行っているのが地上波メディアによるニュース、ワイドショーなのである。

<情報弱者とは>

情弱とはウィキペディアによると、『情報環境が良くない場所に住んでいる』『情報リテラシーやメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でない』これらの原因により『放送やインターネット等から必要な情報を享受できない人』を元の意味として、『各種の情報に疎くて上手に立ち回れない人に対する蔑称』と表現している。

今の地上波メディアは、多様な意見を封殺し、ある恣意的な一方的な意見だけで埋め尽くし、異論を許さず、異論を言う人間をあり得ないとあからさまに非難し続けて、情報環境が良くない場所を作り出している。

この悪環境は元来、平日日中に地上波テレビにお世話になる人達のみが晒されていたが、コロナ渦でホームステイ率が拡大し対象が増えている。つまり状態は悪化しているのだ。

この状態悪化は人々の能力を劣化させる。普段から、両論による議論に触れて、思考訓練されなければ能力は当然ながら劣化する。こうなると悪循環となり、多様性のある玉石混交状態のインターネットの情報に触れても、自身の触れてこなかった異質な情報を受け入れ、かみ砕き、考察する事が出来なくなり、見ても完全スルーで中身まで見る事が無くなり、都合の良い偏った情報だけに触れる偏りが強くなるのだ。この状態は、ネットでも多様な情報に触れていると勘違いし、かつ自身の意見が大多数であり正義であるとの誤った認識を持った情弱者が生まれる。

この事は、例えばヤフーニュースのコメント等を見ていると絶望したくなる状態になっている。

典型的な事例として、先日の五輪での酒類提供禁止の決定に関して昼のあるワイドショーでの一幕を挙げる。内容的には酒類提供の検討をして禁止と決定した事に対して、番組内コメンテイターは口を揃えて検討すらあり得ないと言い切っていた。たった一人、良識あるコメンテイターが検討は良いのでは、と言った瞬間、総攻撃で他の全員が全否定してのけたのだ。

この件を記事にしたヤフーニュースのコメントの大多数が、酒あり得ない、という感情論で番組趣旨に同調する内容であった。普通に考えれば、何か物事を決定しようとすれば、両論戦わせ、プラス面とマイナス面を考慮し、検討しなければならない。この手順を欠くと所謂独裁、独断でしかないのは自明なので、番組は民主主義を否定、自分達の意見は絶対正義で議論は必要なく従えと言っているに等しく、非難されるべき、少なくとも放送法第4条違反とされるべきなのだが。しかし多くのコメントは民主主義否定に賛同を示したのだ。

少し調べれば嘘と分かる事すら調べず、切り取られ偏向した断片を妄信し、少しまともに聞いていれば以前言っていた事と矛盾していると気付ける事もまともな思考回路を働かせる事が出来ない人達、情報弱者が大量生産されているのだ。

<国民感情に寄り添う為には>

まず、国民と冠が付いているが、決して全ての国民が同じ感情を抱いている訳ではないし、統一されている訳がない。従って、拡大解釈した、国民○○という言い方は、本来都合よく使うべきではない。よく、国民の総意だとか、政府を攻める時に使われるフレーズでもあり、ほんの一部の意見である場合のカモフラージュである事が多い。国民感情も同様である。従って、国民感情と称する場合は大抵の場合、一部の反対意見を持つ感情にどう対峙するかと解釈するべきであろう。

この反対感情に強行的に対峙し続けるだけでは、昔なら一揆に繋がる、現代でも社会情勢不安定に繋がり兼ねないので得策ではなく、寄り添うべきなのだろう。しかし、寄り添うと言っても、良い事と悪い事は区分けし、是々非々の対応が必要になる。100%反対感情に寄り添っていては、政治は全体最適を失い、他の多くの国民に悪影響を及ぼしてしまうからだ。

即ち、バランスでありバランスを欠いた時に支持を失うのが民主主義政治だろう。

反対感情に寄り添いながら、バランスを取り、出来うる限り全体最適を目指す為には、反対感情を生み出す元を改善する事の方が、より全体最適に迎える事は疑い様がない。

感情を爆発させず、コントロール可能で健全な範囲に止める為には、多種多様な意見、確かな事実とデータに基づく情報発信が行える環境を構築する必要がある。

そういう意味で今の地上波系のニュースやワイドショーの類はターニングポイントである。反省して、放送法第4条に恥ずかしくない形に改革するか、反省せず存在意義を失い、自滅していくか。どちらにしても、ネット空間の情報の充実とテレビに関しては、専用チャンネル等多種多様な情報発信に触れる事が出来る番組制作とNHK改革で両論戦わす討論系の番組を増やす等、明確な手を打っていく必要があるだろう。

一見正義に思える考えも、深く議論して見れば、様々な考え方や、越えなければならない課題なども見えてくる。時には、その課題を越える事で発生する弊害に気付き、寧ろデメリットの方が大きく、考えを変える事もあるだろう。そういった深い議論、深い思考が重ねられる環境こそが、国民感情に寄り添える環境になると確信している。

大規模接種センター予約システムの脆弱性について

大規模接種センターの予約システムに朝日新聞出版と毎日新聞の記者が架空の接種券番号などで虚偽の予約をしたとして、防衛相が抗議した。

これに対して立憲民主党の枝野氏、福山氏などは、各メディア記者の行為を擁護し、防衛相を「システムの欠陥を指摘したメディアに『早い段階で気付かせてくれてありがとう』というのが本来の姿だ。意味不明な対応をしている」等と批判した。

筆者はセキュリティ管理の専門家として、この件に対して複数の観点から指摘させて頂く。

<サイバー攻撃は許されない行為>

まず、両社記者の行為だが、端的に申し上げて『サイバー攻撃』であり、違法行為である。誤って申し込めてしまった、とかではなく意図的にシステムの脆弱性を突こうとした行為である事。脆弱性を検出した結果を、システム運営当事者に通達せずに、記事にして公表した事も、所謂ハッカーがダークサイトに脆弱性を公表するのと同等の行為である。

そうやって考えると、防衛相の抗議は、実は甘く、訴えても少しもおかしくない事案なのである。国民に知らしめ、知る権利を守る為、政府の監視という正義の大義名分があれば何でも許されると考えるのは異常である。

そして、サイバー攻撃を是として容認し、防衛相の抗議を批判する国会議員が世の中に存在する事自体筆者には信じがたい事実である。政府を攻撃する事が絶対正義で、その為の手段は全て容認される事を貫く思考回路は、法治国家として決して許されない。

<システムの脆弱性はどこにある>

次に、この脆弱性の発生原因と対応策の方向性に関して考察したい。但し、筆者はシステム設計の全容を把握している訳ではないので、想像の部分が多分に含まれる事はご容赦願いたいが、大きな間違いは無いだろうと考えている。

まず、『早い段階で気付かせてくれて・・』というのは根本的な認識違いだろう。この脆弱性に関してシステム設計者は把握していただろうし、設計レビューで承認を受けている筈だ。このリスクに気付かないシステム設計者は世の中に存在しないと言っても過言ではない内容なのだ。

本リスクを受容した判断理由は、各方面からも既に発出されており、早期システム立ち上げ、防衛相への個人情報、個人データの提供を最小限に抑え様とした結果であり、地方自治体の分散システムに接続するには、スケジュール感もコスト感も現実的でなかったのだろう。それでも本脆弱性を看過するのではなく、何らかのリスク低減策は検討すべきだっただろう。

更に問題の主要因は、接種券番号の設計思想だと考えられる。クーポンの画像がネットに上がっているが、予想通り、見事にバラバラなのである。せめて、番号体系は国側の全体設計が必要なはずだが、その点の実態は不明であり、セキュリティ面の機密事項であろう。システム連携による照合が無く、誤入力や正統性・正確性を確認する為には、不充分であったと言わざるを得ない。

通常例えばクレジットカード番号の様に、不正入力や誤入力防止にはチェックでジットを番号に組み込む方法がある。また、ランダムに入力する不正に対応するには、飲料メーカーのべた付けキャンペーンで缶などに貼ってあるシールを剥がした際の番号の様に、確率的に不正入力を抑止する技術も存在する。その他にも多種多様の番号設計は存在し、それ程高度でもないのだが、残念ながら、省庁の壁を超え、トータルで考える全体最適設計思想と技術的工夫が不足していると言わざるを得ないだろう。

日本らしさというのだろうか、不正やいたずらの無い様に、良心に委ねる形でのアナウンスが為されている。実際の接種まで含めたリスク対応策は講じられているとはいえ、システムとして脆弱だとの誹りは免れないだろう。

<脆弱性対策の方向性>

では、対策の方向性はどう考えるべきか。デジタル担当大臣はデジタル庁設置による対策推進を語っているが、まさにその通りであろう。

まず、マイナンバーをキーとした接種情報管理を言う人が多いが、これは特定個人情報の取り扱いを知らない人の空論であろう。あくまでマイナンバーカードによるシステムへのログイン認証に留め、接種情報自体は個人番号と紐づけ可能な状態で発番した接種券番号で管理するべきだろう。そうしないと、影響が大きく、管理運用体制も不必要に莫大になってしまう。この点が、マイナンバーを必要以上にセキュリティ面の問題を語りたがり、システム実装上の現実に知見が無さすぎる証拠だろう。個人情報管理と特定個人情報管理を分けて考えるべきだからだ。

では何が対策の入り口かというと、省庁や自治体など含めて壁を越えた全体最適設計を可能とする機能であろう。正に、デジタル庁の真価が問われる部分だ。その上で、今回の脆弱性は古典的な番号設計に起因する部分も多分に含まれるが、もしその機能が無いなら補完する必要がある。

筆者の疑念事項が杞憂であれば、このチェックロジックを付け加えるだけで一定レベルのセキュリティ性向上は見込めるのだが、そうでなければ、次期システムまで本質的な改善は困難なので心配だ。

今後に向けての抜本策として、セキュリティの基本である『機密性』『完全性』『可用性』で設計する必要があるだろう。認証は、手っ取り早くマイナンバーカードによる認証であろう。これで不正アクセスは防げる。

そして、接種券番号をキーとするDB構築は細心の注意を要するだろう。接種予定と接種日時、副反応履歴情報などが全国一元管理できる様にしなければならないからだ。あくまで接種番号を主キーとして、個人を特定する属性情報は最小限にする、政府が閲覧できるのは匿名加工化した切り離された情報に限定するなど、様々な対応策の検討が必要だろう。そしてブロックチェーン等の技術利活用は必須である。

セキュリティの要点は『機密性』『完全性』『可用性』で語られるものであり、リスクとのバランスで検討しなければならない。

リスクとはゼロリスクで語った瞬間、全ての検討が無となってしまう。リスク対策とは、考えられるリスクを評価し、受容できないリスクに対して低減策を検討するものであるが、それでも低減でありゼロ化ではない。

殊更、感情的にゼロリスクを唱える風潮が未だ支配的だが、その事で寧ろリスクに向き合い対応策を講じる事を阻害してしまい、結果としてリスクが増大してしまうのだ。

心配だ、心配だと言い続けても、心配は解消されず、寧ろリスクが高まってしまう。その人間心理を政治利用して足を引っ張る行為は、国益を損なう結果に繋がる事を理解し、その様な行為に対して異議を唱え、合理的な範囲のリスクは納得する事も重要なのだ。

『安全第一』から『安全安心』への社会変化に適応する要点

安全は全てにおいて最優先するべき事項である。安全が担保されなければ、あらゆる活動に支障を来たすからだ。工場・プラント・建設現場などに、大きく『安全第一』と掲げられているのを一度は見たことがあるだろう。そこで働く人の『安全』が担保されなければ、結果としての事業や製品の品質にも差し障り、事業継続が困難になるのだから、最優先されるのだ。国家でも同じだ。安全でなければ、国民の生命・生活に支障を来たすのだから、安全確保が国家の最大の責務なのだ。

では、最近よく耳にする『安全安心』とは何か、『安全第一』と何が異なるのか。その理解をせずに都合よく乱用されているケースが多いのは憂うべき事なのだ。

<安全と安心の定義>

まず、安全と安心の定義、何が異なるのかを確認したい。

安全とは、危険ではない状態、許容できないリスクがないことであり、客観性と科学的事実にに基づく検証と評価が必要であり、主観的であってはならない。

一方で、安心は、主観的に評価してリスクの少ない状態のことであり、安全を心で感じるものなのだ。従って、極めて主観的であり心理的な評価になる。

この安全と安心の状態を4象限で表すと下図の様になる

右上と左下の象限、つまり安全と安心が同等の評価を受けている状態は、ある意味正常な状態である。

右上の安全・安心が両立している状態は、言うまでもなくベストの状態であり、この状態は、科学的データの公開、説明責任の履行で継続できるだろう。

左下の不安全で不安な状態は、不安全である事を認識できており、その科学的対策を客観的に実施する事で、この状態を脱する事が可能である。民間の事業であれば、安全策の実施が確認できるまでサービスを利用しなければ良い。国家事業であっても、厳しい追及を継続すれば良い。不安全が見える状態なだけ、健全ではある。

問題は、右下と左上だ。左上は、言わずもがなだが、科学的に不安全状態を不安に思わず、安心している状態なので、どの様なリスクが顕在化してもおかしくなく、危険と隣り合わせが放置されているのだ。

この状態が発生する原因は、不安全な状態の説明が充分に為されておらず、周知が甘い、或いは、意識的に隠ぺいされている場合。そして、逆説的には、どれだけ説明しても聞く耳を持っていない状態だろう。

次に右下だ。これは、科学的に安全な状態にもかかわらず、不安を抱いてしまう社会不安状態で極めて危険なのだ。安全性の説明が不十分な状態もあり得るだろうが、往々にして、どれだけ説明しても聞く耳を持たない、感情的、情緒的な脊髄反応が主原因の場合が多いので質が悪い。本人は、僅かに存在するリスクを極大評価していることに気付かず、至極真っ当な論理と思い込み、非科学的に妄信してしまう。100の安全性データがあっても、1のリスクで安全性はゼロと断じてしまう、勝手論理なのだ。

この状態に陥ると、何も前に進めることが出来なくなる。回避行動として、タブー視し語る事を憚り、隠蔽などの悪循環に至る可能性がある。これは悪循環であり、左上の状態を他に多数発生させる危険性がある。また、この状態は、論理的には手が打てず、社会不安状態となり、人心を扇動する独裁者が現れやすい社会環境でもある。

<不安状態を回避するには>

民間企業の事業、サービスの場合、基本的に右上の状態でないと成立しない。安心を勝ち取らないと、需要が無くなるからだ。例え、左上の様な不安全で安心となっても、いずれ発覚し、その時の信用の毀損はとてつもなく大きく、余程の悪徳企業でもない限り、この象限には向かわない。右下の状態の場合、安全性を強く訴えるだろうが、理解されない場合、市場が受け入れなかったとして事業撤退の選択となるので、ここも継続的に存在しえないのだ。

しかし、国家事業や行政となるとそうはいかない。事業撤退など出来ないからだ。だから、何が何でも説明し、安全である事を納得してもらう必要がある。逆に言うと、政局的にも攻め所であり、政治利用は激しくなりがち。同様に、政府を監視する使命を自負するメディアも、ここぞとばかりに不安を煽り、視聴率を稼ぐ。結果は最悪の社会不安状態でしかなくても関係ない。

この危機的な不安状態に陥る事を防ぐ方法はあるのだろうか。煽るなと言っても、止めるはずもなく、法的な縛りを設けようとしても、煽りのネタが増えるだけで、激しさを増すだろう。与党を追い込む絶好のチャンスとして、結果の責任も持たないで、野党の攻撃が増すだろう。本来危機的な不安状態では、与野党関係なく、メディアも含めて、緊急事態という名に相応しい協力体制で国難に向かうべきだが、現実はそうはならない。

本質的には、民主主義で選択された政権を信じ、委ねるべきである。しかし、これだけ政権とは別に不安を煽る構造が充実していれば、弱い人間は次の選挙まで待つという余裕もなくなり、不安が爆発してしまう。人間は、精神的に弱い動物だ。本能的、動物的な危機察知よりも、精神的な脅し、脅迫に弱い。命の危険、財産の危険などで不安を煽れば、論理的には理解出来ていても、意味不明の不安を抱きやすい。継続的に不安が高まれば、いつの間にか、論理も拭き取んでしまう。

そうすると、最後の砦は、国民一人一人であろう。個々人が責任を持った思考回路を働かせ、論理的に、是々非々で判断する責任が重大となる。本来、民主主義とは、例え間接民主主義であろうとも、一人一人が有権者として政権運営に責任を持つ。その為の選択の手段として選挙がある。

世の中、ゼロリスクにはならない。リスクがある限り、少なからず不安も生じる。確率が低かろうとも、当事者になった場合は、それは自身にとって100%の事実なのだから、不安を持つのは仕方がない。

結局、不安な事は、安全性の論理的、科学的、そして客観的考察によって和らげることしかない。それでも、不安全であれば、少しでも自身が安全に向けて出来る事を考えて実行するしかない。出来ない事を、あれこれ悩んでも、不安が増すだけで、何も良くならない。あくまで出来る事を一つ一つ着実に実行するのだ。そのプロセスが、前向きなモチベーションにもつながり、不安も解消していくという正のスパイラル効果も期待できるのだ。

国を動かす、32県知事の要望

3月17日にGoToトラベル事業の段階的な再開に関わる国への緊急要望が32県知事より提出された。これに対して、赤羽国土交通大臣は、『再開は簡単ではない』として、当面再開は出来ないとしたが、32知事の訴えは、一定のメッセージとして届いたのではないだろうか。その要望の要旨を抜粋すると、

・感染状況が落ち着いている地域では、独自に宿泊割引等の観光需要の喚起を行っているところであるが、これまでにクラスターが発生したとの報告はない。

 ⇒宿泊等の観光事業喚起と感染拡大には相関関係が無い事実を語る

・地域の観光需要喚起に有効な「GoToトラベル事業」の早急な再開

 ⇒地方の観光需要喚起(GoToトラベル再開)を要望

・まずは感染状況が落ち着いている県単位で早急に「GoToトラベル事業」を再開

 ⇒方法論として、具体的にリスクの低い所から徐々に再開を提案

・観光関連事業者の経営は極めて深刻な状況にあり、回復には相当の期間を要する。

 ⇒地方経済の根幹を支える事業の困窮を説明

・また、段階的に対象エリアを広げた場合、地域間に不公平が生じるおそれがある

・6月末とされている「GoToトラベル事業」の実施期間を大幅に延長する

 ⇒徐々に再開した場合のリスクを提示し、解消策まで提案

前向きな提案実施で、要望そのものは却下されたものの、観光事業者への支援策の検討を急ぐという約束を勝ち取った。

ビジネスの世界でも参考に出来る、上手いやり方だろう。あくまで前向きな提案、そして、想定リスクに対しても具体的に打つ手の可能性まで用意しているのが、相手を説得し、動かせた成功要因だろう。

ところで、32知事という事は、全知事ではないのだが、どういうメンバー構成なのだろうか調べてみると、頷く点と、驚く点の両面があった。

頷く点は、外れた都道府県だ。当然だろうが、現時点で緊急事態宣言中の1都3県含め、解除されたとはいえ緊急事態宣言の対象となっていた、東京・神奈川・埼玉・千葉・栃木・愛知・岐阜・大阪・兵庫・京都・福岡の11都府県。まだその時期ではないだろうという判断は理解できる。加えて、北海道・沖縄も現時点の感染状況、今までの感染拡大経験を踏まえて慎重になるのも分かる。

驚いたのは、宮城県だ。GoToイート再開の影響だろうか、感染拡大状況にあり、独自の緊急事態宣言を出さざるを得ない状況だが、32県に名を連ねているのだ。確かに、GoToトラベルは感染拡大との因果関係は無く、GoToイートは確証までは無くとも因果関係はありそうな状況で、GoToイートは止めて、GoToトラベルを再開と言う、極めて合理的な判断とも言えるが、県民感情的に大丈夫なのだろうか、と心配になる。

そして最後に意味不明が、名を連ねなかった、島根・徳島の2県。両県とも、感染状況は落ち着いていて、地域経済も疲弊しているだろう。島根県は、聖火リレーボイコット、五輪反対まで持ち出して、地域経済支援を要望していたはずだ。地域選出の国会議員に窘められても政府に反旗を翻した形になっているが、それでは結果を引き出すのは難しいだろう。徳島はなぜなのだろうか、聞こえてきていない。

32知事が勝ち取った支援は全地域に対して差の無いものにはなるだろう。しかし、人が動かす組織である限り、何らかの心情面が目に見えない形で差となる事もあり得る事を認識しているのだろうか。それをカバーする別の動きはあるのだろうか。

コロナ禍で進展するDX(デジタルトランスフォーメーション)、活かすも殺すも日本人のマインド改革がポイント

<日本社会はデジタル化後進国である>

日本のデジタル化が遅れている事は、昨年からのコロナ禍で誰の目からも明らかになった。

ナショナルID(※1)は先進国で普及できていないのは今や日本ぐらいだ。日本も今まで複数回トライし頓挫してきた。現在ラストチャンスとしてマイナンバー利活用を目指しているが道半ばである。

感染者数などのトレーサビリティも未だ不充分で、FAX手入力が残存し、データのリアルタイム性や正確性に課題を残している。

スピードが要求される環境下でも、未だに重厚長大なウォーターフォール式開発の発想が捨てきれず、要求品質とスケジュール感がアンマッチした様なシステムトラブル(COCOA等)が増えている。

振り返ってみると日本では、『ものづくり』で最先端を行き『ジャパンASナンバー1』と言われた時代以降、バブルが崩壊し、ロスジェネ時代を経ている内に、諸外国のデジタル化の進展に取り残されてしまい、生産性も低い国になってしまっているのが現実だ。

かつては、グローバル企業として多くの日本企業が君臨してきたが、今や日本企業の影すら見えないのが実態だ。

<コロナ禍は、デジタル化推進の絶好機>

一方で昨年からのコロナ禍の影響で、否応なくデジタル化は進んでいるのも事実だ。数年前から課題となっていた『働き方改革』の一つの回答になる様に、リモート業務が急増している。

筆者自身、多くの移動を伴う業務都合から、移動時の効率を考えたサテライト業務など、予てからリモート対応が日常的であったので、移動が激減しただけだが、多くの人には、根本的な仕事の有り方すら考える変化があっただろう。

この変化がもたらしたものは、『物理的距離の短縮』『物理空間の狭小化』なのだ。

歴史を振り返ってみると、16世紀のマゼランに始まる大航海時代、18世紀の蒸気機関発明による欧米の世界進出、20世紀後半のインターネット普及など、物理的距離を縮める事で、世の中に大きな変革をもたらしている。

21世紀の今、AIや5G、ブロックチェーン(※2)、その先の量子コンピューティング(※3)などの影響は計り知れなく、所謂DX(デジタルトランスフォーメーション)(※4)が時代の潮流になる事は間違いない。

例えば、都心一極集中は必要なくなるのだ。日本国中、どこにいても、仕事の効率が変わらなくなり、場所の概念が無意味になり、移動ロスが極小化する。結果として生まれる時間が更なる消費を拡大する。

その昔、グローバル化が叫ばれた当初、『グローカル(※5)と言う名で地域活性化、地方のグローバル参画の戦略性が語られたが、産地直送程度と成果は限定的だった。今回のDXは、それこそ地方にとっては千載一遇のチャンス、ものづくり企業にとっても新たなイノベーションを生み出す絶好のチャンスなのだ。

そう、DXとは決してデジタルだけで成立するものではなく、デジタルとアナログの融合、バーチャルとリアルの接点にこそ本当の活路が見出せるのだ。地域特性も活かしながら、ものづくりのノウハウを活用し、デジタルを利活用する事が、新たな価値を生み出し、生産性を向上させるのだ。

<日本社会に根強く巣くう課題>

但し、日本がこれまでデジタル化に関して後れを取った反省に立脚しないと、このチャンスは掴めないだろう。では、何故デジタル化は遅れてしまったのか、考察してみたい。

一番大きな原因は、デジタル化しなくても困っていない、裕福で満足しているからだろう。

デジタル化で大きな進歩を遂げた代表格は、エストニア、東南アジア、韓国などだが、これらの国は、デジタル化は国家存続の至上命題の様に、国家も国民も志向し取り組んだのだ。社会システム自体が成熟しておらず、殆ど白地からのデジタルインフラ構築、国家の命運をかけた取り組みだったのだ。

片や日本の場合、既に存在する重厚長大なレガシーと言われるインフラが存在し、まがりなりにも機能しているので、敢えて載せ替えるモチベーションが産まれ難いのだ。

そして、何といっても大きいのが、ゼロリスク信仰の強さではないだろうか。

日本人の行動心理を諸外国と比較する際に、昔からよく使われた例えに、コップ半分の水をどう考えるかがある。日本人の傾向として、コップ半分の水に対して『あと半分しかない』『もう半分だ』と危機感を募らせ、後ろ向きになり、守りに入りがちだ。しかし、グローバル標準は、『まだ半分も残っている』なのだ。この差による結果は、天と地ほど異なる事は、自明だろう。

例えば、ナショナルIDだが、間違いなく個人情報のリスクを過大評価し、適切なセキュリティ対策にも非論理的に耳を貸さず、ゼロリスクを盾に前に進む事を拒み続けている。

個人情報管理は元来、欧州の人権問題意識から発し、OECD8原則(※6)の元、様々な制度と対策を構築し、現在ではGDPR(※7)と言う保護規則を定め、欧州域内のリスク管理体制が確立されている。知っておいて欲しいのは、日本も安倍政権時に、このGDPRの十分性認定(※8)を受け、国際的には個人情報管理体制の確立は認められている。しかし、未だに『マイナンバーカードを落としたらどうするんだ』と無知な質問が繰り返されている。

また、システムは絶対でなければならないと言う、古い信仰が、スピード優先し、試用しながら柔軟に仕様変更するべき事案に対しても、リスクゼロ化を求めるという根本的矛盾による無理がCOCOAの様なトラブルを招いている。

<今こそチャンスを活かすべき>

首都圏で進展するDXは、所詮申し訳程度で最低限に留まる可能性が高い。『物理的距離の短縮』の御利益を得るのは、首都圏ではなく地方である。地方は創生の為に、必要に迫られる環境ではないのだろうか。

例えば、東京五輪と言いながら聖火リレーは全国規模のイベントだ。人が集まるのを恐怖と感じるのなら、バーチャルも並行すればよい。海外からの観客を受け入れないのであれば、その代わりに、バーチャルでご当地を走ってもらうのはどうだろう。リアルの走者の横をバーチャルの走者が走る。アバターでも良い、障碍者でも元気に走れる、パフォーマンスを披露してもらっても良い。全世界参加型の聖火リレーなんて、今までにない概念、大会の一体感を演出できるのではないだろうか。

当然、その中にご当地名産や観光スポットなどの紹介も織り交ぜれば絶大なる宣伝にもなる。新たなビジネスチャンスにも繋がるだろう。

3月25日にその様なシステムは間に合わないだろうが、それでも良い。当初はリアル中心になりながら、アジャイル開発でバーチャルを徐々に組み込み、改善しながら、進化する聖火リレーとして演出すれば良い。当然ながら、開会式や閉会式も同様だろう。

五輪以外にも、ものづくり企業、中小企業は事業拡大、生産性向上の好機である事は間違いない。無限の可能性がある。

この好機をつかむポイントは、『まだコップの水は半分もある』という、ポジティブなエネルギーなのである。

※1;ナショナルID;国民を確実に認識し、国民であることを確認できるデータベースシステム、国民に対して公. 正で公平な行政サービスが実施できる。

※2;ブロックチェーン;分散型台帳とも呼ばれ、高度なセキュリティ要求に対応する基盤技術

※3;量子コンピューティング;従来の0or1判定に加え、3段階にすることで、計算速度が飛躍的に向上する技術、スパコンで1万年かかる計算が数分で可能になる。

※4;DX(デジタルトランスフォーメーション);デジタル技術による業務やビジネスの変革

※5;グローカル;地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方

※6;OECD8原則;個人情報保護の共通した基本原則、1980年に採択され、現在もグローバル・スタンダードである

※7;GDPR;EU一般データ保護規則。EU域外でも広く影響ある、個人情報保護の規則

※8;十分性認定;EU域外の国や地域の個人情報保護が水準を満たしていることを欧州委員会が審査認定する。EU圏とのビジネス交流には必要不可欠である。

Noの論理よりYesの発想

<現状認識>

昨年からのコロナ禍で、朝・昼のワイドショーにおける『Noの論理』のオンパレードが、在宅勤務が中心になり否応なく耳に入ってきた。

朝から晩まで、徹底的に流される偏向情報に多くの国民がサブリミナル効果を受けているのか、余りにも感情的な言動も多く聞こえてくる。他の意見や現実に出ているデータすら見ざる聞かざるで、陰謀論まで展開し、自己の主張を絶対正義と押し付け、異論には暴力的に誹謗中傷まで展開する。両論あるのに、持論に決まっていると非科学的に断定し、両極端に分断が進行している。

元々、日本人は、コップ半分の水を『もう半分しか残っていない』と直ぐに悲観的になって守りに入りがちだ。グローバル標準は『まだ半分もある』と前向きに、半分の資源を使って次の打開策を進める。外圧や上からの指示には、Noと言えない日本人だが、じゃあやってみろと言われても、後ろ向きで自らは踏み出せない傾向がある。

この様な状態でもパレートの法則に則り、前向きな少数が全体を牽引出来ていれば良いが、後ろ向きでマジョリティが形成されてしまうと話が異なってくる。どうも最近の世論形成は、『Noの論理』に支配され、所謂悪しきポピュリズムを生み出す方向に舵を切っている様に感じる。

この事態を目の当たりにし、このままではとんでもないことが起きる。自分に何が出来るだろうかと考えさせられ、偶々、定年に向けてカウントダウン、第二の人生を本気で考える段階でもあり、一念発起、個人事業としてLogINラボ(屋号)を立ち上げ、一石を投じたいと考えた。まだ、この先何が出来るかは、暗中模索状態ではあるが、何か役に立てはしないかと日々考えている。

<回顧録>

思えば、私の人生は波乱万丈と言っていいだろう。『Yesの発想』なくして今の状態はなく、『Noの論理』に絡めとられたら、前進は出来なかっただろう。小学生まで身体が弱く虐められていた少年が、小中高と体育会系でトップとは言わないが、一端のアスリートには成長できた。進路指導の先生に100%不可能と言われた受験を成功させた。社会人になってからも、結果を妥協無く追求する事で、多くの敵を作りつつ、修羅場を乗り越え、成果も人一倍出してきたと自負している。Noという選択肢を持たず、否、歯を食いしばり常にYesと前を向いて、多くの火中の栗を拾ってきた。

新会社の代表職、伸び悩む新事業の製造部門長、日本中物資不足・サプライチェーンが破綻した東日本大震災時の調達部門長、国家の威信をかけた最後のチャンスである国家プロジェクトの受注生産部門のトップ、など、どれも修羅場であった。『Noの論理』に絡めとられる反対勢力と対峙し、組織を活性化し、一定の成果を挙げてきた。

<『Yesの発想』は最も楽な道の選択>

人は精神的に弱い動物で、危機を感じると守りに入る。守りに入った時に、次の前進を前提にすればまだ良いが、前進しない自分を正当化し、後ろめたさを覆い隠すための論理武装を始める。そして、いつしか、当初正当化した後ろめたさを忘却し、前進しない事が正義と本気で信じる様に変化していく。この負のスパイラルは質が悪く、本人は正義だと信じて疑わない。

そして、負のスパイラルは人に伝搬しやすい。脱出しようとする者には同調圧力をかけて、時には暴力的に反対行動を起こす。正義の名のもとに。どこかで、このスパイラルを打ち破り、前進に転ずる事が出来れば、結果は天と地ほど違ってくるのだが、そう容易くない。

私の経験から言おう。『Yesの発想』で前進する事は、一見難しく感じるかもしれないが、一旦ポジティブチェンジが出来れば、実はネガティブ状態より遥かに気分は楽になる。確かに責任は重くなるが、失敗したところで命までは取られないし、皆がNoであれば、失敗してもNoの状態のまま、失敗しても当たり前、マイナスは無い。一方、Yesに転じる事が出来れば大きな成功の果実が得られる。実は、負けて当たり前の状態は、それ以上悪くなることが無い、気楽な状態なのだ。

今、世の中がネガティブに染まり、『Noの論理』が跋扈する状況で、一人でも多くの人が負のスパイラルを断ち切る事が出来れば、日本は凄まじい発展を遂げる事が出来るはずだが、その為に必要な要素は何だろう。それは、そこいら中に転がっているオープンデータを元にして統計データ分析をベースとした、ロジカルシンキングによる真理の追及だと確信している。

<世の中に前向きな成果をもたらす>

真理は一つしかない。しかし、真理には人間如きがそう簡単に到達出来ない。だから、『Noの論理』を入り込ませる隙が出来る。しかし、『Noの論理』には必ず論理破綻、論理矛盾が内在する。それは、真理追及が目的ではなく、Noと結論する事が目的なので、論理がご都合主義に侵されるからだ。

『Yesの発想』も決して傲慢になってはならない。真理は一つでも、そこに至るプロセスには多種多様であり、考察の方向性も様々なのだ。決して、自身の分析・検討のプロセスは唯一絶対ではないことも知らねばならない。100人いれば、100の考え方がある。思想信条は人の数だけあり、それぞれに異なり、尊重されるべき。多様性に寛容である必要がある。

しかし、その100種類の考えから、前向きな『Yesの発想』を活かし、最大公約数を目指せば、大きな勢力となり成果に繋がることは間違いない。異なる意見にも耳を傾け、尊重しつつ、最善と思える意見を示し、粘り強く説得し続ける。継続に不可欠なのが、ぶれない論理性だろう。

『Noの論理』を振りかざし、ポピュリズム手法で、『煽り』『脅し』で扇動する方が簡単で多くの信任を得られるかもしれないが、それでは長続きしないだろうし、結果は悲劇的である可能性が高い。地道で粘り強い『Yesの発想』の追及と普及は、一朝一夕には拡大しないが、一旦定着すれば、根強く正のスパイラルアップを生み出し、大きな力に必ず成長していける。

『Yesの発想』を持ち続け、真理に近づく論理を軸に、小さな一石を投じる事が出来れば、この先の人生も充実できるだろうし、必ず前向きな成果を世の中にもたらすこともできるだろう。

事業継続計画(BCP)の対応を怠っていた医療福祉業界の実態

東日本大震災などの大規模自然災害を受け事業継続計画(BCP)の必要性が再認識された。特に日本は欧米先進国と比較して、このBCP、更にはマネジメントにまで発展させたBCMの取り組みが東日本大震災当時は遅れていて、対応が後手後手となりサプライチェーンなど様々な脆弱性が露呈した。

多くの方は記憶にあるだろうが、震災直後、製紙工場の被災により新聞のページ数が減少し、石油化学コンビナートの被災により、カラー刷りが無くなった。私自身、何の因果か、その時は調達部門の責任者だったため、全国の工場に対して生産材料の欠乏無き様、統制管理を実施、東奔西走の毎日で事業継続の必要性を肌で感じている。また、その直後タイの洪水により、ハイテク部材の日本への供給が逼迫する状況が発生した時も同様だった。

これらの事案は、日本企業の経営課題として事業継続の重要性を突き付け、2重調達や従業員が通勤できない状態の対応策等、各社相応の企業努力を実行している。その想定事案として、基本は大規模震災であったが、パンデミックも想定すべきとの議論も盛んに行われていた。今回、急な在宅勤務によるリモート対応などの対応がスムーズにできた企業は、これらの対策が出来ていたからだ。

企業の経営課題は即ち日本としての国家課題でもあり、政府としても国土強靭化を目的として、平成28年にガイドラインを制定し、『レジリエンス認証』という認証制度を創設している。次に示す表は、内閣官房国土強靭化推進室が公表している、認証取得の業界別の団体数である。

この認証制度は2年更新であり、年3回の更新機会を設けているので、過去6回分の審査における新規と更新の団体数が全認証団体数となり、現在207団体認定取得している。その全体の半分以上が製造業と建設業で占めているのが表から分かる。確かに、サプライチェーンという課題に対して直接向き合う必要性から頷ける数字だが、それとは別に、目を疑うのが医療福祉分野の認定取得がたったの7団体、認証全体の3.4%に留まっていることだ。

本来、医療福祉業の事業継続は国民の生命・健康に関わる為、優先順位は高い筈なのだ。実際に、内閣官房国土強靭化推進室として、事業継続シンポジウムと銘打って、全国キャラバン方式で『医療・福祉分野の事業継続』を開催し拡大強化を目指している。そこまでやっても、賛同し認証取得に至っている医療福祉の団体が、たったの7団体なのだ。

認証取得が全てではない。認証取得してもISOの様に、形だけで運用が形骸化してしまう問題点も指摘されている。認証取得しなくても、運用さえ確実に行えば問題ない。しかし、今回のパンデミックに対する医療業界の対応を見ている限り、そもそも事業継続に関心すらなかった、自分事としては考えていなかった、内閣官房から言われても馬耳東風だった、と言わざるを得ないのだ。何故なら、ガイドラインを少しでも認識していたら対応は変わっていたと思えるのである。では、簡単にガイドラインを確認しておきたい。

まず目的に記載されている文言からいくつか抜粋する。

『大規模自然災害等への備えを最悪の事態を念頭に置きつつ、平時から様々な政策分野での取組を通じ、いわば「国家百年の国づくり」として行う』

『いかなる事態が発生しても機能不全に陥らない経済社会システムを確保しておく』

国や地方公共団体のみならず、経済社会活動の担い手である民間事業者の普段からの取組・活動が極めて重要となる』

『民間事業者の行う国土強靱化のための努力には、自己の事業継続に関するものと社会貢献としてのものとが考えられる』

次に具体的な基準だが、大きく2項目あり、『事業継続関係』と『社会貢献関係』から成立しており、前者は自助、後者は共助として定義されている。

『事業継続関係』には、簡単に言うと、方針の策定、分析・検討、対策の検討・決定、計画の策定、見直し改善の仕組み、事前対策の実施、定期的教育訓練、経験者・知見者の担当、法令順守と詳細項目が定義されている。

『社会貢献関係』には、社会貢献の定義、社会貢献実績、従業員の社会貢献支援と実績、他の社会貢献実施と定義されている。

どうだろう、医療業界がこの活動に積極的に関わっていれば、現在の医療崩壊はあり得なかったのではないだろうか。その様な活動を政府は目指していたのである。そして欧米先進諸国は、日本よりはるかに事業継続計画に関しては民間にも浸透していることが、あれだけ感染拡大してパニック状態でも医療崩壊にはなっていない一因でもあるのだ。

日本は政府の指導力が弱いとメディアは言いそうだが、それは筋が違う。あくまで、自らの意識向上による優先順位の高い経営課題と認識し、自助・共助を明確に意識した地に足の着いた活動を平時から行う必要があり、業界団体として横連携も含めた強化活動が不可欠なのだ。

今年は勝負の年だ、誓いの2021元旦

 一昨年の『凶』、昨年の『吉』から、今年は『大吉』と大躍進、大きな運気サイクルとも一致し今年は花咲き、その後の基盤となる基礎固めが確実に出来る年となると確信しております。ここ暫くの低迷状態から確実に脱し、大きな飛躍を目指します。

 今年の初詣は、コロナ禍の影響を受け、緊急事態宣言でも発出されそうな状態で、人出は例年よりも大きく減少。車での道のり、駐車場もがらがら、出店も例年の半分以下だろうか、寂しい限りだが、これなら密にはなり得ない環境での初詣であった。

 多くの人に、『今年は大変だ』『この感染状況はどうすれば』、と言われ、その都度確認したが、何を持って大変と言っているのか、全く説明不明、意味不明の、感情的、感覚的訴えが全てであった。私としては、それこそが大変な事だと、心配になって仕方がない。

 多くの人が死んでいる、新型コロナに感染している、重症者が増えている、急変で突然死までしていて不安だ、医療崩壊で通常診療が出来なくなる、などなど。しかし、これらは絶対評価できるものではなく、比較による相対評価しなければ本来何も分からない事ばかりなのに、毎日テレビで危機感を煽られ続けて感覚がおかしくなっている。

 交通事故は多数発生しているが、その多くは怪我もなく車の破損も軽症。時々発生する悲惨な事故を連日報道し、防ぎようのない逆行での正面衝突や暴走して歩道に乗り上げ多くの死傷者を発声させてしまう事故の危機を煽り、事故を防ぎ、身を守るためには不要不急の車両使用を自粛、歩道を歩くのも危険なので外出自粛、緊急事態宣言とは決してならない。比較して何が違うのだろう。

 いやいや、交通事故とは違うよ。という人は、今シーズンの気管系疾患、感染症の感染や死傷者と比較してどうなのか知っているのだろうか。

 東京都の1日1300人は過去最高を大きく上回る危機状態だと言う人は、1日10万人になったらどういうのだろうか。他国の危機的状況と比較すれば、これぐらいの数字の差があるのに、何故危機と言うのだろうか。

 テレビで政府を批判する際に使われる、危機管理の常道として最悪の事態を想定した対応が必要だと。そのこと自体は、大きな誤謬性を含んでいるが、そのことは置いておくとして、最悪の事態を想定するのなら、新規感染者数は、1日10万人規模の想定が必要不可欠だろう。その想定からすると、遥かに低い数字なので慌てる必要は無いはずだ。

 危機管理状態を示す数値的指標を明確にする必要性を訴えているが、その際に、1日10万位規模になればステージ4だと設定して納得が得られるだろうか。現状の数字から、少し上積みした数字を設定して納得を得ている状態だが、それでは本当の意味での危機対応ではないのは、冷静に考えれば分かるはずだ。

 医療崩壊の重症者病床数も同様だ。用意していた病床数の70%、80%というが、1日10万人規模の新規感染者の場合に必要となる重症病床数ではない母数に近づいたとしても、母数を増やせば良いだけなのだ。

 今の感染者程度で医療崩壊する訳は無い。もし、この状態で医療崩壊するのであれば、医療業界の構造改革、経営の刷新、統制管理が必要不可欠であり、その為の法改正、現業界のトップ層は総退陣が必要不可欠だろう。

 はっきり言って、新型コロナの感染力は高いだろうが、毒性は高くなく、死ぬ病気ではない。確かに不幸の死を遂げる事例の報告はあるが、インフルエンザでも同様に休止の例は多数存在する。その比較による説明もなく、一方的な話で危機を煽るのは、それ自体が既におかしい。風邪は万病の元とはよく言ったものだ。

 新型コロナ感染症は、病気だから怖くないと言うと嘘になる。感染力も高いので、基本的に市中にウイルスが常在している前提で行動しなければならない。でも、ウイルス常在状態でも必ず感染する訳ではない事は、風邪でも周知のはずだ。不摂生で初期免疫力が低下して初めて風邪をひくのだ。であれば、新型コロナも同様、風邪を絶対にひかない様に、養生すれば自身の感染は相当レベルで抑えられる。同時に、自分がウイルスを保有している全体で、他人にうつさない様に行動する。それで全てであり、それ以上でも以下でもない。

 利権があるのか既得権益構造なのかは明確ではないが、少なくとも言えるのは、人の気持ちというのは、危機を煽ることで簡単に導けるという社会実験となってしまっていることだ。それこそ社会的脆弱性が露呈しているのである。

 少し、立ち止まって、冷静に思考回路を働かせる事さえ出来れば、この様な事態には決してならない。私は、それは情報リテラシーを高める必要があると考えており、その為に必要な要素は、モチベーション力であり、胆力であろう。しっかりと、人の話に耳を傾け、自分の思い込みに固執し異なる意見を聞かずに批判、或いは面倒臭がって無視、何ら思考回路を働かせない悪癖を断つ。その為に、活字をしっかりと読み、反対意見に対しても自身の意見をまとまって語り、議論が出来るようになる。これは、新型コロナに限った話ではなく、全てに通じる事象であり、DXや環境問題など社会問題への適合が要求される激動の社会環境で必要不可欠な人財力なのである。

 その様な問題意識を持ち、社会貢献が少しでも出来るように、ジュニア層や日本の産業の中核を担う中小企業の支援を想定し、昨年活動し始めた。その活動の本格的基盤作り、土壌を構築し、軌道に乗せる、勝負の年としたい。