ジョコビッチに対する批判集中だが果たしてその中身は

テニスのレジェンド、ジョコビッチ選手がオーストラリア入国を拒否され、全豪オープン第1シードの選手が棄権という事態に陥った。事は今年の全豪に止まらず、今後3年の全豪や他の大会出場も危ぶまれる状況である。一連の動向に、ジョコビッチ選手に対する批判も集中し、同じレジェンドのナダル選手は「ワクチン接種すればいいだけのこと」と言い放った様だ。

しかし、冷静に考えて、これらの批判は正当なものだろうか。ワクチン接種は義務化されるべきものではなく、個々人の事情を勘案する必要があり、個人の判断のはずである。全容を見ずの感情的な批判も多いのではないだろうか。

一方で、確かに批判に相当する部分も見えてくるが、それは正しく事実を見極めた上でなければならない。単なる誹謗中傷、良いがかりに近い論調が跋扈する風潮は健全ではなく、まずは事実関係を整理してみたい。

<ジョコビッチ選手がワクチン接種をしない背景>

ジョコビッチ選手は幼いころからいくつかのアレルギーを抱えていたとの事だ。プロになってからも試合で呼吸困難に陥るなど途中でリタイアする状況が続き、その後、グルテンアレルギーである事が判明している。

グルテンアレルギー対策として食生活を見直し、徐々に改善に向かった。2015年に執筆した本に、グルテンフリーの食生活を取り上げ、グランドスラムタイトルを獲得できた秘訣として食生活の改善だとしている。そして、その後のツアーでも、グルテンフリーの食事とトレーニング用具を準備していたという。

この様な原体験を持ち、アレルギー体質でもあれば、ワクチン接種を躊躇するのはある意味当然では無いのだろうか。

ここでジョコビッチ選手のワクチン接種に関する発言をいくつか取り上げてみる。

全米オープンにて

「ワクチンに関しては常に、それぞれ自分が打ちたいかどうかという判断が重視されるべきだと考えている。そこだけは崩さないでほしい」

ATPファイナルにて

「ワクチンのことだけじゃない。生きることの全てで、個人には選択の自由がある。それが豊かで幸せな人生に必要不可欠なものだと思うから」

フェイスブックのライブチャットでは

「僕はワクチンの接種自体を否定しているのではない。ただ、誰かが僕の体内に無理やり何かを入れるのは嫌だ。受け入れられない」

これらの発言を聞いて、「ワクチン接種すればいいだけのこと」と簡単に片づけられないと感じるのは筆者だけだろうか。

<入国拒否された問題事項>

オーストラリア・テニス協会は、大会参加、それにかかわるビザ発行はワクチン接種を前提としている。但し、過去6か月以内に感染歴があれば免除ともされており、今回のジョコビッチ選手の申請はこの過去感染歴を前提にしていた。

その感染日は2021年12月16日であった。しかし、そこから綻びが発生する。その感染経緯を確認してみる。

12月14日バスケットボール試合を観戦。これがクラスターとなる。

12月16日簡易抗原検査実施で陰性判定。同時に念のためのPCR検査実施

12月17日テニスのジュニアイベントに参加

12月17日イベント後にPCR検査陽性判定通知

12月18日雑誌インタビュー実施

17日のイベント参加は陽性判定前との言い訳はあっても、クラスターの所謂濃厚接触者であり、PCR検査も実施していた訳なので本来であれば結果が出るまで自粛すべきであったとセルビアの首相も非難している。そして、18日のインタビューに関しては弁解の余地は無い。

更にまずいのが、オーストラリア入国書類の過去14日間にどこにも旅行をしていない事を問われる質問に、していないと虚偽申請をしていた事が明らかになっている。

実際は、セルビアからスペイン(ジョコビッチ選手保有宅に3日滞在)を経由してのオーストラリアであった。スペインもワクチン接種証明書が入国に必要だが、どの様に入国許可が下りたのかは不明であり確認中の様だ。

ジョコビッチ選手は同書類をチームスタッフの人為的ミスであり意図的ではないと述べているが、果たして入国書類の不備がミスで済まされるものではないだろう。

ましてや、2021年6月にも自身開催のトーナメントで本人含むクラスターを発生させて批判を浴びており、今回の件も含めて信用が失墜しているのも現実であり、12月16日の感染17日の陽性判定も入国する為の虚偽ではないかとの疑惑まで発生している。

<ジョコビッチ選手に望む>

以上の様な事実関係から、最悪の場合テニス協会から何らかの処分の可能性すらある。テニスの1ファンとして、レジェンドをその様な事で失う事は何が何でも避けて欲しい。

その為には、ジョコビッチ選手には明確な説明責任を果たしてもらいたいと考える。

6月にクラスター発生させた事や12月の濃厚接触後の行動に関して軽率であった事、入国申請書類にミスとはいえ虚偽記載をした事実を含めて、自身の行動が軽率で考えが甘かった事を反省し謝罪会見を開き、テニス協会からの如何なる処分も受けると表明する事を期待したい。

その上で、ワクチン接種を躊躇する原体験を語り、同様の苦しみを持つ人達の存在も訴えるべきであろう。そうして自身の判断に対する理解を求めれば同様の選手達にも手を差し伸べる事になるだろう。これは危機管理、危機コミュニケーションの観点から望む事だ。

ワクチン接種免除は定められているとはいえ、現実には認められる例は僅かとの事だ。この現実に風穴を開けるのはジョコビッチ選手以外にないだろう。

体操のレジェンド内村選手が、世界体操時のPCR陽性判定に異議を唱え、再検査による陰性により偽陽性判定であった事を示し、無事世界体操開催に繋がった。これは、レジェンドでなければ、陽性検出、濃厚接触者判定で多くの棄権者を発生させ、大会が無事では無かっただろう。前例を突破し、改善する為には、その道の先駆者が支持される心情面も背景に勇気を持った行動を超す事で突破口が開ける。

テニス界の為、世の為に、適切な行動を期待する。

情報と金の問題2:メディアの再構築素案

『情報』を制する事が、民主的に優位に運ぶ最善策である事は疑い様が無い。『情報』は時には世論を動かし、国家権力である3権(立法・行政・司法)をも動かす力を持つ、即ち国家権力と並ぶ、時には上位になるポテンシャルがある。ならば、『情報』を扱う担い手であるメディアには、権力としての監視・牽制がなければ民主主義は独裁へと向かう危険性がある。

これは『言論の自由』を制限するという話では決してない。むしろメディアを監視・牽制する構造は、『言論の自由』を適切に保護する事にも通じるのだ。

現在のマスに属するメディアの偏向度合いは目に余るものがある。その実態はネット空間との論の幅を比較すれば明らかである。そこにはある一定の力、意思すら感じざるを得ない。

マスメディアの偏向疑惑が懸念される状況下でCLP問題や意味不明の報告と思われるコンテンツ攻撃など、一部の政治勢力・活動家などの勢力の動きが疑われている。『情報』の扱いに金の流れが伴った工作の懸念である。

歴史的には外交的妥協を模索する政府を、弱腰と非難し煽り続けたのがメディアであり、それに国民が扇動され好戦的な世論が形成され、クーデターも含めた実力行使もあり軍部が政府を動かし開戦に向かった。

歴史に学び、現状の偏向実態を鑑み、今こそ『情報』の担い手『メディア』を監視・牽制する法制度に舵を切り、新時代の民主主義の権力構造を模索するべきだろう。

<ネットメディアの処方箋>

ネットの特性上、『情報』の担い手としては、実は最も公平で両論併記、各論議論が可能な言論空間なのである。誰でも参加ができるハードルの低さ、尺の制限の緩やかさ、双方向性である事などが要因だろう。逆に弊害として、玉石混交である事、情報量の巨大さ故エコーチェンバーなどの受け手側の意図せぬ偏向による勘違いを生むリスクは高く、単独メディアの中で公共性を担保する事は困難である。

従って、公共性は政府発信のオープンデータなど裏付けが確かなものに限られるだろう。一方で公党や政治組織の情報発信は、より深い情報を対案との対比で示す事が可能なメディアとして有効である。

それ故、CLPが理念として掲げていた、公共性を民間のネットメディアに求めるのは困難である事を前提とするべきだろう。フェイクニュースという定義も立場によって都合よくレッテル貼りする傾向も強く、対峙すると言ってもその事で公平性を示している訳では無い。

そしてどの様な色が着いているか受け手が確認できる必要があり、その資金構成と編集方針を透明化し、資金やニュースソース、解説の方向性を明らかにする必要がある。ネットメディアであろうとも相応のお金はかかり、お金には大なり小なり色が付くのだから、金の流れ、構成を明らかにすることは透明性担保に重要な要素なのである。

つまり、資金の背景を明確にし、編集方針に加えて、編集者の思想信条も分かる様なコラム掲載などを義務付けし、どの分野でどちらの方向にどれだけ傾いているのか、透明化した上で、視聴者側が選択すれば良い。公平でなくて良い、偏向は当然、情報受信側がその事実を把握しておれば良いのである。そして、公開情報に偽りや、隠ぺいがあった場合に厳しい罰則が伴う法規制が必要だろう。スポンサーもその構造で集まる視聴者である前提で考え、企業イメージに色が付く事を理解して広告出稿するべきだろう。

ネットメディアはマクロで見ると実は最も健全化に向かうエネルギーを持っている。それもかなりのスピード感で。実は、ほんの数年前ネットの言論空間はかなりのレベルで左傾化していた。少し真っ当な発言をすると袋叩きにされる程酷い状態であった。それが現在はかなり改善されて両論、ウイング広い言論空間になっている。

これらの特徴を生かし、主要メディアに成長させるべく、制度改革を進めるべきだ。

<地上波メディアの報道に関する処方箋>

ワイドショーなども報道と位置付けた上で、ネットと同様に情報の傾き度合いの透明性が必要だろう。残念ながら、現在の地上波メディアは公平な情報、両論併記などの放送法の大原則を守っているとは言えない状況だろう。それなのに、公共性や公平性を掲げられているのは寡占状態が故であろう。

政府を監視し糾弾する事がメディアの役割との思想、筆者に言わせれば前時代的な思想の元、批判を目的とする批判に終始し、都合の悪い情報は尺の制限で省かれる。結果として、極めて偏向した情報になり、視聴者の正しく、客観的な情報を、様々な視点での議論を通じて、即時性と簡易性を伴って取得する環境を破壊している。そして問題が顕在化しても、寡占状態が故責任を取ることはなく、改善も為されない。

視聴率至上主義も、危機を煽り、政府を悪とする陰謀論を匂わせるエンターテイメントで部分的に稼げるだろうが、その事自体が若者のテレビ離れを促進させる事になっていると考えるべきだろう。

しかし、即時性と簡易性という長所は捨て難く、その事を活かしつつ、国家としての公共性や公平性を一定程度実現する再構築が必要だろう。

その為に、限られた国家資源である電波を使用する前提として、資本構成は外資を制限する必要があるだろう。情報を国家の権力の一つと位置付け、より世論形成力が強い即時性、簡易性を持つメディア、ある意味サブリミナル的な効果すら持てるメディアとして当然ではないだろうか。現行法制度にも存在するのだが、より厳格に、違反や虚偽、隠ぺいに対して厳罰化は必須だろう。

その上で、政府発信のコンテンツ、公党発信のコンテンツを明確に一定枠設ければ良い。それに関わる費用は一定程度税金で構成しても良いだろう。

<ぺーパーメディアは生き残れるか>

筆者の持論は、ペーパーメディアを決してなくしてはならないという事だ。もちろん、今の形態が良いという訳では無い。

ペーパーメディアの受け手側としての最大の利点は、全体感のイメージ把握、物事の重要性の大小把握、概要から詳細への検索などを極めて効率良くできる事だ。この同様の機能を他のメディアに求めるのは実は困難なのだ。

一方で日本の国益を損ねる国際問題を自ら火の無い所に煙を立てたのもこのメディアであり、日本の場合、電波系メディアの資本構成に漏れなく加わっている事も一旦偏向すると歯止めがかからない構造である事も大きな問題であろう。

更に、地方によっては地方紙の独占状態にあり、一定の方向性以外の『情報』が得にくい状態が発生している。これは『情報』を選択する自由の侵害に他ならない。

これらの問題を解決するには、まずは資本の独立性を担保する事だろう。同時に整理統合を進め、様々な資本の参入により情報のバラエティ性を高めて寡占状態を解消する。

そして個々の情報取得の選択性を高めるために、1紙だけでなく、複数紙のクリッピングをサービス化する事。個人の意思、思考で自動的に各紙から情報をセレクトし、パーソナライズされた紙面をオンデマンド配信する。技術的には各紙紙面をスキャニングOCR処理し選択した上で自動組版する。オンデマンドプリントが必要な場合は、郵便局インフラを利用しサービス化すればよい。著作権問題もクリア出来ない訳が無い。

更に隠し味として、偏った設定を個人がしても、ある一定レベルの公平性を保ったセレクトをシステム側で自動設定すれば、嗜好性を保ちつつ、両論併記、公平性のある対案も提供出来、地方インフラの問題での情報格差も解消される。

結論としてペーパーメディアはその利点を存続させる為に生き残らねばならない。その為に、デジタル化、サービス統合、資本再編は不可欠だろう。

情報と金の問題、メディアのスクラップ&ビルドが必要不可欠

Choose Life Project(CLP)というインターネットメディアに立憲民主党から約1500万円の資金提供があった件で、ネット空間は特大ブーメランと騒いでいるが、地上波メディアでは報道されない。その後の調査の結果、9億円以上の金銭がメディア関連や市民活動に流れている疑惑も浮上しており、全容は不明、というより第三者の調査でもない限り明らかにはならないだろうし、闇に葬ろうとしている様にも見えてくる。

地上波メディアは、Dappiの件では自民党の疑惑と騒ぎ立て、虎ノ門ニュースの動画を流用する等して、同ニュースより公開質問状が出される事態にまで至ったが、未だ無回答と聞く。そして、CLPに関しても沈黙。自己批判にも繋がりかねない故の沈黙と言われても仕方がない程のダブルスタンダードである。

メディアに公党から金銭が支払われる事自体は問題ではない。その費目は、宣伝広告のコンテンツ制作やコンテンツ発信、そしてスポンサーとしての支援等だろう。前者の場合は、党の名前が前面に露出されるし、後者でも名前が前面に出なければステルスマーケティング(ステマ)の疑惑が生じるので日本では違法ではないが(アメリカなど多くの先進国では違法)、基本的には避けるべきだろう。今回の場合、金の流れを代理店経由など迂回させており、隠蔽の疑いさえあるのだから、更に悪質との疑いがある。

そして、福山氏の発信を素直に読むと、「理念に共感しての支援」であり、当時メディア側発信によると「理念すらない」状態での立上げとあるので、CLP立上げ者の出身母体であるTBS報道特集の流れを汲んだメディアへの経営支援との疑惑が生じる。少なくとも資金援助により忖度は働くであろうし、番組内容に影響を及ぼすことはないという言い訳は通用せず、立憲民主得意の論調を借りれば、「忖度の無かった事の説明責任」いわゆる『悪魔の証明』が求められるはずだ。

そこは自省し、自身の行為を振り返るのならば、それは健全化の方向性として受け入れるべきだろうが、その兆候が見えてこないのは残念でならない。少なくとも説明責任を果たす事が最低条件ではないだろうか。

<メディアと金の問題>

情報に関わる不正な金の流れ、金を使って恣意的に情報を操作し、大衆を誘導しようとする疑いの行為は、それ以外にも数々指摘されている。

市民活動家への活動資金援助であったり、デモ活動を金で雇った動員で行ったり、テレビの街角インタビューで答える人が他局でも同一人物が繰り返しインタビューに答えているなど、やらせが疑われる事象であったりだ。

数々の疑惑があるが、全て金の流れを明確にして透明化すればあぶり出せる。

また、昨今のネット空間において横行する、異論の発信に対する『報告』攻撃での広告剥がし、最悪の場合BANというコンテンツ削除を目的とする行為。これが組織的な活動である疑い。もし、これらが組織的活動であれば必ず裏には金が流れている。

この場合は金の流れだけでなく、実際の『報告』という行為を公開条件にするか、少なくとも指摘する事由を明確にし、合理的な事由であることを前提としつつ、合理的と認められない場合、例えばユーチューブで人による審査で問題ないと判定された場合は公開されるなどの罰則を伴わなければ、再発を防げないし、公平性を欠く状態である事は間違いない。

政治と金の問題が未だに問題視され、多少なりとも違法性のある事案は発生している。本質的な問題は、金で政策の方向性を歪める行為が横行し、民主主義がエラーを起こす事だろう。その観点で冷静に考えると、メディアと金の流れの方が今現在問題性としては大きいのが現実ではないだろうか。それなのに、扱われ方は遥かに小さい。それは既得権益構造に対する抵抗勢力化しているからではないだろうか。

メディアとは、言わずもがなだが『情報』の担い手であり、『情報』事態が世論を形成させる大きな力を持ち、『情報』が民主主義の根幹を支える要素である。筆者はこの構造に対して『情報』を4つ目の権力と明確に位置付け、他の3権(立法・司法・行政)に加えて牽制する4権分立の法制化が必要と考えている。その入り口が金の流れを抑える事ではないだろうか。

その為には、「ネットメディア」「地上波メディア」「ペーパーメディア」毎にスクラップ&ビルドを前提とする大改革が必要だろう。

情弱な社会環境に対峙する決意

新年あけましておめでとうございます

今年は、私自身還暦という人生の節目を迎えます。昔は、還暦というと爺さんのイメージでしたが、いざ自分がその立場になると、まだ人生の折り返し点、やり残したことがあると感じている。これまでの経験、ノウハウを、今後は、何らかの形で社会にお返しをすることに費やす時間と認識を新たにしております。

昨年、一昨年の約2年間、世界はコロナ禍という、インフォデミックを経験し、未だ抜けきれないでおります。

PCR検査には偽陰性と偽陽性が存在する、それは感度と特異度という精度が100%でないからだ。小学生でもできる計算を行えば、検査で決して安心が得られる訳では無いのだが、いつの間にか人は安心を求め、検査に走り出している。

そして発熱しているにもかかわらず、検査で陰性と判定された後に安心して社会活動を始めるという例がまだ散見される様だ。あれだけ社会事例で、発熱後の検査で陰性とされた後に感染させる、クラスターを発生させた例が報告されているにも関わらず、いざ自分の事になると、検査で安心してしまう。

その個人は、悪気がある訳ではない。日本語が理解できない訳でも無く、知能が低い訳でも無い。しかし、人は安心を求め、誤った行動をとってしまう、弱い生き物なのだ。私は、それを『性弱説』で説明されると考えている。

許せないのは、人の弱みに付け込み、危機を煽り、時には自身のビジネス上の利益の為に人に不安感を抱かせる行為を公共の電波を使って垂れ流すことだ。あたかも、正義を気どり、多様性と言いながら、異論を許さない。人権問題を主張しながら、人権を侵害する行為を拡大する。最近の報道姿勢は目に余る状況であり、何か勘違いしているとしか思えない。

この様な社会環境で、弱い人間を支えるのは、自己防衛でしかない。そのためには、それを支える正しい情報が必要であり、情報を読み解く論理的分析力を鍛える必要があると確信している。企業においてはリスク管理であったり、危機管理、セキュリティ管理の領域を充実し、従業員の健全活動が活動を支える環境の構築が重要になるだろう。

私の残りの人生、微力ながら、所謂『情弱』な状態に陥らない為の個を育成し、企業環境構築に貢献できれば幸いと考えているので、引き続きご支援の程よろしくお願いいたします。

エレルギー問題の対応はバランスが重要

エネルギー問題は国家の安全保障にも通じる重要課題であり、本来国家として一枚岩になって取り組むべきなのだが、政局利用や活動家の具となり、本質的な問題をタブー視する傾向が強くなって久しい。更に、環境問題がここに重なってきて部分最適が進み、混迷が深まっている。

はっきり申し上げる、バラ色のエネルギーなど世の中には存在しない。それは物理学のエネルギー保存の法則に従えば自明なのだ。世の中の様々な事象は、このエネルギーの微妙なバランスによって現在の環境が成立しているのであり、そのエネルギーを他の形に変換して利用する場合、元のエネルギーバランスを崩す事に他ならず、偏れば必ず何らかの歪が生じる。従って、エネルギー利用には歪を最小限にするバランスが必要不可欠なのだ。漫画「ドラゴンボール」の「元気玉」の様に、少しずつ分けてもらって大きなエネルギーに変換する、そういった検討が重要なのだ。

この様に考えると、再生可能エネルギーが環境に優しい究極のエネルギーだという論調も基本の部分で間違っている。

例えば、太陽光エネルギー。パネルの設置による自然破壊、土砂被害の可能性も指摘されるが、それだけではない。そもそも自然の恵みで降り注ぐ太陽光があって地球環境が成立している。光合成により栄養源が生成され、太陽光熱は様々な自然現象を呼び起こす。仮に地球の何割かの表面を太陽光パネルで覆ったら、自然環境は劇的に変化するだろう。

水力発電も当初は水の位置エネルギーを電気に変換する、究極の再生可能エネルギーの様に期待されていたが、その実、自然災害のリスク以外にも、河川環境や下流地域の生態系等にも重大な影響を及ぼす事が分かっている。

変化が微小な僅かな利活用であれば問題が顕在化しなくても、量的に無視できなくなると予想できない何らかの影響が顕在化するのは疑い様が無い。しかも、人類の電力消費量は年々増加、日本もIT化を進めようとする中で電力消費量はこの先莫大に増加する事が報告されている。

更に、CO2削減、実質排出ゼロを目指すとなると、石化エネルギーの燃焼という手段は限定的にならざるを得ない。

以上の様な現実に直面している状況下では、あらゆるエネルギーをバランスよく利活用するべきなのだ。従って、根拠もなく、或いは根拠ある様に見せての原子力発電ゼロ化推進は無責任との誹りを免れないというのが筆者の基本姿勢である。

<リスク管理視点で見た原子力発電>

但し、リスク管理視点で見た場合、原子力発電の事故発生時の被害をどう考えるべきかは、大きな課題である。一度、被害発生した場合その規模は絶大で、発生確率が少々低くても、リスクスコアとしての「被害×確率」は高くなるのが必定であり、この点を考慮する必要性がある。どこまで安全対策を充実させてもゼロにはなり得ないので、リスクスコアは決してゼロにはならないのだ。

但し、福島原発事故以前ならば被害想定が困難で、ともすれば人類存続不能ともされる言質もあったが、各所での大小の事故を経験した今なら定量化する情報が存在するはずだ。是非今一度リスク管理の側面で客観的に評価するべきだろう。他のエネルギーのリスク評価と比較して実はそれ程大きくないという結果になるのではないかと想定しているが、極めて専門的な計算が必要であり、冷静な議論が必要だろう。

そして、何より危惧しているのが、技術力の低下だ。筆者が大学入試を受ける頃は、原子力工学は花型で、優秀な学生が集まっていた。今はどうだろう、その種の学部があまり見当たらない。これは、原子力忌避思想に縛られ、非難を受け続ける市中環境では、志望する学生が減少する状況に追い込まれざるを得なかった結果ではないだろうか。かつては、日本の原子力技術は世界に誇るべき水準であったが、今はどうだろう。

ましてや、原子力ゼロ、自然消滅と言っても、今ある原子力発電所廃炉や廃棄物処理には、長い時間が必要である。その為に、何世代の技術者が関わる必要があるのか、まだまだ優秀な技術力の育成は必要不可欠なはずだ。この様に考えれば、後ろ指さされる技術にしてしまっては先行きが危ない。それこそ、技術者不足、技術力低下は、リスク発生確率も、発生時の被害も高めるのは間違いない。

だからこそ、原子力技術を花形の学問にもう一度復活させる必要がある。幸いなことに、小型モジュール化など新技術が期待されている。この技術の実現性に疑問を投げかける前に、渡りに船だと、国家上げての強化、支援を高める事で総合的な技術力向上も期待できるのだ。実情を考えると、戦略的投資をしない手はないのだ。

<期待される水素エネルギー>

筆者はエネルギー問題の解決策の一つとして以前から水素エネルギーに注目していた。燃焼時に無駄な廃棄物も生じないクリーンエネルギーとして。

但し、水素はご存じの方も多いだろうが、取り扱いが難しい。危険で、保存にも膨大なエネルギーが必要だからだ。

エネルギーは、必要な時に必要な場所で必要なだけ供給できる必要がある。その為には、保存・蓄積、運搬も必要になる。水素は液化して運搬も可能だが、その取扱いには注意が必要になる。それらの問題を解決するのが、水素キャリアとしてのアンモニア利用なのである。

筆者は7年ほど前、このアンモニア利用に注目し、各種研究論文を読み漁った時期があった。その時、受験生であった長女も物見遊山で同様の文献に目を通し、自身の第一志望校にこの研究をする研究室を発見し、興味を深め、このテーマで小論文を書いたほど、その時期注目していた。そして現在、アンモニア運搬船が開発されるまでに至っている。

世の中には、否定論者も多く存在する。アンモニアは、燃焼時にNOxという有害物質が生成される危険性がある。そして、生成法として現状の主となるのが「ハーバー・ボッシュ法」であり、これには膨大な熱と圧のエネルギーが必要なので、その時点でエネルギー効率の悪さやCO2発生問題が伴うからだ。

しかし、日本の燃焼技術は世界トップクラスであり、安全な燃焼はそう難しくない。低エネルギー生成法の開発さえ実用化出来れば問題なくなるのだ。そして、アンモニアの生成が工業的に容易になれば、現在の主用途である肥料用途にも利活用が広がり、食糧問題の解決にも繋がる一挙両得なのだ。科学技術は、諦めず、目的に向かえば、不可能を可能にする。期待したい。

戦略的投資があって始めて経済成長が実現する

平均年収30年横ばいを打開するには、どうすれば良いか。

インフレターゲット2%目標が実際に実現出来れば、間違いなく経済成長が現実化しており、平均年収も上がってくるだろう。しかし、未だインフレターゲットに懐疑的で、反対勢力の攻撃もあり、財布のひもを引き締める緊縮財政論によるブレーキを踏む傾向が強い。結果として、先進諸国と比較して低成長のデフレ状態を打開できないでいる。

事業視点で考えると明確だが、投資無き所に成長は無い。投資を控え、緊縮財政を継続させると利益率の維持、改善は出来ても事業拡大、成長路線は遠のき中長期的にジリ貧に陥る。実際は、衰退事業に対する投資は控え、撤退戦略で生まれた余力を、新たな事業への資源投入に回す事で、継続的な成長を生み出すのが持続可能な経営だ。

国家運営においても同様、成長分野への投資を増強する事が必要不可欠であり最優先のはずだ。その為には規制緩和が重要になる。それらの投資は、資産となり、成長という果実を生み出す。

規制緩和は実は既得権益勢力の抵抗を受ける。衰退事業であろうとも、しがみつく既得権益勢力が、屁理屈で部分最適思考を隠して自己正当化し、規制緩和を妨害し新規事業を妨げる抵抗勢力となる。

加計問題の本質は、この既得権益と規制緩和の戦いであった。安倍元総理や政府、官邸の不正でもなく、それ自体が既得権益を守る為の屁理屈に、政府攻撃の政治利用が乗っかっただけと理解するべきで、未だに疑惑と言っているのは余りに浅はかだ。獣医学部が新設されず、獣医師が増加しない事で生じる弊害は計り知れなかった。決して動物に対する医療分野だけではなく、生物工学や感染症などの分野にも大きく影響する。この岩盤であった既得権益構造打破にどれだけのエネルギーが必要だったか窺い知れるが、筆者はその次に見えるのが医学部だろうと考えている。

今の医学部は富裕層でないとなかなか進学できない。学費が膨大な金額だからだ。だから開業医の子息が進学し家業を継ぐという医師の固定化が進み、増加させ過ぎない事で権益が保全される。その結果がコロナ禍での医師会や専門家の体たらく、上から目線の国民の緩みへの責任転嫁という非科学的な言動を許すことに繋がっている。更に、厚生労働省医系技官という形で異論を許さない構造を作り上げ既得権益構造が盤石になっている。

規制緩和し、優秀で志の高い学生が、障害なく医学を目指せる様に、門戸を開く事で、医療体制を抜本的に強化する事が出来るだろう。コロナ禍がその必要性を世に問うたというのが真っ当な考え方ではないだろうか。

<財務省の公式見解は日本はデフォルトしないである>

同様の視点で考えるべきが、財務省矢野事務次官の財政破綻の危機論だろう。会計論、金融工学視点から論理的に考えたら、余りにも稚拙な論であるにも関わらず、国家の行政トップの立場において堂々と主張が出来る事が信じられない。既に15年以上も主張を続け、マスコミも公には批判しない。それどころか、政治批判の具として財政危機を煽るのだから始末が悪い。

もし本当に財政危機であるならば、政府保有の資産を一部処分すれば良いだけだ。それは、自らの天下り先などであったりするので決して言及しないだろうが、それこそが既得権益構造なので、なんだかんだ言って焦点はずらすだろう。

何と言っても、財務省の外国格付け会社宛ての意見書として公式見解が発信されている。(https://www.mof.go.jp/about_mof/other/other/rating/p140430.htm)日本は財政破綻しない、自国通貨建て国債はデフォルトしないと明言しているのだから、財務省見解と矢野事務次官論は矛盾するのだ。これは国際的格付けに対する説明なので嘘偽りなどあり得ないし、万が一嘘であれば、国際的に非難を受けているはずだが、そうはなっていない。

つまり一般に考える様な借金でもなく、将来の子供に付けを回す訳でも無いのだ。

もうインフレターゲット2%どころか、4%など目標を引き上げて、達成まではプライマリバランスは一旦置いておき、財政出動をしてでも戦略的投資をするべきでなのだ。

<成長あっての分配>

アベノミクスにより株価が上がったのは、一部では株を保有する富裕層のみが得をした様に論じられている。しかし、これは大きな間違いだ。株価が上がるという事は、将来に明るい見通しが見えてきたという投資家の評価であり、今でなく先行きの明るさを示す指標だ。そして、株価が上がる事で利益を得るのは、株保有の投資家だけでなく、年金も含めた資金運用が好循環する事で多くの人に見えない形で循環してくるものだ。金融所得課税で富裕層から徴税するつもりが、寧ろ大衆課税となってしまう実態が報告されている事からも分かる様に株価上昇のご利益は大衆が受けているのだ。

つまり、アベノミクスは将来の明るい見通しである株価までは効果を発揮したが、その見通しに沿った成長投資が不足、消費増税もあって足踏みしたと評価するのが妥当である。であれば、自民党総裁選で高市候補が公約に掲げたサナエノミクスによる成長投資が実現すれば成長軌道を描けるはずだ。

成長あっての分配。至極当たり前の話であるが、分配が先とする社会主義的発想で語る政策まで語る党が現れた。成長の無い分配は、パイの奪い合いでしかなく、分配から決して成長は生まれない。一定の富を分配する事で社会は停滞し、貧困に陥ることは壮大なる社会実験が実証している。成長が無い分配は効果を生まないのは既に常識である。バラマキの分配が消費を喚起し景気を刺激すると言うのも、将来に向けての成長が無ければ、消費ではなく死蔵に回る。

ましてや、日本の格差は諸外国と比較して大したことはないという報告もある。上位1%の富裕層が持つ資産はたかだか全体の21%程度で、アメリカや中国などと比較しても3分の1以下との報告もある。分配して潤うほどの富など初めから無いのだ。

従って、経済成長を成し遂げることで全てが好循環する。その為に規制緩和での成長投資。自由と民主主義を標榜する限り、現時点ではそれ以外に選択肢は無いのであり、本質的には争点となり得ようがないのだが。

異論排除の原理主義は害、両論の論理的な公開討論が社会の健全化に

選挙直前のネット空間で繰り返されている現象がある。それは、保守系と言っていいだろうか、政治系の情報発信にBANと呼ばれるコンテンツ排除、広告剥がしが頻繁化している。

YouTubeなどレギュレーションが厳密に規定されているとはいえ、各情報発信コンテンツは、かなり表現を意識してコンテンツ制作されているのが実態であり、それを逸脱しているとは思えず、踏み込んだ内容は限定公開などの方法が使われているが、それでも多くのコンテンツ規制事例を耳にする。

AIによる文言監視などとの説明も聞こえてくるが、ビフォーアフターで実験的に確認しているコンテンツの報告もあり、その様な単純な話では論理的な説明ができないのが実態である。

YouTubeなど民間プラットフォームで意図的な偏向行為、レギュレーションの操作が行われるとは思えない。勿論、反ワクチンなどの情報統制の要請に応える事はあるだろうが、自社で意思を持った統制を行う事は基本的にない。

総合的に考察すると、『報告』という形を取った、反対意見潰しとの疑惑が浮上するのだ。

<ヤフコメ問題の実態>

ヤフコメがネトウヨに占拠されていると一部で報じられて、社会的意義が無くなったという極論まで電波メディアで発信されている。

筆者自身もヤフコメは少々閲覧していた時期もある。その際の印象は、『あべがー』『ガースー』等、民主的に選ばれた人物に対する最低限のリスペクトもなく、呼び捨てで誹謗中傷する様な空間であった。その批判の中身も、事実に基づかない、感情的で非論理的な決めつけの内容が殆どで、しかも記事が上がった瞬間に、その種のコメントで埋め尽くされる印象が強く、冷静で健全な言論空間とは程遠い状態に感じていた。同時に、何故こうも素早く、しかも大量に発信できるのか、不思議で仕方が無かった。

余りの状態に、筆者も、事実のデータを示し、冷静な議論を呼びかけた事もあったが、議論どころか、意味不明の誹謗中傷の攻撃も経験している。決してまともな議論ができる空間ではなく、余りにも偏向し過ぎで、最近は閲覧もしていなかった。

そこに、『ネトウヨが占拠』との情報が耳に入り、極めて違和感があったが、確認して見ると、確かに昔とは少々違っている様に見えた。『ネトウヨ』の定義は不明だが、単なる感情的な誹謗中傷よりも、論理的なコメントもそれなりの数が見受けられる変化があった。この状態を『ネトウヨが占拠』と言うのならば、誹謗中傷のストレス発散の場に、少々冷静な意見発信が増える事を良い事と思わない、つまり感情論の持ち主は多様な意見に不寛容で、異論に対して攻撃的性向を持つ現れとしか思えないのだ。

それでも建設的な議論というよりは、両論のコメ主が並立している空間という印象だ。

<反論・異論の公開討論が健全な社会を創成する>

エコーチェンバーという閉鎖的な集団内での意見が増長していく現象をネット空間の特徴の様に巷では言われるが、電波系メディアの方がその傾向が強いのが実態ではないだろうか。両論併記を遵守するメディアはほぼ皆無だろう。放送時間等尺の問題もあるかもしれない、反論で収拾がつかない状態を嫌うのかもしれない。電波メディアでエコーチェンバー状態をもたらす重要な役割を、専門家やタレントコメンテイターが果たしている。画一されたコメントで埋め尽くされ、深く考えず、自身で1次資料も見ず、様々な意見に耳を傾けず、単なる感想を、番組の主張に沿って発言する存在が、あたかも世の中の主意見であるかのような印象操作で錯覚を視聴者にもたらす。

その中で、自民党総裁選が様々な意見を討論する重要さを思い出させてくれた。その後国会が開かれたが、やはり国会は誹謗中傷に溢れ、本質的な論争にはなっていない。

そういう意味で、ネットの言論空間が唯一、両論が存在し、討論できる場ではないだろうか。間違いなく両論は存在する。だが、現状残念ながら、お互いが交わり討論される様な事はそれ程多くない。本来、ヤフコメやSNSはその機能を担う筈なのだが異論をすぐにブロックして自己満足してしまう状態だ。

そういう意味で注目すべき事案が発生している。それは、ロンブー田村淳氏と作家竹田恒泰氏の選択的夫婦別姓における公開討論が行われる事である。

事の始まりは、田村淳氏が自身が賛成する「選択的夫婦別姓」に対してアンケートを取った所、自身の意見と異なる反対意見が多数を占めてしまい、あたかも反対意見を諭すように、反対して何の不利益があるのですかとアンケートを再度取った事に始まる。

個人がどの様な思想信条を持とうと、それを発信しようとそれは自由である。だから、最初のアンケートまでは何の問題も無く、その事実を受け入れれば良かった。ところが、自身の意見が通らない事に、異論を認めず、自身の影響力を行使して自意見に誘導する様なアンケートを実行した事で、多くの非難を受けた。

そして純粋に何が反対理由なのか、何が弊害なのか、それを知りたいだけ、公開討論を誰か受けてくれないかとの訴えに対して、竹田恒泰氏が名乗りを上げた形になって近々実現する様だ。

この『選択的夫婦別姓』は、イメージ先行でその中身があまり語られていないので広く周知されていないのが実態だろう。表向きは、結婚時の改姓によって多くの女性が不利益を被るという事由であるが、その実様々な弊害が伴う事が余り語られていない。最大の問題は戸籍制度の崩壊だろうし、子供の姓を決める為の係争が生じ得るのもリスクだろう。

勿論、戸籍制度には影響ない筈だとの意見も田村淳氏はお持ちの様だし、日本維新の会の様に戸籍制度を維持する選択的夫婦別姓を主張する意見もある。顕在化しない事象も含めてリスクがある事も主張しつつ、通称使用を拡大する事で本来の目的は達成できるとする自民党案(高市政調会長の総裁選時主張)が現実的であり、それでも不利益が生じる事例があれば対処していく事の方が現実的な落とし所とするのが竹田恒泰氏の立場だろうか。

『選択的夫婦別姓』に対して、「なんで自由に姓を選択できない」「男女差別だ」というイメージ先行の感情論は根本的に本質からずれているが、残念ながら現時点で巷の認知度はその程度である。田村淳氏にしても、そのレベルから推進派の意見だけを聞いて反応している様に書き込み内容を見る限り窺い知れる。是非、反対意見にも耳を傾け、視野を広げる機会にして欲しいし、影響力のある者同士の討論が公開される事で多くの人にも同様の周知が為されることを期待する。 あれだけテレビでゼロコロナ路線の主張を繰り返していた立川志らく師匠が、木村盛代氏と対談をした後、別人の様にゼロコロナはあり得ない様に180度変わられた様に、多くの人が異論に耳を傾け討論し、論理的な思考を取り戻すことが望まれるし、それが出来るのはネット空間だろうと確信している。

財務省の闇に対抗し政治は成長戦略に舵を切れるか

財務省の矢野康治次官の「文芸春秋」への寄稿が話題となっている。簡単に要約すると、国家の借金が増えており、プライマリーバランスが破綻して、今にも日本は破綻するという論。その様な状況での赤字国債発行、経済対策などは自殺行為であり、緊縮財政、増税路線を是と匂わせる内容である。

この論は、実は今に始まったものではなく、10年以上前から一部で囁かれていた。今直ぐ対策を打たないと破綻すると、しかし、何故かまだ破綻していないし、国際的格付け、信用も保たれている。とてもデフォルト、破綻が起こる国家として扱われていないのが現実である。

この矢野財務次官だが、この件以外にも様々な話題を振りまいてくれている。スーパーでの『ポリ袋ハンター事件』とでも言おうか、生もの等を個別に入れる無料のポリ袋を必要以上と思われる量を持ち去っている。

レジ袋有料化になった目的を考えると、このポリ袋も必要最小限に抑える事が必要だと、子供でも分かる事だ。スーパー側もこの種の行為が増加する事を問題視しているのも事実である。しかし、当人は、「商品は買っているから問題ない」と言わんばかりの発言までしている。官僚トップの立場として、あり得ない感覚の持ち主である事が窺い知れる。

またまた、噂レベルだが、この人物、目的達成の責任感の強さからか、目的の為には手段を択ばない様な噂もある。本来、官僚は法に則り、政治の決めた政策の方向性に沿った行政を執り行う。民主主義において、法や政策の方向性は政治家によって決定される。そして、政治側も現場の問題を熟知している筈の官僚の意見も吸い上げ、政策の方向性を定める。

ところが、この方、自分の考えを通すために、マスコミへ情報リークして世論を誘導するような行為が囁かれている。勿論、多くの官僚とマスメディアの持ちつ持たれずのズブズブの関係で行われている氷山の一角かも知れないが、テレ朝の玉川徹氏により匂わされた時点で、少なくとも説明責任が生じていると考えるべきだろう。そして、今回の月刊誌への寄稿である。責任を問われるべきではないだろうか。

<借金で破綻するは間違い>

借金というと一般人からは聞こえが悪い。イコール悪と扱われがちだが、浪費ではなく投資に向かう借金であれば、資産が残り、投資効果も期待できるという事が一般人にあまり理解されていない。

失われた30年と言われる時期に、緊縮財政に舵を切り、投資が減退する事で何が起きたかを考えれば明確なのだが。

企業経営の視点で言わせて頂く。古い機械設備を更新せず、騙し騙し稼働させれば、償却も終わった設備が稼働した分だけ目先の利益が増える。資材調達に関しても、非論理的なコスト削減要求を繰り返す事で目先の利益を生み出す。しかし、その結果何が起こるか。設備は老朽化し設備効率は落ち、品質も生産性も、時には安全性も低下する。サプライチェーン全体のデフレマインドを誘発し成長も阻害される。

本来であれば、設備は投資効果を前提に更新する事で、償却負担で目先の利益は圧迫しても設備効率を高め、長い目での成長を促進する。サプライチェーンも新たな開発投資で品質も含めた総合効果を目指す事で、生産性向上、利益拡大に繋がるのだ。

投資を減退させることは、資本主義社会において衰退に向かう以外に無いのが現実であり、それは国家でも同じである。

実際に自民党の高市早苗政調会長が10月10日の番組で真っ向からこの財務次官の論を批判した。

https://news.yahoo.co.jp/articles/093064d3e0d1c469c9af60f293b40cedb6562c01

その中で名目成長率が名目金利を上回る状況で財政は改善すると正論を述べた。

また、元財務官僚、嘉悦大学教授、数量政策学者である高橋洋一氏も真っ向から批判した。(緊急配信の為音声音量に不備があるが、聞こえる範囲でも充分に内容は把握できる)

簡単に言うと、BS(バランスシート)で国家財政状況を示し、財務次官がP/L(損益計算書)だけで説明しようとする欺瞞を非難している。

経営状態を評価する為に、BSとP/Lで確認する事は、企業人であれば、最低でも管理職になるまでに数字が読み取れるように教育を受ける。当然経理部門や、事業戦略系の部門ではこの数字が無くては、経営者が経営判断する際の判断材料提示が出来ない。

ましてや、日本は通貨発行権を有し、その円は国際通貨となっている数少ない国家である。

失われた30年は、成長投資を積極的に行わなかった事により、生産性が低下し、その間、成長投資し続けた諸外国との差が発生しているのが実態である。無論、何の意味も無くバラマキ、効果の無い浪費が良い訳では無い。しかし、投資の無い所に成長は無い。この原理原則を誤ってはならない。

今現在、実行するべきは、増税による財政再建ではなく、積極成長投資による成長促進であると確信している。この財務省からの攻勢に政治が大所高所に立った英断が必要になってきているし、国際社会は注視している。岸田政権が乗り越えるべき最初の難題であろう。

埼玉県でエスカレーター条例施行、目的は達成できるのだろうか

日本人は人に決めてもらわないと、自信を持てない傾向が強い。自分の頭で論理性を保った思考による判断が苦手で、無意味なルールが定められても疑わず受け入れがちだ。特に、安心だとか平等だとか平和という誰も反対できないキャッチフレーズをベースにしたルールには異議を唱える事を憚る。埼玉県の『エスカレーター条例』も同様と断じざるを得ない。

日本エレベーター協会報告では、2018~19年のエスカレーター事故が全国で1550件となっている。更に、その内訳は、手すりを持っていなかったり、歩行中につまずいたりして転倒する「乗り方不良」が805件(51.9%)となっている。

この1550件、或いは805件という数字をどう考えるか。勿論、安全第一の観点で対策を打つことに問題性がある筈がない。しかし、優先順位はどうなのだろう、また、歩行禁止による弊害が総合的に検討されているのだろうか。

ちなみに、交通事故は現在、過去最高の4分の1まで死亡事故を減少させるまでに至っているが、それでも死亡事故で4000人規模だ。その状態でも車を動かすな、自電車で走るな、とは決して言わない。

階段の事故も相当レベルで多い。統計データとしては様々な観点があるが、不慮の事故として死因のトップ10に入る程多いのだ。企業の安全対策、労災防止観点でも、階段の転落は絶対に見逃せない項目である。だから、下り優先、手すり設置などの対策が実施されるが、それでも階段を歩くなとは、絶対に言わない。

それでもエスカレーターを歩行禁止としたのだ。果たして歩行禁止でどれだけ安全性が高まるのか、その効果数値も発信されずにだ。その状態で、禁止行為に対して罰則の必要性に関して議論が為されている。何でも直ぐに禁止、直ぐに罰則、これが正常と言えるのだろうか。

エスカレーターの安全性を体感的にヒヤリハットで考えると、『降り口で立ち止まられての衝突』『隙間に挟まれてしまう』『ベビーカー、手押し車の取り扱い不備』『カバンなど幅広く保持され右側通行者が衝突、或いは避けての転倒』『左側乗降者の急な右側への移動での接触』『乱暴な通行者との接触』『スマホ見ながらの注意不足通行による接触』等が挙げられる。他にもあるかもしれないが、歩行禁止でこのどれだけが防げるのだろうか、他にもっと簡単で有効な方法があるのではないかと疑問である。歩くことが問題ではなく、乱暴に歩く事が危険であり、それはエスカレーターに限った話ではない。また、降り口での立ち止まりなどは、歩行禁止で寧ろ増える可能性は無いのだろうか。

元々、エスカレーターの右側を空けるのは、『急いでいる人の為』という達成すべき目標があった。現実に急いでいる人が存在する事は否定できないのに、公共の場では急ぐな、急ぐことが悪だ、罰する、と言って社会的に受け入れられるのだろうか。歩くことを禁止したとして、急ぐ気持ちを禁止する事など出来様が無く、余計にイライラ、ストレスは溜まるのではないだろうか。

車は、追い越し車線を急いでいる車が追い越しの為に使う。追い越し車線を無くせばいい、追い越しを禁止にすればいいでは社会環境は保てない。禁止すべきは『煽り運転』であろう。エスカレーターも同様では無いのだろうか。そして、禁止行為を明確にして、過失であろうとも注意対象とするレベルの話ではないかと考えられる。安全対策として打つべき手は、歩行禁止ではないだろう。

どうしても、歩行禁止にして、急ぐ人の廃絶を目指すならば、両側に立てば良いだけだ。何故か、多くの人は急いでいる人がいなくても、左側にしか立たない。どんなに混雑していても右に立たず空けている。こんな無駄をして、ラッシュ時の乗り口付近の混雑という危険な状態を生み出している。同時にその混雑は、急ぎたい人の通行を阻むパラドックスに陥っている。全員が左右バランス良く立てば、輸送能力が倍加し、混雑も少しは解消する。まずは、そちらを是正するべきでは無いのだろうか。

世の中には、目的を忘れてしまい、守る事そのものが目的化してしまっている様なルールが多数存在する。それらは、本来の目的達成が覚束ないだけではなく、弊害としてのリスクを生み出す。それどころか、そういうルールが乱立する事で、本当に守る必要のあるルールの優先順位、重要度が相対的に低下してしまう。

何の為にルールを守る必要があるのか、その事を一人一人が論理的に思考し理解する事で、現実には様々なイレギュラー事象が発生する社会活動においても、ルールの目的が達成できる。思考停止する事は、リスクを増大させる最大の要因なのだ。

リスクを取らない事が最大のリスクだ

話題のCM『UQUEEN』のワンフレーズ『リスクを取らない事が最大のリスクだ』は、マーク・ザッカーバーグの名言を捩ったものであり、リスク管理の視点では究極の課題でもある。

実は、巷で吹聴される『ゼロリスク』志向の問題は、このリスクを取らない事によるリスクなのである。リスクというと後ろ向きのイメージを持ちがちだが、チャンスを掴むためにはリスクは必ず付随し、リスクゼロは、即ちチャンスゼロを意味する。また、リスクは一通りでなく、複数のリスクが共存し、そのバランスで全体最適を図る必要がある。一つのゼロリスクで語るのは愚の骨頂なのだ。

国家運営や企業、組織経営において、リスクは決して単一ではない。複雑に絡み合った環境で複数のリスクが相互関係も持ちながら存在するのである。従って、単一のリスクをゼロ化した所で、その結果生じる他のリスク増要因も現実に存在するのだ。本来であれば全体最適思考で全リスクを総合評価し、バランスが取れたリスク対応計画が必要になるのだ。

<ゼロリスクの弊害実例>

現在の新型コロナ対策を前に進ませない最大の負の要因が『ゼロコロナ』思考と言われている。政府分科会は、感染リスクばかり殊更喧伝し、行動制限、私権制限、自粛の必要性ばかり吹聴するが、一方で発生する経済リスクに関して一切論じない。言葉を選ばず言うと、『自粛させても金さえ渡しておけば良い』とでも言わんばかりに聞こえる。

実際、政府分科会は経済リスクなども総合的に分析する為に、経済の専門家も途中から加わっている。筆者は、この経済専門家が巷に発信するのが感染抑止策ばかりで、経済影響等の発信が無い事を批判してきた。しかし、最近になってこの経済専門家より、分科会で経済リスクに関して発言すると、「それは他でやって欲しい、ここは感染リスクを話し合う場だ」と言われ相手にされなかったと漏らしている。つまり、経済専門家は加わっていても意見の言えない状態で検討のバランスを欠いていたのだ。

経営の立場で考えて欲しい。自らの経営判断を行う為の、情報分析、整理する部門が偏った志向でバランスを欠く状態であれば、信頼できる情報とならず経営判断を誤るだろう。偏っている事を問題視し、バランスを図る為の人材を投入する人事を発動しても、抵抗勢力に囲われ期待の働きが出来ない状態であれば次に何をするべきか。

この抵抗勢力への対峙の仕方は、それだけで何冊も本が書ける内容でもあり、簡単に語れる訳では無いが、どちらにしても対峙して解消するのが最大の経営課題となる。

そして、休業した場合のリスクは決して金銭だけで賄えるものではない事ぐらい素人でも分かるはずだ。固定客の離反や取引先との信頼関係、設備の保全や老朽化防止、事業しているからこそ見える課題も埋もれてしまう等、事業を回しているからこそリスク対応ができる事項も多いのである。

政府分科会に話を戻すと、『コロナ感染リスク』だけを検討するだけでなく、『経済リスク、経済死』等もバランス良く評価する機能が必要になる。今の分科会がその機能を果たせないなら、権限者の行うべきは、人事刷新か組織改革でしかない。ましてや現組織構成員の様々な不正疑惑と説明責任を果たさない不誠実な姿勢が露呈しており、私であればスクラップアンドビルドして、判断できる分析情報が上がる状態に舵を切るだろう。

<日本型マネジメントPDCAがリスク管理でも必要>

リスク管理とは、考えられるリスクを評価する所から始まる。重要なのは、発生確率と発生時の被害であり、出来うる限り数値で夫々算定し、その積をリスクスコアとする。リスクスコアが一定数値を上回った時点で自動的にリスク対応計画を求め、リスク低減策が実行される。このリスク低減策には、当然ながら発生確率を下げる策と、発生時の被害を縮小する策と二通り存在する。低減策が実行された結果として、実際にリスクがどの様に変化したか再評価し、残ったリスクを残留リスクとして更なる低減策が必要か判断する。これがリスク管理のマネジメントサイクルでありPDCAなのだ。

勿論、これはマネジメントであるので、要所要所での経営判断、経営レビューが必要となり、時には経営の意思として、リスクスコアが低く評価されていてもリスク対応計画を求める事もある。これは経営の方針であるので、その様な判断がある事が寧ろ健全なのである。

この観点で新型コロナ対策を考えると、最大の間違いは、リスク評価を誤っている事だろう。特に問題なのは、発生確率を一切評価していない事だ。『かもしれない』ばかりで、可能性があるだけで、あたかも発生確率が高い様に訴え続けている事。これではリスク評価を間違いなく誤る。

同時に、リスク低減策を実行した場合の新たな発生リスク(経済リスク等)を同じテーブルで評価していない。そして極めつけは、PDCAのC、チェックを一切実行できていない事だろう。

実は、このPDCAサイクルとは日本的マネジメント手法である。それは、終わりなく、常に改善しながら回り続ける、季節感で言う春夏秋冬、死生観で言う輪廻転生なのだから、文化的にも日本文化が馴染みやすい筈である。大局的にある、終末思想、マルクスなど究極の理想郷を追求する思考とは根本的に異なるのである。

巷では、エドワーズ・デミングが提唱したとされているが、実態は、日本科学技術連盟が確立し、品質保証などの分野で日本型経営として定着させ、トヨタ生産方式、カイゼンを普及させ、『JAPANasNO1』で激賞されるなど世界の先頭を走ってきた。

その後、ISO認証取得の運用形骸化という問題もあったが、マネジメント運用に問題がある訳ではなく、マネジメントサイクルを回す事自体は見直されてきている。

資本主義社会として、成長を続けるために、経営の意思を込めたPDCAを回し続ける事こそ、新たなイノベーションも生み出し、継続成長を促し、同時にリスク対応も確実に行える基礎となるだろう。