侵略戦争が招く悲惨な現実を見て思考停止してはならない

ウクライナに侵攻したロシア軍が首都キーウ周辺から撤退し、近郊ブチャでの惨状が明らかになり世界が悲しみに包まれた。その事を伝えつつ、2022年4/6放送のワイドショーにて、何のため?と疑問を投げかけるシーンがあった。常識的に考えれば、こうなる事は容易に予想できた事なのにだ。

もちろん、現時点では悲惨な殺戮の結果としての映像が流布している状態であり、その深層部分に関しては今後の慎重な調査が必用であり、軽々しく語れるものではないのも事実だが、可能性として論じることは避けるべきではないだろう。

それは、可能性を論じることで、実態を解明する道筋にも成り得るからだ。受け身の姿勢で、調査結果を待ち、それまで思考停止と言うのでは問題への対処が遅れるだけでなく、例え調査結果が出たとしても自身の思考なく丸呑みするだけになる危険がある。あくまで一人一人が問題意識を持ち、論理的に思考することで、その考えが集約され対処が為されるべきと考える。

<悲惨な殺戮が行われた実態は>

都市制圧を実行する事を普通に想像してみれば分かるだろう。当初言われていた様な、ロシア軍を解放軍と崇めて迎え入れるのなら別だろうが、その場所は敵に溢れている。侵略なのだから当たり前なのだが、その事すら思考停止しているように思える。

侵略される側の立場でも考えてみる。一般市民と言っても、今回の様な短期間で逃げ場所、逃げる手段が確保できる筈も無く、侵略者が入ってくるならば、まずは自分達の命を守ろうとするのは当然だ。投降して命が助かるとは思えないだろうし、隠れられれば隠れるが、隙があれば反撃も試みるだろう。あくまで自分達の命を繋ぐために。

侵略者側は、この様ないつ反撃されるか、どこから攻撃されるか、分からない究極の状態で都市制圧する為には、慎重に見極めながら適切に踏み込んで行って制圧するのに、国際法上の戦争犯罪を犯さない様に実行する為には、相当な時間と労力、危険が伴うので、無差別攻撃で制圧する方法が簡単で攻撃側のリスクも低くなるのだ。しかも、侵略側のロシア軍の編成自体、潤沢な体制とは言えず、過酷な任務を強いられていたのも現実であろう。

20世紀型の戦争の姿だが、余りにも犠牲が大きく、悲惨な為に、第二次世界大戦後に戦争犯罪として、侵略戦争や国際法に違反する戦争の計画・開始・遂行の責任に関する罪(平和に対する罪)、一般民衆に対する大量殺人・迫害など人道に反する行為の罪(人道に対する罪)が加えられたが、ルールがあれば守られると考えるのは浅はかと言えよう。

つまり、このルールを守る限り、そもそもの侵略も禁止事項であり、更に都市制圧は実現が相当困難なのだ。だから侵略するなという、それ自体抑止になるのは間違いないが、逆に言うとルールを破った侵略が決断された時点で、他のルールも守られないと考えるべきである。その方が味方軍の損耗を最小限に作戦実行できるからだ。

かくして、前時代的虐殺が実行されたと考えられる。

そして、この現実はデジャビュ―の様に、過去のソ連からロシアにかけて行われてきた歴史の事実が思い出される。当事国は否定している様だが、その否定する論旨も少々矛盾を感じる内容が多い。最終的な結論は、調査を待つ必要はあるだろうが、現時点でも、ある一定の結論が導かれても仕方がない状況だろう。

<命を懸けて戦う戦闘員への報酬>

実はそれだけではない。20世紀、第二次世界大戦以前どころか、中世の戦争の様相が見えるのだ。

戦闘員は命を懸けて戦う。大義を感じ、主君への忠義で命を捧げる様な綺麗ごとではない。命令とは言え、命を懸けるに相応しい戦果が無ければ戦闘員の統率などとれるはずがない。

戦国時代なら首級を上げる事で、立身出世や土地などの報奨が得られる。というのは表の歴史で、実態としては、攻め落した地域の一般人からの略奪、拉致しての人身売買を認める事で、戦闘員の働きに報いるという痛ましい現実が存在した。もちろん、これは中世の負の歴史なのだが、今回のロシア軍の行状を見る限り、同様の状況が暗黙の了解であったかもしれないと考えられないだろうか。

国際社会には、第二次世界大戦後の秩序どころか、中世そのままの戦争観を維持し実行する国家も残存している事は疑い様のない事実であり、目を背けてはならないだろう。

<平和ボケから目覚めなければならない>

第二次世界大戦後、冷戦構造による戦力バランス拮抗で一定の秩序は保てていた様に見えるだろうが、それでも中東やアフリカなどでの紛争は絶えなかった。我々が、自分事に感じなかっただけであり、ウクライナ侵略は平和ボケに浸る日本人に現実を突き付けた。ここで目を覚まし、我々が侵略を受けない為には、どうすれば良いか、真剣に考える必要がある。いや、既に不当な侵略を許し、不当占領されている固有の領土も複数存在する。

攻めて来られたら、逃げの一手だと相手に思われれば、相手の侵略を容易にし、招き寄せる結果に陥るだろう。容易に攻めていけない、攻めればとんでもないしっぺ返しを食らうと本気で相手に警戒させる事が抑止力である。そのため、使わない力であろうとも、いつでも使える力があると知らしめ、実際に起きた場合に遅滞なく対応できる様に普段から訓練を積んで準備を怠らない事が、悲惨な侵略を防ぐ唯一の方法であろう。

繰り返すが、戦後秩序を守る国際ルールがあっても、侵略する国は守らない。話し合いで防げるなら苦労はしない。話し合いするにも、双方の譲歩とWinWinを達成させる為には侵略した方が早いと思わせない事が必用であり、それなしの妥結など夢物語だろう。

専守防衛とは、侵略が現実に行われると確認出来るまで戦わない事であり、その時点で本土は少なからず被害を受ける。侵略は起きてから逃げられるものではなく、悲惨な結果が待っている。だからこそ、侵略されない、侵略させない、侵略しようとも思わせない国家になる必要があるのだ。

平和ボケはあらゆる分野に悪影響、エネルギー問題も

令和4年3月22日、東京電力と東北電力管内で「電力需給逼迫警報」が発令された。

実際、100%を超える需要に対して供給のバランスを綱渡り的にかろうじて保つために、揚水発電が使われた状況で、しかも余力は無かった様だ。あるワイドショーでは「その様な状況だとは知らなかった」「もっと早く知らせてくれないものか」など、余りにも無責任な発言のMCやタレントコメンテイターに不快感を抱かざるを得なかった。

事実関係を簡単に整理しよう。

民主党政権時に超法規的政府要請により原発は稼働停止し、脱炭素・脱化石燃料の流れで火力発電設備は更新が滞り、休眠設備まで稼働させて急場を凌ぐ状況だった。その後供給側の状況は大きく変化していない。

一方で需要側は大きく変化している。省エネ効率を向上させる技術開発、製品化は大きく前進し、デマンド監視システム導入によるピークカットなど、企業においても様々な省エネ対策の設備投資を活発化し、エネルギー削減施策を行ってきた。

その結果、需要は拡大しているものの、省エネ・節電・効率化で絶対量としては最小限に抑え、かろうじて綱渡りが出来ていたのだ。しかし、この状態は、通常考えられるリスクの顕在化により、危機は起こり得ることを予てより警鐘が鳴らされてきた。実際に2018年9月に北海道でもブラックアウトの危機は訪れた。

その様な状況下で、元首相5人組等の一部の非論理的、非科学的な「再生可能エネルギーで対応可能」「原発は無くて大丈夫」という論が、大義名分である「環境」「安心」を盾にして、実しやかに叫び、現実から国民の目を晒し続けたのではないのか?マスコミは、両論併記せずに、これらの論を拡散し、或いは都合の悪い、原発稼働の必要性の論には目を背け報道しなかったのではないのか?

それを「知らなかった?伝えてくれなかった?」ふざけるにも程がある、マスコミが知らせなかった、伝えなかっただけだろう。

<エネルギー問題は今に始まった訳では無い>

まず前提として抑えておきたいのが、エネルギー需要はこの先大きく増大するということだ。デジタル化していく環境、セキュリティ安全保障上の問題でデータセンタの国内化が必要不可欠な状況で、現状とは桁違いのエネルギー需要が生じる。

つまり、現時点で綱渡りしている様では国家としてたちまち危機に陥るリスクが高い。コロナ禍で喧伝された様な「何もしなければ42万人死ぬ」と同様のロジックで語れば、最悪のシナリオは、凍死、熱中症死、入院加療時の治療不備、貧困による餓死、国防脆弱化による侵略を受け大量虐殺など、桁違いの被害も想定できる。もちろん、コロナ禍と同様「何もしなければ」というのは、あり得ない前提なので、その場での対処は実行され被害は抑えられるだろう。しかし、それが後手後手の泥縄方式であれば被害は無視できなくなるので、リスクに正面から向き合った根本的なリスク低減策が必要不可欠なのだ。

エネルギーを調達資源と考えるならば、偏ればあらゆるリスクが生じる。1極集中せず2重化、いや多重化することが安定調達の基本である。加えて、需要の量に相応する規模の調達が求められ、需給の変動に対応できる蓄積、需要地への適時運搬、デリバリも大きな課題なのだ。

多重化に関しては、例え再生可能エネルギーでも一極集中するのは危険だという事だ。エネルギーである限り限界はある。太陽光であっても、風も地熱も、無限ではない。既に存在するエネルギーは自然が吸収し環境を形成しているのだから、一部を別の形に変換すれば当然ながら、自然への供給量は減少する。僅かなら影響は無視できても、増えれば必ず自然環境変化を起こす。これを一般的に自然破壊と呼ぶ。環境に影響を与える限界は未知だから、多重化で一つのエネルギー源への依存度を少なくするのが安全なのだ。

従って、再生可能エネルギーを過信せず、原子力、火力(石炭石油ガス)、水力など可能な限りバランスを保つべきなのだ。

そして現実的には、現時点の技術レベルと需要供給量の実態を元に考えるべきである。

現時点の再生可能エネルギーで需要の大半を賄うのは難しい。将来、開発され、効率化され、絶対量が安定確保できる可能性を否定はしないが、現時点では無理である。しかし、原子力発電、火力発電ならば可能なのだ。その現実から目を背けるべきでない。

そうやって考えると、ブラックアウトするリスクに備える優先順位は

  • 原子力発電の再稼働
  • 火力発電所の設備更新、高効率発電設備の置き換え、増設
  • 再生可能エネルギーや小型モジュール等の新技術研究開発強化

の順に本気でエネルギー政策を再検討するべきであろう。

安全保障面から見た、絶対量の安定的確保と自給率向上も検討に必要な観点だろう。

<日本の技術力がカギを握る>

原子力発電に関しては、様々な感情的な反対論ではなく、冷静かつ論理的に現実論を展開するべきである。まず、現状ある設備は、安全基準をクリアした所から早急に稼働させるべきだ。テロ対策なども必要に応じて後からでも防御設備、運用改革をすれば良い。リスクがあるから出来ない、ではなく、リスクを低減しながら安全に運用するのがリスクマネジメントなのだ。

そして、将来を見据えて、日本が誇る最先端の技術力を失うべきでもない。軍事研究忌避、原発忌避の感情が蔓延れば、優秀な技術者は国内では育たず、海外に流出するだろう。学生も専攻しなくなる。それ程危険な事は無いのだ。技術力を失えば、現在の原子炉の廃炉や破棄物処理も対応力が無くなる事を忘れてはならない。技術力が継承されれば、最新の技術を開発し、更なる安全性と経済性も追求できるのだ。

そして優秀な技術者が育つ環境になれば、小型モジュールなど未来型の開発も安全に推進出来るのである。

再生可能エネルギーの最大の課題は蓄積と運搬だろう。エネルギー生成、変換自体は安定しないのは当たり前だろうが、効率的な蓄積、運搬性が高まれば可能性は高まる。筆者の本音を言えば小規模地産地消の形が全体のバランスを埋める有効な手段と考える。

逆に言うとその課題が解決されるまでは補助エネルギーでしかないのが実態だ。大きく期待すべきではない。

蓄積とは、蓄電池だけでなく、水素やアンモニアを生成し蓄積するのも有用、運搬も可能なのだ。そうなれば、内燃機関への応用も展開できるだろう。

火力発電を脱炭素で忌避する傾向も冷静に考える必要がある。再生可能エネルギーと比較して現実的にエネルギー効率や脱炭素など対抗しうる技術力はある。廃棄物処理の比較も同様だろう。

日本の技術力による高効率石炭火力発電は世界に誇るレベルである。少なくとも切って捨てるべきではないだろう。同じ理由で内燃機関の技術も日本が世界に誇るレベルであり、電気自動車と比較しても総合的には負けない環境性を有するエンジンも存在し、更に発展できるのだ。

日本の技術力を封じる戦略に振り回されるだけでなく、本来の課題を解決する日本の技術力を世界に示すべき時代なのだ。

情報論理分析の要諦、分かり易い情報とは?

企業内の業務遂行時に、自身の業務成果を資料として残す。また、自身の業務遂行において過去の他人の実績を参考にするために過去の資料を紐解き、分析して自身の業務に役立てる。当然の業務遂行上の規範である。

ある日耳に入ってきたのが、過去の資料が分かり難く、読み解くのに当時の担当者に何度もヒアリングするなど苦労したので、他人が見て分かり易い資料の作成を心がけよう、との事だった。しかし、言わんとすることは正論でも、それでは精神論でしかなく、結局何も改善しないと言わざるを得ないのだ。

分かり易い資料とは、具体的にどんな資料なのだろうか?

<資料が分かり難い原因は情報の中身?>

一言で分かり易い資料といっても、具体的にはどの様なものを指すのだろう。巷のハウツー本では、箇条書きにして、図表など一目見て感覚的に認識できる様にだとか、テクニックは語られている。しかし、それだけでは情報自体の品質は保証できない。情報を伝えるべき資料であれば最優先するべきなのにだ。

情報と言う観点で言うなら、あらゆる情報が満載された情報に不足ない資料は、読み手に取って極めて分かり難いだろう。プロセスを割愛したグラフィックや図表を使えば視覚的に理解し易いが、そのプロセスの誤謬性には気付き難くなる。

一方で、全ての必要情報が分かり易く論理的に整理されてあっても、読み手側の読解能力不足で誤った解釈をしたり、自明である推論すら、明確に記述されておらず曖昧と資料の責任に転嫁する場合もあるだろう。

そもそも人間が作成した資料であり情報なのだから、記載されている内容に間違いもある、或いは誤った解釈されている場合は当然あり得るだろう。従って、読み手側にも一定の解釈が必要なのだ。

<世の中にまん延する情報の誤謬性>

企業の業務報告や記録の例で語っているが、世の中に広まるメディア発信の情報も同様の誤謬性、読解力不足の誤解など、全く同じ構造が存在する。まずは、この情報について反面教師として考察してみたい。

マスメディアの発信する情報とは、2次情報、或いは3次情報である。従って、常々鵜呑みにせず、1次情報に当たり確かめる事を推奨している。1次情報からどの様なプロセスと論理考察で生成された2次情報なのか紐解くのである。ニュースソースは明かされず1次情報に辿り着けないとの批判もあるかもしれないが、殆どの場合、外堀を埋める情報は存在し、少なくとも推論は立てられる。

そうすると、余りにも可笑しい論理飛躍、結論ありきの無理筋が如何に多いか気付くのである。仮設としてその結論に辿り着く1次情報は何が考えられるか、推論すれば、その周囲の情報との矛盾が隠せず、帰納的にも論理破綻が示せる場合が多い。その様な作業を心がけておれば、自然と2次情報を見ただけで、その誤謬性の存在、胡散臭さに気付けるような能力も養われる。

マスメディアの発信する情報が偏向するという事実は、歴史的に見ても明らかである。大本営発表と悪の権化の様に政府情報統制を語られるが、事実は民間の新聞社の発信する情報だったのだ。

現在の、電波系メディア、新聞系メディアもある思想信条、意図を持った方向性に偏向しており、現実的に放送法4条は守られていない。結論ありきの無理筋、過去発言との整合性ない論理矛盾。意向に沿わない情報を発信しない報道の自由。これを鵜呑みにすることは危険極まりないのだが、未だ影響力は絶大で、多くの人は知らず知らずに信じ込まされている。

しかし現在はネット空間に発信される情報が存在する。もちろん、その情報の一つ一つ、個々に見ると夫々に偏向していると言っていいだろう。しかし、規制がかからない、いや色々な規制がかかっても全員参加の双方向性メディアとして、オールドメディアに比べて大きく情報発信の自由度が高く、種々雑多な情報が埋もれている。

実は、オールドメディア側から見るとこれは大きな脅威なのだ。自分達の情報の信頼度が低下する事態を招きかねないからだ。従って、ネットの情報は胡散臭く、オールドメディアが正しいというプロパガンダが蔓延り、規制に必死なのだ。場合によっては、報告などで広告剥しやアカウント停止を目論んだ抑制が厳しいのが実態である。

しかし、よく考えて欲しい。情報とは、発信側は自身が伝えたい意図に沿ったものなので偏向は当然だろうが、受け手側はあらゆる情報を受け取る権利がある。そして、多くの情報の中で自身が必要とする情報、活かせる情報を取捨選択するのが当たり前ではないか。

ならば、オールドメディアの様にどこを見ても金太郎あめの様な一律の情報(しかも偏った)ではなく、ネットを中心とする有象無象の情報から受け手側が是々非々で取捨選択する方が正しい姿ではないのだろうか。実は、今迄はこの役割を書籍が果たしてくれていた。これからも書籍の役割は継続するだろう。しかし、ネット情報の活性化により、情報革命が起こり、素人でも昔の諜報部員並みのオープンデータ取得した情報分析が可能な時代になったのだ。逆に大なり小なり、情報力を高めなければ、社会に適合できなくなるリスクすらあるだろう。

だから、常々、情報の論理分析力を高める活動を推奨し、1次情報に当たり、自身の頭で考察する癖を身に着けるべきだと言い続けている。

<企業における情報伝達、ノウハウ継承>

前述した情報論理分析力は、これからの社会において必要不可欠であり、企業人としても是非、普段から心がけてもらいたいと思っている。

その上で、そうは言っても資料の1次情報に毎回当たっていては業務効率が悪すぎるのも事実だろう。

そのために必要となるのが必要な情報の構造化ブレークダウンだろう。

前述の例で考えて見よう。過去実績の担当による資料が分かり難いのは、何故か考察するのだ。情報が不足していたのか、必要のない情報が満載で必要な情報が検出し難いのか、情報に誤りがあったのか等。

この考察の結果、情報不足であれば、どの様な情報があれば良いのか、具体的に項目出しをしなければならない。当然それは、継続的にフィードバックがかかるようなプロセスで、不足情報の項目出しを加えていく仕組みが必要になる。何故なら、一度の考察、検討で、必要な情報の全てを網羅するのは不可能だからだ。やりながら、レベルアップしていくのだ。そして必要項目記載をルールとし、ミスロス削減の為にもテンプレート化しておくべきだろう。

不要な情報が満載でと言うのなら、少し考える必要がある。何故取捨選択が出来ないのか。

情報が整理されておらず判然としないのなら、定型の情報は固定表記される様にテンプレート化して整理すれば良いだけだ。むしろ情報が満載なのは良い事で、受け手側とは一人ではなく多面的なので、それに対応するのは情報自体が最小公倍数を実現する必要がある。

必要な情報が整理され表記されていて、尚且つ分かり難いと言う事例を多く確認する事がある。つまりこの現象の原因は、受け手側の情報読解能力の問題なのだ。

その次の情報に誤りがある場合も難解だ。基本的には資料として記録を残す際にミスロスを防ぐ策が大前提である。前述の項目整理やテンプレート化は有効な策となろう。それでも人間のする事に完全はなく、一定のミスは発生する。

これは本質的には一定のリスクを受容する必要はあるが、最小化する為に資料作成時の対策は不可欠だが、加えて受け手側が利用する際に一定程度の感性を持って見抜ける能力の養成が必要不可欠なのだ。

ひとつの方法は、時々抜き取りでも、1次情報に戻る作業で能力を高める。普段から周辺で起きている時事問題、経済界の課題などに関心を持ち、書籍やネット情報を確認し、時々その背景にある1次情報、オープンデータや論文も確認し、自身の思考を磨く作業を行っておく事が重要だろう。

実は、この能力の基礎は、義務教育で誰もが教育されている、国語の読解力、長文を読んで筆者の気持ちは?この主人公の言葉の意図は?とい問いであり、演繹法や帰納法を駆使した論理証明などである。そんなに難しい事では無いはずなのだ。

ウクライナ情勢における日本の為すべきこと

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まった。G7を中心とする国際社会は批難表明し経済制裁を発動しているが、国連安保理は当事国が常任理事国であるため機能はしない。

ウクライナ自身は現時点でNATOには加盟しておらず集団的安全保障体制が弱く、ソ連時代に配備されていた核武装も放棄している状態であり、現実的な抑止力に乏しく、米軍なども軍事的な対抗手段が取り難い状態である。

この侵攻は日本にとって決して対岸の火事ではない。しかも周辺国の意思が見え隠れする様々な情報が飛び交っており、日本として何を為すべきか、どう考えるべきか、口先だけではなく本当の意味で“しっかり”考えた具体的行動が求められている。

<中国の動向>

周辺各国の情報としてまず、中国を見てみる。中国は、一見ロシア擁護の発信と勘違いしている向もあるが、実際は、米露含めた自制を呼びかけている。侵攻とは呼ばないと擁護しつつ、決して肯定はしていないからだ。つまりどちらかを擁護する訳では無く、正面からの回答を避け、自制を求める発言に現時点では終始している。

この理由を深読みすると、中国の抱える国際問題、新疆ウイグル地区や台湾などへの波及を避けたいのではないだろうかと読めてくる。

ロシアはウクライナ東部の分離派地域の独立を承認し「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」と称した。そしてウクライナが西側に植民地化されているとして、人民の安全の為、平和維持を目的に軍事侵攻を始めた。

中国の立場でこの理屈を表裏両面から冷静に見てみたい。例えば台湾に自分達が軍事侵攻する理屈と出来る考えも聞こえてくるが、台湾なり新疆ウイグルなりに侵攻するのにその様な論理武装は余り必要ではなく、従来の主張である自国であるとの論理で粛々と進めることに躊躇は無いだろう。この理屈を使うとしたら、沖縄に侵攻する言い訳だろうか。しかし、沖縄侵攻はリスクとして考える必要はあっても、ウクライナとの決定的な違いは米軍基地の存在である。全面抗争前提は相当困難であり、だからこそ基地反対活動に精力的なのだから。

それよりも逆に考えてみよう。もし西側諸国が、ロシアと同じ論理で台湾の独立を承認し、国連加盟を承認、軍事同盟を結んだとして平和維持の為に米軍を駐留させると宣言したらどうなるか。ロシアの論理を容認するなら、寧ろ、この台湾独立の論理の方が実現性は高くないだろうか。中国の煮え切らない、双方自制を求める姿勢は、このリスクを恐れての事ではないだろうか。

インドは今までのロシア寄りの姿勢を一変させ、ロシアに対する批判を強めている。まだ既存の関係式を壊す様な制裁には後ろ向きの姿勢だが、太平洋の安全保障連携国として、インドを明確に西側に引き込む絶好のチャンスではないだろうか。

一方で、韓国はロシア寄りの姿勢を保ち続けていたが、ようやく経済制裁に賛同と発表した。これは相当な米国からの圧力で追い込まれた結果だろうが、それでも賛同までであり、自国の具体的な対応に関しては明確でない。つまり、圧力をかけないと、いつ裏切るかもしれない、状況に応じてどう出るか分からない、信用に値しない国家との認識を強めるべきだろう。

<日本の採るべき道>

国際社会は決してユートピアやお花畑ではない。各国、自国の利益を最大化する為に、あの手この手、諜報活動も、サイレントインベージョンと呼ばれる施策も当然のごとく実行されている。自国を守る為、自国の利益を最大化する為に。綺麗ごとでは語れない。

日本がロシアと対峙しているのは、北方領土だけではない。ロシアではアイヌ民族はロシア人だと吹聴もしている様だ。つまり、北海道への侵攻も視野に、そうすることで北方領土、千島列島、樺太などの実効支配を確固たるものにしている。

韓国は全く理屈の通らない強弁で竹島を実効支配し譲らない。瀬取りの発覚を恐れたと一部で言われるレーダー照射問題や反日歴史認識による国際法無視など目に余り、理屈で語れないなら力で語る以外に建設的な打開策はないとすら思える状態だ。

この様な国際環境において、日本が国民の命と財産、国土を守る為に、為すべきことは沢山ある。

まずは、軍事的抑止力の強化。敵基地攻撃能力の議論に言葉遊びで無駄な時間を使っている暇はない。ウクライナに侵攻しても米軍含めた軍事的反撃が無いと見做され、ロシアの侵攻が始まっている。侵攻までにロシアはジャブを打って、観測気球を上げ、大丈夫と確信しての侵攻だろう。逆に言うと、侵攻すれば反撃を受けると思わせれば、一定の抑止効果になる。

抑止力は、その実効能力と行使する意思を持っている事が必要不可欠である。

実効能力としては、軍事費拡大は当然だが、原子力潜水艦配備など具体的に動く必要がある。意思としては、国会で敵基地攻撃能力に反対する勢力が存在する事自体他国から見たら大きなマイナスだろうし、憲法改正や緊急事態法制、スパイ防止法など当たり前のことを当たり前に進める国である事を内外に示すことが肝要だろう。

有事になってから有事対応を議論するのはポピュリズムを生む危険が指摘されるが、日本の場合、今の有事でない限り、真面な議論すらできない、軍事忌避マインドがポピュリズムとなっていて、縛られ続けて来たのではないだろうか。今こそ、対岸の火事ではなく、自国の事として、現実から目を逸らさず、正面から議論するべきだろう。

そして、意思を示す方法として、やはり軍事演習を行う事だろう。台湾海峡、沖縄、尖閣、竹島、千島列島、樺太などを具体的な対象として。

更にエネルギー政策も実は安全保障の最重要課題として舵を切るべきだろう。まずは、米国のシェールガス採掘拡大を促し、ロシアのエネルギー政策に打撃を与える事は重要な制裁にもなるし、西側諸国のエネルギー安全保障の下支えになる。そして、日本としては、原子力発電所の再稼働に大きく舵を切り、石炭などの石化燃料活用の拡大も目指すべきだろう。環境問題に関しても、世界に誇る省エネ・脱炭素技術は他国と比して環境にも優しい。化石と馬鹿にするのは技術の進歩を理解していない非科学的活動家か、意図的な利益誘導でしかないので、惑わされてはならない。

経済制裁は大した効果は無いだろう。経済制裁が致命的な影響力を持つのなら、北朝鮮はとうの昔に核やミサイル開発は断念しているだろう。そうならないのは、経済は取り戻せても、国土や国体を取り戻すのは簡単では無いからだ。

しかし、それでも経済制裁は必要不可欠であり、西側諸国の足並みを揃える意味合いもある。バイデン大統領は通貨取引規制にドル、ユーロ、ポンドに加えて円も入れた。しかし、日本の制裁内容に円取引の停止が含まれていない。これでは、韓国と同じ扱いにされてしまい、ブーメランが自国の喉に突き刺さりかねない。こういうところでも意思を即刻、明確に示す必要があるだろう。

お気楽に経済協力を言う外相は即刻更迭し、北方領土での経済協力も見直したいと宣言した髭の佐藤正久自民党外交部会長を前面に押し出す時かもしれない。

北京五輪が諸問題を露呈して終焉、されど五輪の価値はいまだ高い

ジェノサイド五輪と呼ばれ、ナチスドイツと並び称され批判され続けた(日本国内ではなぜか東京五輪程大きな批判は無かったが)五輪が閉幕した。

問題視された事項を簡潔に列記するだけでも数多くの問題が露見している。ジェノサイドが指摘されるウイグル問題、開会式では聖火最終ランナーとなりながらその後の取材が行えていない様だ。テニスの彭帥(ほうすい)選手に纏わる疑惑も有耶無耶のまま。

選手や関係者の情報の安全問題も永遠に闇の中だろう。セキュリティ問題とは、表面化しないからこそ問題が深刻化する。

持続可能性を社会命題とするのは、最早世界共通であるが、北京五輪、開催国に対して指摘されたのが、まさに持続可能性に関わる問題であり、政治的ボイコットなどあったが、その温度差もあり、決して一枚岩で向き合えた状況ではなく、解決にも向かっていない。

いざ競技が始まると、スケートショートトラックに関わる疑惑の判定、スキージャンプ混合団体時のスーツ規定測定方法の事前通知も無い変更による大量5選手の失格を生み出した問題。女子フィギアスケートにおけるロシア選手のドーピング問題は、未だドーピングが減少しないロシアの競技環境の犠牲に見える選手の人権問題、公平な競技環境を構築出来ていない事象だが、出場年齢制限の検討など本質からずれた案まで飛び出す混乱となった。

歴史的評価は後年為されるだろうが、大きな問題を抱えながら開催された北京五輪であったことは間違いないだろう。

<選手は自身の活動の場を自己都合で選択は出来ない>

しかし、決して間違えてはならないのは、選手には何ら罪はなく(ドーピング違反者は別)、純粋に自らの活動の場が北京であっただけなのだ。もちろん、ボイコットや中止などの決定があればそれに従うのも基本だが、競技自体は普通に開催され、参加するという大多数の決定に従うのが選手個々の立場では筋であるからだ。

五輪への反対意見は根強くある。人権派と呼ばれる人達を中心に喧伝され、一部メディアが陰謀論も含めて煽り、意味も深い理由も理解しない大衆が迎合する構造は、東京五輪の際に顕在化した。

五輪精神が崩壊している、金まみれで一部の既得権益者により私物化、個別競技の世界大会が開催されている現在に五輪の意義は無くなった等だろう。しかし、どれもこれも、本来の主人公である選手、競技者目線はなく、人権派と言いながら、個々の選手の人権など無視するだけでなく、貶める行為である欺瞞に溢れる活動であり、それこそ、自分達の思想信条の押し付け、自己利益誘導のエゴとしか思えない意見が多い。

確かに、現在の五輪に様々な課題がある事は疑い様がない事実であろう。しかし冷静に考えて欲しい、その理由でアスリートの活躍の場、夢の舞台を奪って良い訳では無い事ぐらい理解を示すべきであろう。建設的な対案のある反対論なら良いが、今の反対派にその様な姿勢は感じられず、単に既得権益者、権力者に対する攻撃、活動でしかなく、その被害を一番受けるのがアスリート達である構造を無視している。

<スポーツビジネスの経済性>

スポーツは普及することで底辺の競技人口が増大し、結果として全体の競技レベルが上がり、トップアスリートが育成される。トップアスリートは、自らの競技を通じて多くの人に感動と夢を与え、更に普及が深耕して、引退後の雇用も想像する経済効果が生まれる。

スポーツがコンテンツとしての価値を高め、経済的にも自立しビジネス化していく構造が成立する歴史はそれ程古くない。ほんの少し前ならば、ジュニア世代の選手達は、一部の競技とその更に一部の選手以外は、大人になって競技を離れていた。競技を継続しても趣味の範囲でしかなかった。

ところが最近は、社会人になってからも企業の支援を受け、企業に所属する形なども含めた競技継続者が増加し、プロ化などの道が存在する事もあって、学生時代のスポーツ推薦なども枠が昔に比べれば大きく増え、競技専従者に対する教育環境の選択肢も増えてきている。つまり、職業としてのスポーツという枠が増大しているのだ。

それでも、その世界で夢を適え、花開くのはほんの一部でしかない。その大多数を支える雇用環境の為には、マイナー競技も含めた正の経済発展がなければ成立しようがない。つまり、コンテンツとして、ビジネスとして育てる必要があるのだ。

スポーツ嫌いな人も存在するだろう。でも、芸術や芸能、音楽等にも好き嫌いがある。自分が嫌いでも、否定する理由にはならない。数ある企画、興行の一つであり、その幅を広げる事に異を唱えられる人はいないだろう。

その象徴的なシンボルとして五輪が存在する。この構造を否定できる人はいない。五輪に反対するならそれに代わる対案が必要だが、個別競技の世界選手権ではそれは賄えない。従って、未だ五輪は問題を抱えながらも価値は現存するのであり、事実を認める事から入らないと、身勝手な破壊論にしかならない。

<日本のスポーツビジネス環境の先行き>

日本のスポーツビジネスは今現在、実は曲がり角に差し掛かっている。

余り知られていないかもしれないが、ワールドカップサッカーの最終予選、日本のアウェー戦は地上波での放送が出来ていない。それどころか、カタール本大会すら放送権の獲得が危なかった。米大リーグの「毎日大谷さーん」のBSでの放送も危なっかしい。

コンテンツの放映権が高額化していっているのだ。しかし、単なる高額化ではなく、ワールドワイド市場の経済成長に対して、日本のデフレ環境における経済成長レスによる格差が、日本から見たコンテンツ高騰化に見える構造なのだ。

五輪を金まみれと言うが、世界的にスポーツコンテンツは価値が高まり、高騰化しているのだ。それは、不当な値上げと言う訳では無く、経済論理に沿った価格上昇であり、経済成長できない日本が立ち遅れている構造でしかなく、このままでは再びスポーツ劣等国家への道まっしぐらと言っても過言ではない。

今、抱える課題は、更なる普及によるコンテンツの魅力化、日本国内の企画価値向上を目指したビジネス拡大無ければ、衰退する以外に無いのだ。豊かな精神、健全な肉体を養い、経済的にも成立するビジネス構造を育成して、初めて日本国民も夢と感動を享受できる事を忘れてはならない。

数字が示すコロナ死の実態

新型コロナの死亡者数のカウントが死因コロナだけではなく、死者からウイルスが検出されたらカウントするという曖昧な基準で、実態より多い数字になっているという事は、当初より問題提起されていた。ただ、公表されている数字だけでは、それがどの程度の割合なのか計る手段がなく、筆者自身も10%~20%程度であろうかと想定していた。

しかし、弱毒化した変異株であるオミクロン株が数字でこの誤謬性を示してくれた。一部報道にあった山梨県の重症者がいないのに死者が6名も発生したという事実である。

ところが、この事実が公表されてもメディアは殆どスルー。死者数のカウントに誤謬性がある事自体も、一部ネットで広まるだけで、未だ初耳だという人はまだまし、殆どの人は事実すら知らないのが現実だ。

筆者はこの事態を憂い、山梨県以外の実態も確認してみた。同様に重症者がゼロで死者が発生している都道府県が存在するのかだが、複数あったのだ。

1月末時点での重症者数がゼロで1月中の死者数がカウントされているケースだが

・北海道 陽性者数30591、重症者数0、死者数27

・青森県 陽性者数4074、重症者数0、死者数3

・徳島県 陽性者数1542、重症者数0、死者数1

・佐賀県 陽性者数5473、重症者数0、死者数3

・大分県 陽性者数5258、重症者数0、死者数1

・宮崎県 陽性者数5182、重症者数0、死者数2

・鹿児島県 陽性者数6790、重症者数0、死者数5

それ以外にも、明らかに重症者数と死者数が異常と筆者が感じるのが

・栃木県 陽性者数8372、重症者数1、死者数10

・千葉県 陽性者数46753、重症者数3、死者数23

であり、これに前述の山梨県までの数字を合算すると

・異常値の都道府県 重症者数4、死者数81

となり、全国の死者数が399人であるから、なんとこれだけで20%を占める。もちろん、他の都道府県でも同様のケースは内在するはずであり実態の占有率は更に増えるだろう。

一方で、日本における総死者数は年間で140万人近くである。便宜的にこれを12で割り、各都道府県の人口分布率で乗じたら、各都道府県の月間死亡者の平均的な想定値とできるだろう。つまり、コロナ関係なく、通常統計的に示される確率での死者数を上記の異常値を示す都道府県全体で算出すると 109人なのである。

コロナ死としてカウントされる実数81と、統計的推測全死者数109 を比較してどうお感じになるだろうか。数値に差があるのは、統計的バラツキであり意味のある差ではないと思われる。但し、超過死亡が倍増する様な状況であれば統計的にはあり得るのだが、到底その様な状況には思えず、大多数がコロナ死因では無いとの仮説もそれ程荒唐無稽ではない様にすら感じる。

<重篤化は統計上現れていない>

少し前にECMOネットのデータも示されたが、現時点のECMOネットのデータを確認したい。

ECMOとは、肺炎の重篤な患者に装着する重症者に特化した治療装置である。そしてこのデータは実際に世の中のECMOが使用されている状況を示している。これを見る限り、ECMOの使用は、12月中にほぼゼロ化し、1月中はゼロ近似、2月1日時点では完全に0なのである。

日本ECMOnet(sCOVID-19重症者におけるECMO装着数の推移)

この事が示すのは、オミクロン株は肺炎にはほぼならず、なったとしても重篤でECMOのお世話になる程悪化する症例はほぼ無いと言って良いだろう。

<まん延防止や緊急事態に該当し得るのか>

新型インフルエンザ等対策特別措置法の第一章、総則(目的)第一条は

「この法律は、国民の大部分が現在その免疫を獲得していないこと等から、新型インフルエンザ等が全国的かつ急速にまん延し、かつ、これにかかった場合の病状の程度が重篤となるおそれがあり、また、国民生活及び国民経済に重大な影響を及ぼすおそれがあることに鑑み、・・・」

とある。

よく見ると「国民の大部分が……免疫を獲得していない」とあり、国民の大部分がワクチン2回接種を済ませている状態では該当しないと判断できる。ブースター接種云々を言い始めると、永遠に免疫獲得を語れず、この前提が入っている事を無視してはならないだろう。

加えて、「これにかかった場合の症状が重篤となるおそれがあり」ともあるが、前述の確認で重篤する例は統計的にゼロ化と言っても良い状態なのだ。

更に「国民生活および国民経済に重大な影響を及ぼすおそれ」は、感染症によるものではなく、必要以上の規制によるものであり、どう考えても、この法律を前提とするまん延防止や緊急事態宣言は不当であると言うべきではないのだろうか。

<正しく恐れて、正しく対処する>

いまや、オミクロン株に変異してコロナは身近な疾病になった。実際、筆者の身近でも感染者が発生した。症状は軽く、1日程度38度以下の発熱だったが直ぐに平熱に下がり、他の症状も軽い喉の症状だけで自宅待機で普通にリモート業務をしながら回復した。医師の診断、検査を受け、処方されたのは通常の風邪薬のみ、解熱剤も無かった。因みに、ワクチンは未接種である。症状だけ見れば余程インフルエンザの方が重く、本当に単なる風邪であった。

同居家族も、家内での極端な隔離はせず、濃厚接触の自宅自粛を一緒に続けながら、気を付けたのは手洗いうがい等の基本的対策、健康管理的自己防衛策をいつも以上に徹底する事だけだった様だが、一切症状は現れず、無事自粛期間を終了した様だ。

この1例を示して大丈夫と言う気はない。しかし、マスメディアの報じる1例で危機と不安に感じるのも愚かだと言わざるを得ない。正しく恐れて、正しく対処する。そう、風邪であろうとも、万病の元であり、既往症があれば重篤化し得るのだから、軽視せず、健康管理の自己防衛、それ以上でも以下でもないのではないだろうか。

ジョコビッチに対する批判集中だが果たしてその中身は

テニスのレジェンド、ジョコビッチ選手がオーストラリア入国を拒否され、全豪オープン第1シードの選手が棄権という事態に陥った。事は今年の全豪に止まらず、今後3年の全豪や他の大会出場も危ぶまれる状況である。一連の動向に、ジョコビッチ選手に対する批判も集中し、同じレジェンドのナダル選手は「ワクチン接種すればいいだけのこと」と言い放った様だ。

しかし、冷静に考えて、これらの批判は正当なものだろうか。ワクチン接種は義務化されるべきものではなく、個々人の事情を勘案する必要があり、個人の判断のはずである。全容を見ずの感情的な批判も多いのではないだろうか。

一方で、確かに批判に相当する部分も見えてくるが、それは正しく事実を見極めた上でなければならない。単なる誹謗中傷、良いがかりに近い論調が跋扈する風潮は健全ではなく、まずは事実関係を整理してみたい。

<ジョコビッチ選手がワクチン接種をしない背景>

ジョコビッチ選手は幼いころからいくつかのアレルギーを抱えていたとの事だ。プロになってからも試合で呼吸困難に陥るなど途中でリタイアする状況が続き、その後、グルテンアレルギーである事が判明している。

グルテンアレルギー対策として食生活を見直し、徐々に改善に向かった。2015年に執筆した本に、グルテンフリーの食生活を取り上げ、グランドスラムタイトルを獲得できた秘訣として食生活の改善だとしている。そして、その後のツアーでも、グルテンフリーの食事とトレーニング用具を準備していたという。

この様な原体験を持ち、アレルギー体質でもあれば、ワクチン接種を躊躇するのはある意味当然では無いのだろうか。

ここでジョコビッチ選手のワクチン接種に関する発言をいくつか取り上げてみる。

全米オープンにて

「ワクチンに関しては常に、それぞれ自分が打ちたいかどうかという判断が重視されるべきだと考えている。そこだけは崩さないでほしい」

ATPファイナルにて

「ワクチンのことだけじゃない。生きることの全てで、個人には選択の自由がある。それが豊かで幸せな人生に必要不可欠なものだと思うから」

フェイスブックのライブチャットでは

「僕はワクチンの接種自体を否定しているのではない。ただ、誰かが僕の体内に無理やり何かを入れるのは嫌だ。受け入れられない」

これらの発言を聞いて、「ワクチン接種すればいいだけのこと」と簡単に片づけられないと感じるのは筆者だけだろうか。

<入国拒否された問題事項>

オーストラリア・テニス協会は、大会参加、それにかかわるビザ発行はワクチン接種を前提としている。但し、過去6か月以内に感染歴があれば免除ともされており、今回のジョコビッチ選手の申請はこの過去感染歴を前提にしていた。

その感染日は2021年12月16日であった。しかし、そこから綻びが発生する。その感染経緯を確認してみる。

12月14日バスケットボール試合を観戦。これがクラスターとなる。

12月16日簡易抗原検査実施で陰性判定。同時に念のためのPCR検査実施

12月17日テニスのジュニアイベントに参加

12月17日イベント後にPCR検査陽性判定通知

12月18日雑誌インタビュー実施

17日のイベント参加は陽性判定前との言い訳はあっても、クラスターの所謂濃厚接触者であり、PCR検査も実施していた訳なので本来であれば結果が出るまで自粛すべきであったとセルビアの首相も非難している。そして、18日のインタビューに関しては弁解の余地は無い。

更にまずいのが、オーストラリア入国書類の過去14日間にどこにも旅行をしていない事を問われる質問に、していないと虚偽申請をしていた事が明らかになっている。

実際は、セルビアからスペイン(ジョコビッチ選手保有宅に3日滞在)を経由してのオーストラリアであった。スペインもワクチン接種証明書が入国に必要だが、どの様に入国許可が下りたのかは不明であり確認中の様だ。

ジョコビッチ選手は同書類をチームスタッフの人為的ミスであり意図的ではないと述べているが、果たして入国書類の不備がミスで済まされるものではないだろう。

ましてや、2021年6月にも自身開催のトーナメントで本人含むクラスターを発生させて批判を浴びており、今回の件も含めて信用が失墜しているのも現実であり、12月16日の感染17日の陽性判定も入国する為の虚偽ではないかとの疑惑まで発生している。

<ジョコビッチ選手に望む>

以上の様な事実関係から、最悪の場合テニス協会から何らかの処分の可能性すらある。テニスの1ファンとして、レジェンドをその様な事で失う事は何が何でも避けて欲しい。

その為には、ジョコビッチ選手には明確な説明責任を果たしてもらいたいと考える。

6月にクラスター発生させた事や12月の濃厚接触後の行動に関して軽率であった事、入国申請書類にミスとはいえ虚偽記載をした事実を含めて、自身の行動が軽率で考えが甘かった事を反省し謝罪会見を開き、テニス協会からの如何なる処分も受けると表明する事を期待したい。

その上で、ワクチン接種を躊躇する原体験を語り、同様の苦しみを持つ人達の存在も訴えるべきであろう。そうして自身の判断に対する理解を求めれば同様の選手達にも手を差し伸べる事になるだろう。これは危機管理、危機コミュニケーションの観点から望む事だ。

ワクチン接種免除は定められているとはいえ、現実には認められる例は僅かとの事だ。この現実に風穴を開けるのはジョコビッチ選手以外にないだろう。

体操のレジェンド内村選手が、世界体操時のPCR陽性判定に異議を唱え、再検査による陰性により偽陽性判定であった事を示し、無事世界体操開催に繋がった。これは、レジェンドでなければ、陽性検出、濃厚接触者判定で多くの棄権者を発生させ、大会が無事では無かっただろう。前例を突破し、改善する為には、その道の先駆者が支持される心情面も背景に勇気を持った行動を超す事で突破口が開ける。

テニス界の為、世の為に、適切な行動を期待する。

情報と金の問題2:メディアの再構築素案

『情報』を制する事が、民主的に優位に運ぶ最善策である事は疑い様が無い。『情報』は時には世論を動かし、国家権力である3権(立法・行政・司法)をも動かす力を持つ、即ち国家権力と並ぶ、時には上位になるポテンシャルがある。ならば、『情報』を扱う担い手であるメディアには、権力としての監視・牽制がなければ民主主義は独裁へと向かう危険性がある。

これは『言論の自由』を制限するという話では決してない。むしろメディアを監視・牽制する構造は、『言論の自由』を適切に保護する事にも通じるのだ。

現在のマスに属するメディアの偏向度合いは目に余るものがある。その実態はネット空間との論の幅を比較すれば明らかである。そこにはある一定の力、意思すら感じざるを得ない。

マスメディアの偏向疑惑が懸念される状況下でCLP問題や意味不明の報告と思われるコンテンツ攻撃など、一部の政治勢力・活動家などの勢力の動きが疑われている。『情報』の扱いに金の流れが伴った工作の懸念である。

歴史的には外交的妥協を模索する政府を、弱腰と非難し煽り続けたのがメディアであり、それに国民が扇動され好戦的な世論が形成され、クーデターも含めた実力行使もあり軍部が政府を動かし開戦に向かった。

歴史に学び、現状の偏向実態を鑑み、今こそ『情報』の担い手『メディア』を監視・牽制する法制度に舵を切り、新時代の民主主義の権力構造を模索するべきだろう。

<ネットメディアの処方箋>

ネットの特性上、『情報』の担い手としては、実は最も公平で両論併記、各論議論が可能な言論空間なのである。誰でも参加ができるハードルの低さ、尺の制限の緩やかさ、双方向性である事などが要因だろう。逆に弊害として、玉石混交である事、情報量の巨大さ故エコーチェンバーなどの受け手側の意図せぬ偏向による勘違いを生むリスクは高く、単独メディアの中で公共性を担保する事は困難である。

従って、公共性は政府発信のオープンデータなど裏付けが確かなものに限られるだろう。一方で公党や政治組織の情報発信は、より深い情報を対案との対比で示す事が可能なメディアとして有効である。

それ故、CLPが理念として掲げていた、公共性を民間のネットメディアに求めるのは困難である事を前提とするべきだろう。フェイクニュースという定義も立場によって都合よくレッテル貼りする傾向も強く、対峙すると言ってもその事で公平性を示している訳では無い。

そしてどの様な色が着いているか受け手が確認できる必要があり、その資金構成と編集方針を透明化し、資金やニュースソース、解説の方向性を明らかにする必要がある。ネットメディアであろうとも相応のお金はかかり、お金には大なり小なり色が付くのだから、金の流れ、構成を明らかにすることは透明性担保に重要な要素なのである。

つまり、資金の背景を明確にし、編集方針に加えて、編集者の思想信条も分かる様なコラム掲載などを義務付けし、どの分野でどちらの方向にどれだけ傾いているのか、透明化した上で、視聴者側が選択すれば良い。公平でなくて良い、偏向は当然、情報受信側がその事実を把握しておれば良いのである。そして、公開情報に偽りや、隠ぺいがあった場合に厳しい罰則が伴う法規制が必要だろう。スポンサーもその構造で集まる視聴者である前提で考え、企業イメージに色が付く事を理解して広告出稿するべきだろう。

ネットメディアはマクロで見ると実は最も健全化に向かうエネルギーを持っている。それもかなりのスピード感で。実は、ほんの数年前ネットの言論空間はかなりのレベルで左傾化していた。少し真っ当な発言をすると袋叩きにされる程酷い状態であった。それが現在はかなり改善されて両論、ウイング広い言論空間になっている。

これらの特徴を生かし、主要メディアに成長させるべく、制度改革を進めるべきだ。

<地上波メディアの報道に関する処方箋>

ワイドショーなども報道と位置付けた上で、ネットと同様に情報の傾き度合いの透明性が必要だろう。残念ながら、現在の地上波メディアは公平な情報、両論併記などの放送法の大原則を守っているとは言えない状況だろう。それなのに、公共性や公平性を掲げられているのは寡占状態が故であろう。

政府を監視し糾弾する事がメディアの役割との思想、筆者に言わせれば前時代的な思想の元、批判を目的とする批判に終始し、都合の悪い情報は尺の制限で省かれる。結果として、極めて偏向した情報になり、視聴者の正しく、客観的な情報を、様々な視点での議論を通じて、即時性と簡易性を伴って取得する環境を破壊している。そして問題が顕在化しても、寡占状態が故責任を取ることはなく、改善も為されない。

視聴率至上主義も、危機を煽り、政府を悪とする陰謀論を匂わせるエンターテイメントで部分的に稼げるだろうが、その事自体が若者のテレビ離れを促進させる事になっていると考えるべきだろう。

しかし、即時性と簡易性という長所は捨て難く、その事を活かしつつ、国家としての公共性や公平性を一定程度実現する再構築が必要だろう。

その為に、限られた国家資源である電波を使用する前提として、資本構成は外資を制限する必要があるだろう。情報を国家の権力の一つと位置付け、より世論形成力が強い即時性、簡易性を持つメディア、ある意味サブリミナル的な効果すら持てるメディアとして当然ではないだろうか。現行法制度にも存在するのだが、より厳格に、違反や虚偽、隠ぺいに対して厳罰化は必須だろう。

その上で、政府発信のコンテンツ、公党発信のコンテンツを明確に一定枠設ければ良い。それに関わる費用は一定程度税金で構成しても良いだろう。

<ぺーパーメディアは生き残れるか>

筆者の持論は、ペーパーメディアを決してなくしてはならないという事だ。もちろん、今の形態が良いという訳では無い。

ペーパーメディアの受け手側としての最大の利点は、全体感のイメージ把握、物事の重要性の大小把握、概要から詳細への検索などを極めて効率良くできる事だ。この同様の機能を他のメディアに求めるのは実は困難なのだ。

一方で日本の国益を損ねる国際問題を自ら火の無い所に煙を立てたのもこのメディアであり、日本の場合、電波系メディアの資本構成に漏れなく加わっている事も一旦偏向すると歯止めがかからない構造である事も大きな問題であろう。

更に、地方によっては地方紙の独占状態にあり、一定の方向性以外の『情報』が得にくい状態が発生している。これは『情報』を選択する自由の侵害に他ならない。

これらの問題を解決するには、まずは資本の独立性を担保する事だろう。同時に整理統合を進め、様々な資本の参入により情報のバラエティ性を高めて寡占状態を解消する。

そして個々の情報取得の選択性を高めるために、1紙だけでなく、複数紙のクリッピングをサービス化する事。個人の意思、思考で自動的に各紙から情報をセレクトし、パーソナライズされた紙面をオンデマンド配信する。技術的には各紙紙面をスキャニングOCR処理し選択した上で自動組版する。オンデマンドプリントが必要な場合は、郵便局インフラを利用しサービス化すればよい。著作権問題もクリア出来ない訳が無い。

更に隠し味として、偏った設定を個人がしても、ある一定レベルの公平性を保ったセレクトをシステム側で自動設定すれば、嗜好性を保ちつつ、両論併記、公平性のある対案も提供出来、地方インフラの問題での情報格差も解消される。

結論としてペーパーメディアはその利点を存続させる為に生き残らねばならない。その為に、デジタル化、サービス統合、資本再編は不可欠だろう。

情報と金の問題、メディアのスクラップ&ビルドが必要不可欠

Choose Life Project(CLP)というインターネットメディアに立憲民主党から約1500万円の資金提供があった件で、ネット空間は特大ブーメランと騒いでいるが、地上波メディアでは報道されない。その後の調査の結果、9億円以上の金銭がメディア関連や市民活動に流れている疑惑も浮上しており、全容は不明、というより第三者の調査でもない限り明らかにはならないだろうし、闇に葬ろうとしている様にも見えてくる。

地上波メディアは、Dappiの件では自民党の疑惑と騒ぎ立て、虎ノ門ニュースの動画を流用する等して、同ニュースより公開質問状が出される事態にまで至ったが、未だ無回答と聞く。そして、CLPに関しても沈黙。自己批判にも繋がりかねない故の沈黙と言われても仕方がない程のダブルスタンダードである。

メディアに公党から金銭が支払われる事自体は問題ではない。その費目は、宣伝広告のコンテンツ制作やコンテンツ発信、そしてスポンサーとしての支援等だろう。前者の場合は、党の名前が前面に露出されるし、後者でも名前が前面に出なければステルスマーケティング(ステマ)の疑惑が生じるので日本では違法ではないが(アメリカなど多くの先進国では違法)、基本的には避けるべきだろう。今回の場合、金の流れを代理店経由など迂回させており、隠蔽の疑いさえあるのだから、更に悪質との疑いがある。

そして、福山氏の発信を素直に読むと、「理念に共感しての支援」であり、当時メディア側発信によると「理念すらない」状態での立上げとあるので、CLP立上げ者の出身母体であるTBS報道特集の流れを汲んだメディアへの経営支援との疑惑が生じる。少なくとも資金援助により忖度は働くであろうし、番組内容に影響を及ぼすことはないという言い訳は通用せず、立憲民主得意の論調を借りれば、「忖度の無かった事の説明責任」いわゆる『悪魔の証明』が求められるはずだ。

そこは自省し、自身の行為を振り返るのならば、それは健全化の方向性として受け入れるべきだろうが、その兆候が見えてこないのは残念でならない。少なくとも説明責任を果たす事が最低条件ではないだろうか。

<メディアと金の問題>

情報に関わる不正な金の流れ、金を使って恣意的に情報を操作し、大衆を誘導しようとする疑いの行為は、それ以外にも数々指摘されている。

市民活動家への活動資金援助であったり、デモ活動を金で雇った動員で行ったり、テレビの街角インタビューで答える人が他局でも同一人物が繰り返しインタビューに答えているなど、やらせが疑われる事象であったりだ。

数々の疑惑があるが、全て金の流れを明確にして透明化すればあぶり出せる。

また、昨今のネット空間において横行する、異論の発信に対する『報告』攻撃での広告剥がし、最悪の場合BANというコンテンツ削除を目的とする行為。これが組織的な活動である疑い。もし、これらが組織的活動であれば必ず裏には金が流れている。

この場合は金の流れだけでなく、実際の『報告』という行為を公開条件にするか、少なくとも指摘する事由を明確にし、合理的な事由であることを前提としつつ、合理的と認められない場合、例えばユーチューブで人による審査で問題ないと判定された場合は公開されるなどの罰則を伴わなければ、再発を防げないし、公平性を欠く状態である事は間違いない。

政治と金の問題が未だに問題視され、多少なりとも違法性のある事案は発生している。本質的な問題は、金で政策の方向性を歪める行為が横行し、民主主義がエラーを起こす事だろう。その観点で冷静に考えると、メディアと金の流れの方が今現在問題性としては大きいのが現実ではないだろうか。それなのに、扱われ方は遥かに小さい。それは既得権益構造に対する抵抗勢力化しているからではないだろうか。

メディアとは、言わずもがなだが『情報』の担い手であり、『情報』事態が世論を形成させる大きな力を持ち、『情報』が民主主義の根幹を支える要素である。筆者はこの構造に対して『情報』を4つ目の権力と明確に位置付け、他の3権(立法・司法・行政)に加えて牽制する4権分立の法制化が必要と考えている。その入り口が金の流れを抑える事ではないだろうか。

その為には、「ネットメディア」「地上波メディア」「ペーパーメディア」毎にスクラップ&ビルドを前提とする大改革が必要だろう。

オミクロン株感染拡大は自然現象、そして自然に収束する

オミクロン株による感染拡大が日本でも始まった。筆者の第6波発生予測時期からおよそ半月遅れているが、やはり自然現象はその名の通り自然に発生した。

この半月のズレは、岸田政権による鎖国強化の影響だろうか。しかしながら自然現象である限り、総和としての結果に違いはないと考えるのが妥当であろう。半月ずらしたことで、その間に何か有効な準備が為されているなら別だが、今の所その様な様子は見えてこない。

そして、自然現象であるもう一つの要素、弱毒化も確実に進んでいる様だ。

WHOの発表が正しいとは言い切れない事は、これまでにも数々の実例が示しているが、とはいえ明確にオミクロン株の弱毒化を発信している事は注目すべきだ。デルタ株と比較して上気道に留まり肺炎などの重症化が発生し難く、入院率も低下するとの報告だ。

少し、疑問に感じるのが、デルタ株も昨夏の各国の報告では、おもな症状は「鼻風邪」レベルと言っていたのだが、更に弱毒化が進んだと認識するべきだろう。

米国首席医療顧問のファウチ博士もオミクロン株の重症化リスクの低さを公表しており、1日100万人の新規感染者を発生させている同国ではロックダウンなどの措置は不要と判断、多くの国がほぼ同様の方向性である。

しかし、米国と比較して3桁規模が小さい感染状況で、地上波メディアは挙って危機を煽り始めた。確かに、少しトーンダウンしているのかもしれないが、「不安」を連発しているのは間違いない。

一方で元医系技官の木村盛代先生は「感染を無理に止めるな」とミヤネ屋で主張した。

他にも同様の過剰対応を批判する専門家は多数存在する。しかし、メディアから聞こえてくる専門家意見の大多数は、過剰に恐怖を煽る方向に偏向している。その論に過去の反省や、実績データのフィードバック分析などの要素は一切なく、感情論が主流である。

むしろ、素人コメンテイターの方が違和感を発することがあるが、それらは完全スルーが基本である。

両論併記の原則、多様な意見による議論は今のメディアには不要らしい。異論は異教徒のもので、廃絶の対象なのだろう。

しかし、その状態に自らの自由を従順に差し出し、反論もせず、むしろ熱狂的な信者の様に感情論を展開する層が多い事が不思議でならない。

<変異が怖い>

変異はこの種のウイルスでは自然現象で日常的に発生しているコピーエラーである。その中から環境適合するエラーのタイプが存続する。強毒化してしまえば宿巣である人間の活動を抑制するので感染拡大は起き難い。従って環境適合の大きな要因に弱毒化がある。活動量の多い軽症者増で感染も拡大、ウイルスも生存できる。

この様に考えると変異は人間にとっても歓迎すべきなのだ。

間違えてはならないのは、所謂突然変異という部類の現象。これは、新型と言われる正にメジャー変異の部類であり、動物を宿巣とするウイルスが人間に感染する様に変異するなどだろう。

しかし、この種の変異を可能性で恐れるならば、現在の新型コロナに限らず、旧型コロナ、所謂風邪やインフルエンザでも恐れる必要がある。

新型と旧型では違うとの感情論も聞こえてきそうだが、そこに論理性はない。東京五輪を反対し、感染地獄とまで言い、他の国際競技と五輪は違うと感情的に強弁し、何ら数字や論理性が示せない人達を思い出す。

究極の可能性でリスクを語るのであれば、他の究極の可能性も同列でリスクとするべきである。そして、科学的な確率の数値、論理的な説明が必要だが、この2年間聞いたことが無く、未知が故の可能性の一点張りだ。これは非科学的ダブルスタンダードでしかない。

<ワクチンは安全だ>

ワクチン接種の重症化リスク低下の効果は間違いなく高い。感染後のウイルス増殖を抑制する獲得免役力として科学的に証明されている。

一方で、副反応やリスクに対しての評価は意見が分かれる。多くの接種推進派は接種リスクが僅かでベネフィットが上回ると論じている。しかし、ここに科学的数値、確率で示している例は極めて少ない。

そもそも感染によるリスクは、年齢や基礎疾患、肥満や喫煙など個人毎に大きく異なる。これに個々人の健康管理意識や環境条件を重ねると更に格差は拡大し、桁違いと言っていいだろう。

またワクチン接種の効果も永遠に継続する訳では無く、複数回継続接種が求められるというのが一般的だ。であれば、ワクチン接種のベネフィットは期間限定であり、リスクは接種回数に相関するのだ。

更に注意すべきは、リスクを評価するべき死亡率の中身である。現在示されている数字は感染者の死亡事例であって死因コロナだけではない。つまりリスク観点では、報告数字よりも低い評価が必要になる。

冷静に、ベネフィットとリスクを比較評価するべきであるが、それは個々人によって設定要素が異なり、評価結果は雲泥の差になる。だから、強制ではなく個人の判断とするべきである。他人にとやかく言われる類のものではない個人の健康観、リスク判断なのだから。

だからこそ、仏マクロン大統領の「未接種者うんざりさせたい」 の様な発言は決して許されるものではない。

<特効薬が無い>

新型コロナは未だ特効薬が無いから収束できないという声も聞こえる。

しかし、風邪の特効薬は存在せず、開発出来ればノーベル賞級と言われてきた。つまり、現在の風邪薬は対症療法であり根治薬ではない。新型コロナも同様であり、根治薬開発は困難だろう。いや、根治薬がもし開発されれば、それはウイルスと人類の共存関係を破壊する自然破壊の影響の方が筆者は恐れる。

ワクチンにより社会リスクは大幅に低下した、経口薬も開発され、今後も増えるだろう。重症化リスクも低下し、なぜ更に特効薬を求めるのだろうか。

<医療崩壊はなぜ起きる>

1日100万人の新規感染者が発生する米国でも医療崩壊は起きていない。なぜ、日本はこれだけ医療崩壊と騒がれるのか。

メディア出演の専門家、政府分科会、東京都モニタリング会議などの言い方は「医療崩壊を起こさせない様に感染を抑えるべき」「そのために行動制限」という方向性である。これでは、医療機関を守る為に私権制限しろと聞こえても不思議ではない。

医療機関は個人の健康を守り、命を助けるために存在する。それが逆転構造になってしまっているのではないだろうか。この構造を生み出す、制度的な問題点は、2類相当の感染症としている事であろう。

感染者全員を入院させる国家は日本以外にあるのだろうか。入院が必要ない人を入院させるから、入院が必要な人が入院できない現象が発生する。当たり前だ。

自宅療養を、自宅放置と揶揄し、急激な悪化リスクを殊更問題視するが、入院の必要のない症状の人が自宅療養するのは至極当然のことではないのか。そうすればムダに医療資源を浪費せず、入院が必要な重症者に対応する余力が生じるはずだ。

そして日本の医療の長所である町医者によるきめ細かな医療サービス体制を最大限生かし、軽症者に早期診療を実施。検査も無駄に無症状者に拡大せずに、有症状者に必要に応じた実施に留めれば感染拡大も抑制できる。結果として、重症化リスクを低減させ、入院必要な患者も減少させるだろう。

即ち、2類相当の扱いで、初期医療を制限し重症化リスクを高め、ただでさえ後ろ向きな医療資源の再配分を硬直させていた。その様な状況で、検査や補助金を権益化する悪循環が蔓延り、医療崩壊が起きた。

打開策は簡単である。5類相当の普通の対応に戻し、町医者による初期医療と大学病院などによる重症化対応とする。そして、医療法を遵守し、中長期的に日本医療の弱点である救急医療を強化する。患者は無暗な検査をやめ、症状があれば診療を受ける。それだけで既に収束し医療崩壊も起き様がないはずだ。