ゴルフ人生日記

 アマチュアなのでレッスンの類ではないが、我がゴルフ人生において、自分自身が悩めるゴルファーであることから、得た経験と知識、技術をある意味処方箋として語ることは多くの迷えるゴルファーにも少なからず共感頂ける内容や参考にして頂けることもあるだろうとの思いで書かせて頂く。偉そうに言っているが、自分自身が振り返って、反省し、更に極めたい競技生活のメモとすることが主目的なので、寛容な姿勢でお読み頂ければ幸いである。もし、ご意見があれば是非ご指導含めて温かいお言葉を頂けるとこの上ない喜びです。

 このメモは、シリーズ化していくつもりだが、その最初はパター偏とする。『パットイズマネー』と言うほどスコアに直結するが、『パットに形無し』という様に、出鱈目でも入れば良いし、唯一と言っていいだろうアマがプロに対抗できる領域だ。それをアマの視点から書かせて頂く。

 まず、パッティングの成功の要素を整理したい。以下の様に分類されるだろう。

1. 目標に対してスクエアに構える(アライメント)
2. 目標に対して真っ直ぐに打ち出す
3. パターの芯を外さない
4. ラインを読み、適切な目標を設定する
5. 距離感を合わせる

 この5項目で全てではないだろうか。そんな簡単に言うな、という声も聞こえそうだが、結構簡単、気軽に、でも少し真面目に考えて欲しい。もちろん、聞き流して頂いても構わないが、シリーズ通して共通の書き方と了解頂きたい。

 さて、この5項目を更にグループ分け、大分類すると、1から3までの3項目は技術、テクニック面であり、4・5は感性・フィーリング面と分類できる。この2面性があることを理解しないミスが多いのが実態ではないだろうか。
 例えば、2の真っ直ぐ打ち出そうと意識するがあまり、距離感がすっ飛んでしまい大ショートしてしまう、多くのプレーヤーがその様な経験をしているはずだ。普通に考えて欲しい、距離感がすっ飛んで大ショートしてしまうと、3パットのリスクが増大するが、真っ直ぐ打てないだけなら、そのパットが入らないだけで、距離感が合っていれば3パットのリスクは増えない。つまり、距離感さえ合えば、ほぼ2パット以内、ハーフで18打、1ラウンドで36打以内となる。
 4のライン読みも、細かい読みではなく、大まかな読みが3パット防止に効果があることは疑い様がないだろう。つまり、第一段階として、2パット以内におさめるためには、感性・フィーリングの要素が重要であり、その後1パットを増やしていく更なる追及のためにテクニックが重要になってくるのだ。

 では、最重要と位置付けた、距離感に関して語ろう。『感』というのだから、テクニックではなく、感覚、フィーリングである。ゴミ箱に、紙くずを投げ入れる時、距離を歩測もしないで見た目で、振り上げる大きさをこれぐらいだとかも考えず、目標に届かせるような感覚で投げるだろう。距離感とはそういうものなのだ。しかし、感性を百%発揮するためには、それだけの準備が必要になる、そこが重要だ。

 準備のその1が、普段から、気持ちの良い振り幅、力加減のパッティングスト―ロークを身体に覚えさせること。気持ちの良いとは、反復して同じことが同じ様に繰り返せる感覚。その感覚をショートパットとミドルパット、ロングパットの3段階の気持ち良さを準備できていれば最高だ。難しければ、まず2段階でも良い、試して欲しい。ここまでは感性を磨くイメージである。
 そして、朝のスタート前のパッティンググリーンにて、この気持ち良いストロークを打って実際にどれだけの距離になるのか、確認しておく。厳密である必要性はない、大まかにでも構わないが、出来る限り、往復での確認を推奨する。距離は歩測の往復の平均なのだが、それ以上に目視の感覚が重要、大体のイメージを刷り込んでおくのだ。遅い、速い、無茶苦茶速いなど。
 実際のプレーにおいては、実際の距離歩測と共に、視覚から得られる情報を整理する。登りなのか、下りなのか、芝の目は、風はなど。そして、自身の気持ち良いストロークのミドルパットの少し強めなど具体的にイメージして、素振りでそのイメージを身体にしみこませる作業を実施する。
 この際、多くのプレーヤーは、通常のラインに構えて、少しだけ後ろに引いて素振りを実施するが、私はそうしない。その理由は、構えた瞬間に視界が全体でなく、感覚的にライン重視になってしまい、折角事前に整理した情報を身体に刷り込む前に視覚情報が狭く変更されてしまうからだ。
 私は、目標を後ろから正対して、全体的に目標方向を視覚にとらえた状態で、素振りを行い距離感のイメージを身体に刷り込む。こうすれば、得た情報をそのまま身体に刷り込むことが出来易いのだ。構えて視野が変わるのは体に刷り込んだ後に行うのだ。この順番が重要である。
 繰り返すが、順番が重要で、<視覚・観察した距離感情報の整理>→<距離感情報の身体への刷り込み>→<アライメント>→<ストローク>である。これが、<視覚・観察した距離感情報の整理>→<アライメント>→<距離感情報の身体への刷り込み>→<ストローク>では、距離感が失われるのだ。
 そして、ストロークの際に注意するのは、目標を視界に捉えておくことだろう。誤解しないで欲しい、ヘッドアップや身体を動かして軸が変動することを指すのではなく、首から上、目線を動かすだけで視線を動かし、視界に捉えることだ。これを忘れてラインに集中しすぎると、折角刷り込んだ距離感のイメージが失われてしまう危険性が高くなる。あくまで、距離感を優位に、50%以上の注意を持って、ストロークすることだ。逆の言い方をすると、目標の方向性やスポットにばかり集中してしまうと、折角刷り込んだ距離感を忘れてしまうのだ。この様な経験は無いだろうか。

次に重要な要素はライン読みである。

 ライン読みと言うと、非常に難しい印象を持たれるかもしれない。確かに、プロや上級者のレベルでは小さなアンジュレーションや芝の状態変化なども確認するが、まずは、その様な細かな部分ではなく大まかに把握することでかなりカバーできるのだ。
 傾斜はグリーンに上がる前、グリーン面が見える時から、どこが高いか、どこが低いか、その程度の大きな傾斜を感じておく。
 グリーンに上がったら、自分のボールからだけでなく、反対側からも確認して傾きを感じる。人間錯覚が生じるのだが、反対から見ることでかなりの錯覚を防ぐことが可能だ。

 しかし、実はこれだけではそれ程正確な読みは困難なのだ。グリーンの癖や、曲がり具合などは、プロの様に練習ラウンドして情報を集めていない限り、情報を得ることは、それ程簡単ではない。まず、アマチュアの場合、その程度だと認識することが大切だ。
 では、アマチュアにとって情報取得するもっと効率的な方法はないのだろうか。それがあるのだ。他人のプレーをよく観察しておくことだ。どこから、どの程度の強さで打って、どの程度転がるのか、どの程度曲がるのか。注意しておく必要があるのが、上りのパットは、曲がるのはボールの勢いがなくなる後半部分であり、下りの場合は、早い時点から曲がり始めるという、物理法則を頭に入れて観察しておけば万全だ。
 そして、観察するのは、同組のプレーだけでなく、ショートホールなど前の組のプレーが見える時は、よく観察しておくべきだ。曲がり幅までは見えなくても、どちらから打って、苦労してそうだとか、簡単に入れてきているとか、その程度は観察できるはずだ。
 もう一つ、絶対逃してはならないのが、雨露や霜でグリーンについたボールが転がった後である。但し、先ほどの上りと下りで曲がり方が異なることを前提に情報として処理する必要がある。

 以上の様な情報を処理して、あとは決断のみ。自分の転がるボールをイメージして、どこから、どの程度曲がるか、真っ直ぐかを描いたら、打ち出し方向に仮想カップや目標を設定する。上りや、下り、或いは自分の視覚に対する距離感よりも遅い場合、速い場合を想定して、仮想カップを前後させる。速いグリーン、或いは下りであれば、その分だけ手前に仮想カップを設定する要領だ。

 ここまでのことを実行するだけで、かなりの3パットは防げるはずだ。ファーストパットがカップの半径90cmの範囲に止まれば、かなりの確率で入れることが出来るからだ。アマチュアの大たたきのミス、それこそトップアマのハーフパット数15~16でない限り、スコアアップ間違いないだろう。パッティングの誤差は、方向性よりも距離感による縦のブレの方がスコアの悪化につながるミスになるのだから。

 そして、2~3mの入れ頃、5~6mの勝負パットが少しでも入る確率が上がれば、更なるスコアアップだけでなく、気持ちの良さも格別になる。その為には、前記1,2,3が必要になってくる。

 2の目標に対して真っ直ぐに打ち出すと、3のパターの芯を外さない、この二つは実は同時に解決できるのだ。何が必要かと言うと、ストロークの再現性である。
よく、真っ直ぐ引いて真っ直ぐフォローする、だとか、ボディターンを意識してインサイドに引いてインサイドにフォローするなどと言われるが、それは何でも良い。特に、バックスィングを真っ直ぐ引くことを意識しすぎると、むしろインパクトでミスしやすい。私は、バックスィング自体は出鱈目でもインパクトからフォローを徹底的に意識する。それこそ、目標にパターのフェースが真っ直ぐ送り出すイメージで。

 インパクトからフォローさえ真っ直ぐ出せれば、必ずボールは真っ直ぐ打ち出せる。練習方法としては、バックスィングしないで、ボールに接触した状態からフォローだけで真っ直ぐ転がすこと。これで、かなりの感覚は養えるはずだ。
 その時に具体的にグリップは、ひじは5角形なのか3角形なのか、などなど形は様々だが、それは個々人でやりやすい方法を見出して欲しい。そして、1度掴んだからと言っても、人間の感覚は移ろい易いので、ちょくちょく確認しておくべきだろう。
 この確認の観点として、右手と左手が喧嘩しないことだろう。片手で打って、右手の方がフィーリングが出やすい人と、左手の方が良い人と様々であろう。左手主導の人の場合、どうやって右手が邪魔をするのを防ぐか。右手の邪魔を防ぐグリップとしては、逆オーバーラップや最近流行りのクロ―グリップなど。他にも自由に開発して良いだろう。
 右手主導の場合、左手及び左サイドがブレーキにならない様に、ひじが抜ける様なフォローを意識したり、全く逆に左脇を締めて制御するなど、他にも自由に開発して良い。
 一つだけ守る必要があるのは、ストローク中、フォローまで絶対に首から下の身体を動かさないことだろう。多くのビギナーは、パットを打った後に右肩が前に出て、カップの方に身体が動く。この動きが入ったら、インパクトでボールに真っ直ぐ、再現性良くヒットすることは不可能になる。初心者が、まず最初に練習すべきはこのヘッドアップ防止だろう。

 但し、注意すべき事項がある。それは、前述した距離感なのである。この首から下を完全に止める動きを習得するまで、身体を動かさないことを意識すればするほど、首から上も含めて身体全体が固まり、距離感が飛んでしまう現象が出易くなる。
 身体は静止した状態で、首から上を動かして視線を動かしカップ方向を確認し、ストロークを繰り返した後に、再度カップ方向を首から上だけで見る動きを、身に着けるべきだろう。これが出来れば、ミドルパットまでの直線性、ミート率は格段に上がるはずだ。

 これで終わりではない。上記の動きを試して欲しい。一体、首から下を止めたストロークで何m打てるのか。私でも、気持ち良く打って、5~6mまでだろうか、それ以上は難しいのだ。では、それ以上の距離にはどう対応するのか。簡単である、ゴルフスウィングをすれば良いのだから。そう、下半身で打つのだ。
 ゴルフスウィングは下半身主導の動きがあるからボールを飛ばすことが出来る。パッティングだって同じだ。身体を動かすな、と矛盾する様に感じるかもしれないが、頭の位置を動かさない、ビハインドザヘッドを守って、ニーアクションを使えばパッティングの距離は伸ばせる。大きく振り上げるのではなく、振り幅はそれ程変えなくとも、ニ―アクションを入れた瞬間に距離は伸びる。それでロングパットの距離まではカバー出来るのだ。

 さてさて、ここまでで、かなりのレベルでパット数が少なく出来るだろう。しかし、勝負所で入れたいパットが一筋違ったり、それでカップインできず、1打ロスしてしまう、最大の原因がアライメントである。構えた時に、目標に対して正確に真っ直ぐ立てているかだ。

 もちろん、初心者のレベルでの向きの不整合は、普通にある。初心者がいきなり真っ直ぐ立てる方が稀だろう。しかし、上級者レベルでも、最後まで苦労するのが、このアライメントであり、一筋の違いが1打差となる痛恨に繋がるのだ。
 その為には、ボールの位置は一定にしなければならないし、目線も目標の方向に対して、両目が並行であるべきだ。つまり、ボールの真上に目があり、首を動かして方向を確認する際も、打ち出す方向から目線がズレてはならない。

 私自身も長年、アライメントに関しては悩みに悩んできた。ボールマークを合わせるだけでは効果なく、ラインマークを入れたりもした。そして、傾向として、2通りのパターン、人による向き不向きのあることも発見した。打ち出すラインに対して、水平にパットを構える方法と、垂直にパットのフェースを合わせる方法の2通りだ。

 私に関しても、長年ラインに平行に合わせる様に苦戦してきたが、実は、最近パットのフェースを垂直に合わせる方法に変更して、アライメントの精度が格段に上がったのだ。
 その違いは、パターの後ろ側にラインをイメージする形状から、パットのフェースラインを明確に意識できるデザインに変更したのだ。

 アライメントを意識する練習は、真っ直ぐ紐を地面から20cm位の位置に張って、その下にボールを置いてラインに沿って打ち出す練習を繰り返し、紐を外しても同様に構えられる様に繰り返すことだろう。身に付けば、何もない状態で、いきなり構えて、真っ直ぐにアドレスすることが出来る様になる。

 後は、自信を持ってストロークを緩まずに打ち切ること。これでアプローチ次第だろうが、1ラウンドで30前後の勝負できるパット技術が身に着けられるだろう。

理系と文系の特性相違点

 私自身は理科系学問(理学部物理学科にて)を学び卒業し、就職後も技術開発などの業務を中心に従事し、企画販促や管理系、経営にも携わってきた。理系の中では幅広い分野に従事したが、その根底にある軸足、判断基準は理系脳による論理思考であったと思っている。

 ビジネスの世界で、理系と文系でどちらが優位なのか、判定は出来ないだろうし、答えはないかもしれないが、私の持論として、理系的論理思考力を持ちつつ、文系的幅広い視野での柔軟な思考展開が出来ることが理想的であり、そのバランスが勝負のキーポイントであると考えている。
 昔、データベース・マーケティング論をビジネスで語りあった時の1例を上げる。データの分析やその仕組みであるシステム思考など、構造的かつシステマチックに理解していなければ、マーケティング分析やCRM提案は出来ない。基礎となるシステムや技術面のバックボーンなく語るのは、いい加減な絵に描いた餅、机上の空論でしかないと論破していた。ちなみに、世の中のこの手の企画提案には、実にきれいに表現した夢の世界の絵に描いた餅の詐欺紛いのものが多いのも実態である。
 一方で、仕組みや論理、技術面に終始すると、その先の可能性や運用面の人の感性などが抜け落ちてしまい、面白くもなんともない、単に難しいだけの企画提案になってしまいがちである。これでは、正しいかもしれないが、実際の利活用には程遠く、夢もない状態に陥ってしまいビジネスでは通用しなくなる。
 実世界、実運用上は、理系、文系のバランスが取れる必要があるのだ。

 では、バランスと言ってもどちらを優位にするべきなのか。論争として、理系センスを持った文系と文系センスを持った理系とどちらが最終的に勝つのか。この論争に答えはない。しかし、実社会では双方のバランスが必要だということに異論はないだろう。しかし、現実社会は、どちらかというと文系脳に偏っている方が優位になる様に感じざるを得ないのは私だけだろうか。もう一つ、現実社会では、理系、文系の分類とは別に、軸としては直交する全く異なる軸として、体育系と芸術系が存在するが、複雑になる為今回はこの軸は除外して考える前提で、どうしても理系だけ偏った印象があるのは事実ではないだろうか。

 理科系学問の性格として、白黒はっきりしている事が上げられる。数学の計算結果に曖昧さはない。物理の法則も真しかなく、化学も再現性が要求される。もちろん、人類が知り得るのは、砂漠の一粒の砂に過ぎないのが自然科学の世界の真ではあるが、その一粒の真理を究明するものだ。解のない場合は、現時点で解がないとはっきりさせ、解を求めていく。万人に共通する解を。
 文科系学問の性格として、人それぞれの思想や考え方によって解は異なってくる。それぞれの見解として。法が絶対的なものと言いつつ、法律で明文化していながら、解釈が人によって異なってくる。歴史も学説として主流派はあっても、異説も異論も多々あるし、それぞれに正誤関係はない。新説に対して反証を繰り返し洗練されていく。しかし、どこまで行っても絶対真理には行きつかない。
 政治や経営の分野は、不確実な未来に対して、確実な答えを持たずに、今の手を打っていく。一長一短ある様々な方法論の中で、総合的に判断して決断するのだ。そこには政治、経営のポリシーが必要だろう。人間である限り、判断に迷う事もあるだろうが、その場合も基準となる根本的な基盤思想を持って判断される。しかし、判断のためにインプットされる情報が偏っていて全体像が俯瞰できなかったり、客観的な状況が見えていないと判断を誤ることもしばしばある。
 だからこそ、政治や経営の責任者は、多くの情報を多面的かつ総合的にインプットしたいと考えるのである。政治で言えば、専門家会議や話題の学術会議、経営であれば事業戦略部門やコンサル、シンクタンクだろう。
 では、この求める情報を提供してもらうためには、理系が良いか文系が良いかを考えて見よう。文系の性格上、答えには個人の思想信条、考えの偏りが必ず発生する。従って、決して客観的とは言えない。つまり、政治や経営に活かす情報としては、一人、一系統の文系系情報のインプットでは偏ってしまう事になり、判断を誤る原因になるのだ。確かに、政治家や経営者自身の思想信条、自分の考えに近しい系統から情報を得ると、自身の考えと一致しやすく、ある意味の心地よさが得られるだろうが、この様な場合の多くは裸の王様化してしまう危険性が高い。従って、文系的な情報をインプットとして活用する為には、真っ向対立する異論含めて多くの情報を多系統から求めなければ、総合的に判断することが出来ない。それが出来ないで偏ってしまうぐらいなら、初めから自身の思想信条、考えに則って他の情報を持たない方がむしろ良い。
 一方で、理系的情報を得るとどうなるのか。理系的性格上、正か誤か、その度合いを数値で表現するなど、情報としては明確になってくる。否定しようのない情報であふれるはずだ。しかしながら、現実に打つべき手が、その事に全面的に沿う必要があるかというと決してそうではない。何故なら、求めた情報の方向性においては真実であろうが、現実世界は多極面が存在する複雑化した社会である。実際に打つ手も、1か0かではなく、バランスが求められる。そのバランス感覚は政治家、経営者の手腕に委ねられるのだ。但し、絶対的事実の情報があれば、バランスが取れた判断に役立てられるのである。

 こうやって考えると、政治や経営で政策判断、経営判断の助けになる情報を取得する方法としては、基本的には理科系面の情報取得が必要不可欠だろう。やはり、客観的情報としては理系的な情報が望ましいと言わざるを得ない。少し、幅を広げても数学、統計的解析の経済まで広げても良いが、何が正か判然としない個々の思想が前面に出る法律系、政治系は情報としては偏ることを織り込む必要がある。人文科学的な情報は、アウトプットされる提言ではなく、その経緯の議事録、議論内容がなければ情報となりえないと言っても良い。一方向に考えをまとめ上げる事を求めているのではなく、両論を公平に聞きたいのであり、一方を封殺する様では採択できる訳がないのだ。
 例えば、原子力エネルギーの政策を検討する上での情報を取得する場合、理系的側面では、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーの夫々のエネルギー効率や温暖化ガス排出など多角的な影響面の科学的考察と開発のロードマップ、技術の可能性、安全面や想定リスクなどが情報として得られる。しかし、このことに関して文系的な情報を得ようとすると、イデオロギーを問う様な答えが、正解とは言い切れないにもかかわらず正解の振りをしてアウトプットされてしまう。こんな情報は百害あって一利なしなのだ。いや、言い過ぎたとすれば、住民感情や理解度、説明責任のレベル感などを推し量ることは出来るかもしれないが、事の是非を判断する情報では決してあり得ない。もちろん、最終的には民主主義的手段で決定していくのだろうが、その場合も政治家、経営者の信念で説得する以外になく、おもねる必要はないのだ。ダメだったら、政治家も経営者も進退を伺うだけなのだから。

 さてさて、そうこう考えると、今問題の学術会議はどうだろう。学術会議は政府の諮問機関であるのは誰も疑わないはずだ。しかし、3分の1が自然科学工学系、3分の1が医学薬学系、3分の1が社会科学法学政治学系であり、多くの発言は社会科学系、つまり文系の発信である。この3系統で言えば、母数となる研究者総数に対する比率で言えば、社会科学系は他の2桁下の数でありながら、会議体としては3分の1を占め、発信としては更に全体を牛耳っている印象が強い。これでは正当な判断の為の情報を得ることは出来ないと考えるのが通常だろう。それゆえ、政府は長い期間諮問をしていないのだ。
 この3分野を独立させ、数的にも適正数に配分し、もっと理系的な発信が前面に出る様な会議体にならなければ、政府諮問機関としては機能しないのだ。
 更に加えて言うと、政治家はプロである。そして行政の実行部隊である官僚もプロである。私には、人文科学系の学者がプロとして誇れるのは、自然科学系で言えば理学の分野であり、その実践に当たる工学の分野は、政治家や官僚の領域ではないのだろうか。であれば、人文科学系の学者に敢えて諮問する必要性は無く、あっても情報連携で充分。但し、政治家に絶対的比率で理系が少ないのが実態に見える状況では、自然科学、医学薬学系の学者、専門家への諮問は必要不可欠だろう。

 私は、理科系の人間なので特に強調したいのだが、もう少し理科系の人間を重用し、活躍の場が与えられる社会にならなければ、バランスの取れた判断による、本当の意味での発展にはつながりにくいと考えている。

学術会議問題に関しての検証3

 学術会議問題の本質的な議論が為されず、いや一般に公開されずに、行政改革で幕を閉じる方向に行く可能性が高い。本来的には、政府が公共の場に問題事項を曝け出し、存在自体を叩き潰すシナリオも想定されたが、菅総理は一般の考えをはるかに上回る、したたかさと、ある意味でのやさしさと妥協点を示して、あるべき姿に少しは近づけようとしつつ、負の部分も許容する方向性に見える。
 一般国民は、冷静に事の終止を見極める必要があるだろう。そうすれば、マスコミ、特に電波系の報道が如何に偏っているかと言うことも再認識できるだろう。

 では、この問題の本質論に迫るために、学術会議たるものの歴史的経緯を振り返ってみよう。

 設立は1949年、日本がまだGHQの占領統治下にあった時代である。従って、学術会議の制度設計には占領軍が深くかかわっていた。憲法で日本を武装解除し、軍需産業は解体、軍事技術を持てない様に監視する考え方が深く入り込んでいる。学術会議は総理府の機関として内閣に直属させ、会員は公選制としたが、武装解除という占領統治下の考え方、呪縛からは解放されなかった。戦後と言う特殊な時代環境下において、総理府の菅活力は弱く、共産党の支配体制が完成したのだ。公選制であったため、修士以上の研究者は誰でも投票でき、全国組織運動が盛んな共産党支持者を動員して多数の会員を確保し続けたのである。

 この様な状態で学術会議は、1950年に「戦争を目的とする科学研究には絶対に従わない決意の表明」の声明を出すなど、極左的な活動に終始し、政府の諮問機関として機能しなくなった。つまり、設立当初から諮問機関としての客観性のある機能は発揮できていないのである。

 この状態を是正するために、1984年に学術会議法が改正されたのだ。それが話題にあがる中曽根康弘首相時代である。その主要改正内容は、会員の選出方法が学会推薦に変わったことだろう。この公選制から推薦制に変えることは大きな改正であるが、同時にある意味ある種の取引として、推薦者を全員任命するという発言があったのだろう。しかし、それでも本質的な問題は解決しなかった。その後も共産党系の会員は前任者が後任者を推薦する仕組みの中で、一定の割合を確保し続けるとともに、各学会のボスが研究費の配分を行う場になってしまったのだ。
 その結果、2001年の省庁再編で科学技術会議が内閣府の総合科学技術会議になって、政府諮問機関としての役割を果たすようになった。学術会議は、業務重複の問題を抱え、総合科学技術会議の中に学術会議改革委員会が設けられた。
 2003年にアカデミーとして政府から独立した組織にするべきとの改革案が出されたが、学術会議は拒否した。その際に、会員の選出を学会推薦から会員の推薦に変更されている。その後も独立性を高める提案に対して、学術会議は拒否を続け、政府は2007年以降、諮問をしなくなり、名実ともに政府の諮問機関として機能しなくなったのだ。

 2017年に「軍事的安全保障研究に関する声明」を発出し、全国の大学・研究機関に呼びかけ、京大などの多くが軍事研究を禁止した事は広く知られている。実は、この声明自体は、僅か12名が出席する場で決定され、総会には報告のみされるだけで、日本学術会議としての正式文書となったのだ。この12名の中には、安全保障問題に関する専門家は存在せず、政治思想を専門とする政治学者が1名いただけであった。つまり、科学者の創意といえる声明では決してなく、優れた研究又は業績がある科学者による自身の担当する分野における意見でもなく、門外漢の非科学的、政治思想の偏ったものと言っても差し支えの無いものだったのだ。
 前述の声明の詳細文書作成は、「安全保障と学術に関する検討委員会」が対応したが、このメンバーは、先の声明で唯一の政治学者が委員長を務め、参加した社会学者3名中2名は共産党系の組織「科学者協会法律部会」の元理事である。
 この声明発出後、「軍事的安全保障研究声明に関するフォローアップ分科会」が設立され、先の組織から連続して就任した共産党系組織の元理事の2名が、継続的にフォローを実施。一部報道で伝えられている、自粛警察の様な活動で軍事的安全保障研究に含まれうる研究への参画を禁じてきたのである。

 ここまで見ても日本学術会議なる組織が、客観的公平性を保持した活動をしているとは思えず、政府の諮問機関としての機能は一切果たしていないことが理解できるだろう。
 学術会議が改革を拒否して一貫して守ってきたのは人事の独立性ではなく、内閣直属機関としての権威であり権益であろう。学術会議の年間予算は10億円と言われているが、その額の問題ではなく、科学研究費補助金の審査委員を選ぶ権限や科学技術予算配分の権限などを有するのであり、今年度予算規模でいうなら、科学研究費補助金は2300億円、科学技術関連予算は4兆3000億円と巨額の権益なのだ。
 先の軍事研究禁止の声明も、学術会議の政府機関としての位置付けによる権益がなければ、何の強制力も持てず、話題にすらならなかったのではないだろうか。

 会員の選出に関しても、「優れた研究又は業績」が必要条件となっているのであり、各科学者の選出条件となった研究や業績の分野における活動に制限されるべきだろうが、実態はその科学的研究・業績の領域ではなく、政治信条・思想面が前面に出して、他の領域へ干渉する活動に終始しているのであり、とても正当な活動とは言えない状態なのだ。例えれば、プロ野球の一流選手が、将棋界の運営に口を出すことを平気で行っている様なことではないだろうか。確かに、プロ野球の一流選手は、その道では一流だろうが、門外漢の分野に対しては、他の素人と何ら変わらず、ましてやそこに政治的思想を入れ込んでくる様では健全であろうはずがない。

 今回の騒動は、共産党機関紙である赤旗から抗議が始まった。そこに、政府攻撃の具として飛びついた立憲民主など野党が声高に「学問の自由に関する政府の不正侵害」「政府の違法行為、違憲行為」と攻撃を始めた。マスコミも同様、電波系を中心に政府攻撃ネタとして伝え続けた。途中から雲行きが怪しくなったと感じたマスコミは、説明責任を攻撃のネタに変更しているが、多くの左派知名人は未だ「学問の自由」「違法違憲」を叫んでいる。野党は国会でどんな無理筋の論理を展開するのだろう。

 しかしながら、ここまで見てきた学術会議の活動を見る限り、科学者による学問、研究の場ではなく、極めて政治的な活動をする組織になっている。その会員が科学者であるというだけで、その実は政治活動である。
 しかし、構成会員の多く、いや日本における科学者は決して全て左派思想者ではない。それどころか、多くは純粋に科学技術を追求する学者なのである。実は、多くの科学者は、現在の学術会議の運営状態に問題意識を持っており、自らの研究を進めるために仕方なく事を荒立てていないだけの被害者も多いのである。即ち、健全な活動に改善するポテンシャルは十二分にあるのだ。

 コロナ禍における専門会議でも話題になったが、専門家会議の役割はあくまで専門的知見、知恵の結集であり、それによって未来に起こり得る事態の予測や対応策を提言としてまとめることであり、それを受けて政策判断をして実行するのは、あくまで政治の役割である。

 科学技術に関する国家予算配分は、あくまで政治の役割である。国家としてどの研究に力を入れるのか判断するのは国家戦略なのだから。同時に、政府諮問機関としての機能を維持するためには、政治主導の任命権が無ければ成立しえない。学問を民間が、一般的に行うのは自由で独立すればよい、産学共同などスポンサーを募っての活動は自由だ。だが、あくまで政府の政策を検討する上での諮問を受ける組織としては、政治介入が必要不可欠である。そして、その正当性は民主主義によって保たれなければならないのだ。

 科学技術が人類の発展に寄与することは人類の歴史が証明している。しかし、使い方を誤ると人類を不幸に陥れることもある。正と負の遺産、双方を冷静に考えて、凡その結論は、科学技術の発展を停止させるのではなく、更に発展させ、使い方を誤らない工夫をするというのが基本的な考え方ではないだろうか。つまり、科学技術を発展させる分野の選別ではなく、分野自体は幅広く研究を推進する。これこそが学問の自由である、そして成果の活用に関して方向性を吟味する仕組みを検討する。従って、軍事研究であろうとも積極的に推進すべきであり、それを戦争抑止の平和目的にしか使えない様にする政治政策、いわゆるシビリアンコントロールが必要になるのだ。その政策は、ある特殊なイデオロギーにのみ委ねられるものではなく、民主主義的手段によって判断されなければならない。

 以上の様に考えると一つの提案が生まれてくる。まず、学術会議なる組織は、3つに分割、別組織化するべきであろう。一つが、自然科学・工業技術系、一つが医学薬学系、最後に社会人文科学系。それぞれ3系統は、独立し、相互に干渉しない。あくまで、専門分野における、政策提言、政府の諮問機関として機能する。組織の会員は、会議側からの推薦を幅広く実施し、推薦理由や実績も含めて公開し、その中から政府により分野や期待するべき分野のバランスなどを加味して選定し任命する。その任命理由も公開する。当然ながら、諮問内容や政策提言内容などは公開する。民主主義的なシビリアンコントロールを発揮して、科学技術の発展を政策に利活用する、最大にして最適な方法論と思えるのだが、いかがだろう。

 菅総理と梶田現会長との会談が行われた。恐らく、内々には収束していくだろうが、一部の抵抗勢力は抵抗を続けるだろう、場外乱闘として。梶田会長ご自身は、自然科学の分野に属する物理学の教授であり、常識的な理屈は通じるどころか論理思考に長けているはずなので、共通の落としどころに向かえるだろう。それでも続ける抵抗、抵抗勢力の背景を見れば更に、この問題構造が見えてくるだろう。科学技術、学問ではなく、イデオロギーを優先する一定の層と政争の具として攻撃ネタにしか考えていない野党、政権監視という大義名分を振りかざした単なる批判拡散のマスコミに限られてくる。今後、国会や報道でも揚げ足取りの追及が繰り返されるだろうが、その中身は冷静に見極めるのが国民の役割だろう。

学術会議問題に関しての検証2

 本件に関して、私は勝負あったと断じたのだが、いまだに反対の政府攻撃は収まらない。ネットでの誹謗中傷論は、ひと時も休むことなく多くの学者や専門家などから続けられていたが、電波による攻撃は一時静かになった。しかし、総理の105人のリストを見ていないと言う発言を境に、電波でも再燃した様に感じる。これは、あたかも沈静化しそうだったのを、再燃させるべく一石を投じたと見るのは私だけだろうか。

 リストを見なかった発言で、左派系野党議員は声を荒げて、違法行為とまで言っているが、本当に違法だと思っているのなら法廷に持ち込めばいい。本音では、違法行為ではない、少なくとも法廷で違法との判決を得られるとは思っていない証拠であり、政争の具としてあら探しをしているだけにしか一般的には見えない。例え告訴しても、勝訴を目的としている訳ではなく、世間に対する印象操作でしかない。

 リスト全体を見ていなくても違法でもなく、無責任でもないことは、仕事の仕組みが理解できていれば分かることだ。推薦に対して、責任部門が指示や方針に基づいて、全体リストを精査し、結果を説明して承認を得る。至極当然のワークフローである。何の問題もない。

 わざわざ、菅総理がこのことを情報として流したことに意図があると考える方が素直だろう。元々、任命理由に関して必要以上の説明を避けている、これも意図的だと感じる。

 分かっている人間が考えると、推薦理由が疑わしいリストに対して世間が納得できる推薦理由を学術会議側が説明出来ていない。『優れた研究又は実績』という理由を尤もらしく語っているが、その説明に当てはまる科学者は日本国中で105人以外に相当数存在するはずだ。従って、105人の推薦理由を『優れた研究又は実績』で説明すること自体間違っている。それはあくまで法的に定めた基準であり、理由ではない。
 『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』も確かに曖昧で、99人の任命理由として弱いのは事実だろう。だが、人事のことは詳細にできないという理由も尤もであり、何より、推薦理由と並べて同じレベルで語っているのである。そこがポイントであり、ある意味罠だろう。

 推薦者リスト自体が偏っている、と言うよりは学術会議の存在そのものが偏っている。従って、ここに手を付けたいが、抵抗勢力は強力で、一般国民の信任も簡単には得られない。学問の自由、言論の自由と言う大義名分で攻めてこられると、理性的・論理的な議論にはならず、感情的な陰謀論に終始してしまう。

 そこで、任命を99人に絞り一石を投じ、学術会議からの攻撃を敢えて受けているのではないだろうか。想像ではあるが、総理からの指示で定員以上のリストが出てこなければ、一定数の除外者を出せと。その除外する考え方として『総合的・俯瞰的』を指示したと考えられないだろうか。その目的は、はっきり言って、6人を拒否したというよりも任命権が内閣側にあることを意思表明することであり、一部のマスコミが言う様な反政府思想者の除外ではない。それは、99人の中にも相当数反政府思想者が含まれているのだから成立しないのである。

 そして、論理的に、法的に誹りを受けない最低限の発出に抑え、敢えて攻撃をさせている。それにより、馬脚を現わさせる。実際に、学術会議に参加している学者からの攻撃は目に余る酷さがある。一般の人が聞いてどう感じるだろうか。正直私が感じるのは、『上から目線の常識知らず』『自分の思い通りにならないことは他人の責任』『自分の学問の自由、自分の許さない学問に対する制限』『何様のつもり』など、世間常識を逸脱する、ある意味一国の政府に対する誹謗中傷の暴力的な暴言は聞き苦しいほどだ。学者先生の身勝手であれば、まだ百歩譲って笑って許せても、国家反逆とも取られかねない件も多く耳にするのは如何なものだろう。

 この様な実態を世間に詳らかにして、世論に問題提起をしようとしているのではないだろうか。

 確かに、6人を拒否した理由の説明を求める声は大きいだろう。それに詳細を応えないことは、国民の理解を得られないリスクも高い。しかし、それ以上に、この組織の実態を晒して、そうせざるを得ない現実を理解してもらう方が、構造改革には近道だろう。身を切らせて骨を断つだ。

 本当の意味での学術会議に求められる社会的責任は重い。学問の自由などではなく、国家として行く末を誤らないための、多方面からの検討、検証の機関として、聖域なく追及してもらう必要がある。その機能が、この様な偏った反政府組織になっていては国家としてのリスクである。
 学術会議から遠い学者たちも加えた、本当の意味での組織体とする為には、大なたが必要だろうし、次の総選挙の争点でもあるだろう。

日本学術会議問題の論理検証

 学術会議問題に関しての検証

 内閣総理大臣による任命拒否に関して問題視をする報道が圧倒的に多いが、聞く側の国民は、感情的にならず冷静に事実関係を正確に検証する必要がある。

 まず、任命拒否の法的裏付けに関して。日本学術会議法によると、『日本学術会議が内閣府令で定めるところにより内閣総理大臣に推薦し、その推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する。』とある。つまり、推薦に基づかない任命は出来ないが、推薦者を全て任命しなければいけないとは書いていない。大昔の中曽根総理の答弁が任命は形式的だと述べているかもしれないが、大昔であり時代は変遷しており、学術会議の活動自体も様変わりし、関連法も変遷している。何より。直近で推薦に基づいて全て任命する義務までは無い、という法制局の解釈文書も提示されている。従って、任命拒否に関して、なんら法的に問題は無い。
 逆に、ここまで明確な状態で、違法と言う人達は、法治主義を根底から覆す、自分の都合のいいことは合法で、政府を責める際は何でも違法と言う、あまりの稚拙さを露呈してしまう。

 次に、独立性の問題に関して。これも同様の日本学術会議法によると、『日本学術会議は、独立して〇〇の職務を行う。』とある。つまり、会議組織の独立性を担保するのではなく、職務の遂行に関して独立性が担保されていることになる。そして、会議自体に関しては、それよりも上位条項に『日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。』と明確に記されている。つまり、内閣総理大臣が所轄する組織の定められた任命権を行使することに、何の問題性も感じられない。

 ここまでの法的な位置付けに関して、実はよく練られた絶妙の民主主義的統制が効いていると感じるのは私だけだろうか。日本学術会議法に目的として記述されている『科学の向上発展を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする』を考えると、会議を組織する会員は、一定の民主的統制が必要だが、一般人の選挙では選定は困難なので内閣総理大臣の任命としつつ、行政府の恣意的な暴走を抑止するために、あくまで推薦を会議側から実施して、その中から任命する。つまり、内閣総理大臣には拒否権はあっても、人を指名することは出来ないのだ。

 学問の自由を侵害するという論は、あまりに論理が飛躍し過ぎていて説明の必要は無いだろう。間接的に忖度が起こって、学問の選択の幅が狭まるという遠い論理もあるが、学術会議会員に何らかの既得権益でもない限り、会員になることを目的とした忖度行動などあり得ないのではないだろうか。ここを、あまり強く言うと、裏においしい既得権益があると勘ぐってしまう。国庫負担の10億円を運営経費が6割締め、個々人の会員に特典がある訳ではないと強調されていたが、そんなことは問題でなく、経費であろうと国費を使っており、独立したいのなら本当に独立して民営化すればよい。その場合運営経費も勿論賄う必要がある。そういう表向きの経費ではなく、裏の既得権益構造がもしもあれば、それこそが問題視されるべきで、正当で客観的な職務遂行に妨げがあり得るのだ。

 さて、そうやって考えると任命拒否に関して唯一残る問題性は、『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した。』とする総理の判断基準の説明責任だろうか。しかし、これまでの考察を経た上で言わせて頂くと、任命拒否の説明責任の前に、推薦理由の説明責任の方が先だろう。推薦は、『優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補を選定し、内閣府の定めるところにより推薦する』とあるのだから、大勢候補者を選定した後に、推薦者を絞っているのであり、その絞り方に『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』が存在するかが焦点である。
 学術会議側は、女性活用などのバランスを強く言っているが、本当にバランスがいいのか。念のため名簿を確認してみた。
 今回任命されなかった6名は、法律学者、思想学者と人文系である。では他に、同じカテゴリの人文科学者がどういう構成で存在するのか。継続会員で同じカテゴリが8名に対して、新規会員が7人。もし、6人もそのまま任命していると、13人と多くなり、バランスが崩れ半数に絞ったと考えると辻褄は合わないだろうか。少なくともバランスが崩れているのは事実だ。
 そして、カテゴリ分類して分かったが、情報系の学者が、継続会員は10人規模で存在するのに、今回の新規会員には3人しか存在しない。デジタル推進を改革の目玉に掲げている状況であれば、通常の感覚であれば情報系の学者が今までよりも増員しても良いぐらいだが、現実は大幅減なのだ。
 これは、バランスを欠いた推薦と判断されても仕方がない。本来であれば趣旨に合わせた、情報系の会員の推薦を託したいところだが、そこまでは踏み込めないぎりぎりの任命拒否ではないだろうかとの仮説が成立する。そこまで議論を始めると、会議のあり様から見直す必要がありそうだ。