新型コロナ感染症の医療体制整備

 新型コロナ分科会は、『個人努力だけに頼るステージは過ぎた』と状況分析し、経済停滞策を提言で要請した。しかし、ここに大きな疑問を私は感じている。個人努力だけに頼るステージでなくなり、ある程度の感染拡大リスクを受容せざるを得ない状況になっている現実は同意するのだが、だから即経済停滞策実行というのは論理が飛躍し過ぎている。経済停滞策は即ち経済死というリスクに直結するのであり、どちらのリスクによる被害が大きいか比較評価なく軽々しく言うべきではないのである。しかも、他に取るべきリスク低減策はあるはずなのだから。

 今、リスク低減策として取るべき最優先の策は、医療体制強化のはずである。そんなこと既にあの手この手で実施している、という声が聞こえてきそうだが、長年企業の組織再生やⅤ字回復、事業再生、再構築を実行してきた身から言わせて頂くと、根本策に着手出来ていないと感じざるを得ないのだ。少なくとも、あらゆる手を打ち尽くしたという、数字での説明を聞いたことが無い。

 企業再生や組織改革を断行する観点で言うと、まずはあるべき姿を描く。そして現状分析の結果とのギャップを明確に認識し、数値目標を設定してギャップを無くす策を実行していくのが基本中の基本である。そうやって考えると、新型コロナ対策として必要な医療体制は、欧米諸国の2桁上の感染状況とまでは言わなくとも、インフルエンザの例年の感染数ぐらいは想定必要ではないだろうか。昨シーズンを除けば、1000万人規模の感染者を出しているインフルエンザ、その規模の新型コロナに備えるにはどうすれば良いのか、何故考えていないのだろうか。それは、政府や政治の問題でなく、医療業界の問題のはずだ。

 年間1000万人規模の新型コロナ感染者が発生した場合の医療体制を整えるために、これこれが必要だから、予算規模〇兆円必要だと提言し、体制整備の具体化を推進するのが分科会の役割であり、これが達成できない場合は、これだけのリスクが顕在化する、と数字で発信するべき。それを受けて、経済打撃と天秤にかけて判断するのが政治の役割であり、民主主義を前提にすると、国民の判断である。
 この場合の提言の数値は、非科学的、非論理的な数値ではならないのは理解できるだろう。コロナ怖いと言い続けるための、死者何十万人という奇想天外な数字は逆効果でしかない。あくまで科学的根拠と論理性のある、現実的な数値で表現する必要がある。そんなの分からない、未知の部分が多いので仕方がないというのは無責任である。あらゆる仮説は想定であり、現実的な仮説、リスク想定をして、改革を立案するのが専門家であり、出来ないのなら発信する能力はありませんと宣言しているに等しいのだ。

 さて、何故ここまで医療に対して強硬な意見を発するのかと感じられる方も多いだろうが、その理由は複数ある。

 まず一つ目は、インフルエンザの毎年の感染状況に対して、抑制策は課題とされても、医療崩壊の危機とまで言われたことは聞いたことが無い。新型コロナの場合、指定感染症の法的な違いが問題だというのであれば、インフルエンザと同等の法的医療対応にした場合、どの様な事態が発生するのか、シミュレーションした結果を出すべきで、それが議論のベースになるはずだ。
 例年のインフルエンザの場合、発熱があって受診しないと検査を受けない。新型コロナの様なクラスター追跡や濃厚接触者として検査を受けることは無いので、実際は隠れ感染者が数倍から一桁上で存在するはずなのだ。新型コロナは、多くの無症状者や非感染者まで検出しているのであり、公平に数字を比較すればインフルエンザの感染規模よりも遥かに少ないのが現実である。死者数も超過死亡まで考えれば、新型コロナの現状は、まだまだ少ないのだ。何故、医療崩壊の危機なのか、意味が分からないのである。

 二つ目は、新型コロナに対して検査の体制不足が叫ばれ続けてきたが、政府発信では、この冬には1日20万件の検査体制に強化とのことであった。この数値は、インフルエンザと同等の数値である。即ち、インフルエンザと同等の感染拡大まで想定した検査体制としているはずである。にもかかわらず、病床数など医療体制はそこまでの想定をしていないのだろうか、不思議なのである。メディアで発信される専門家の主張では、設備やベッドを増やしても人の体制は、そんなに簡単に増やせないとのこと。それはその通りかもしれないが、では検査1日20万件の受け入れ態勢を問題視せずに検査だけ増やせと言っていたのか、もしそうなら、無責任過ぎるか、計画思考が無さすぎないだろうか。

 三つ目は、そうはいっても欧米諸国と比較して、未だ感染者数、重症者数、死者数は桁違いに少ない。そして、日本の医療体制は、諸外国と比較しても間違いなく優秀であると確信している。欧米諸国で医療体制崩壊しているとはいえ、今の日本のレベルで医療崩壊云々と言うのは余りにもおかしいのではないだろうか。日本が医療崩壊寸前であれば、諸外国はとてもじゃないが今の程度の医療崩壊に止まらず、国家破綻してもおかしくないだろう。しかし、そこまでは行っていない。日本の医療キャパ、能力が、諸外国と比較して劣後していれば仕方がないが、そんな筈はないと信じている。

 四つ目が、医療機関の多くが赤字経営に陥り、経営破綻しそうだとのこと。まず、既往症や他の病気の患者の来院数が激減、入院も減少し経営難との説明があるが、本音を言うと、来院を控える患者は、本来来院の必要が無かった患者ではないのだろうか。必要以上の診療を受け、投薬を受けることで寧ろ健康を害していた可能性も指摘されており、むしろ健康国家経営に近づいており、健康保険財政面でも健全化に近づいている方向なのだ。
 そして、医療機関の収益が悪化しているというが、一般国民の感覚としてほぼ同意いただけるのは、医師は高収入であるということ。収支構造を明確にした上で経営改革の断行が必要なのかもしれない。その上で、収益を維持する為には、経営効率化やムダ取り、ロス排除できる要素が山積している様にも感じる。少なくとも、一般事業では改革無ければ継続はあり得ないのだから。

 最後に、そうはいっても数々の医療体制強化策は打っているとも言えるだろう。しかし、あるべき姿と現状のギャップから導いた施策では無く、現状ありきの出来ることを積み上げる施策、経営の世界では積み上げ施策と揶揄される策に過ぎないと感じられるのだ。策を打っても、目標に到達しないのなら、何のための施策だろうかとなる。それこそ、行き当たりばったりの、泥縄と言われても仕方がない。企業が改革できない最大の原因がこの要素であり、出来ることしか考えないで目的意識を持たないと破綻するのは至極当然なのだ。

 医療体制強化の策は、専門的見地が必要であり、その為に分科会なるものが存在する。医療先進国としての誇りを持った、データ分析と提言で、前向きで実効的、目標意識の高い、強化策に必要な投資資源を政府から引き出す動きが必要なのだ。
 それでも諸外国と比べて医療体制が脆弱なので危機は防げないのだと、論理的数値を示していうのなら、その時点で初めて経済停滞策を土壌に挙げて天秤にかけるのだろう。

中等症からの死亡が多い原因

 第3波感染拡大が騒がれる状況で、重症者数、死者数も徐々に増加している。しかし、それでも本当の意味でのパンデミック、欧米諸国の危機的状況と比較すると桁違いの静かさであり、日本国内で考えてもインフルエンザの例年の流行状況と比較しても同等レベルかそれ以下であるのが統計数字上の事実である。第1波と比較しても医療処置の進歩が確実だと思われる。

 それだけを考えると、何を大騒ぎしているのだろうかと思えるのだが、死亡に至る経緯は、私自身も解せない数字が存在する。それが中等症からの死亡が多いことだ。普通は、重症を経て死亡に至る。しかし、新型コロナの場合、中等症や軽症からの死亡者が多いというのは、不思議な現象であり、信じられなかった。

 多くのメディアは、中等症や軽症からの急変だと言う。実は私も、それ以外の可能性は無いと感じていた。

 疑問だったのは、当初の急変メカニズムは、症状の悪化がステルス性で進行し自覚症状が無いまま悪化していくことにあったが、それ自体はパルスオキシメータによる血中酸素濃度をトレースすることで早期検出が可能になったはずだったのに、何故だろうかということだった。臨床経験により、その急変は対処可能になったはずだったのに、未だに中等症・軽症からの死亡が多いことは謎なのだ。何か、別のメカニズムによる急変現象があるのだろうか。

 しかし、そのカラクリが解けた。その理由は、看取りであった。

 私自身も母を昨年亡くした。看取りであったので良く事情は分かる。母の場合、大病の百貨店の様に数々の病を患った。持病としての喘息を持ちながら、最初の大病は平滑性筋肉腫。手術による切除から、抗がん剤治療、放射線治療を受け完治した。その後、心臓病を患い、弁置換とバイパス手術を同時に受けた。この時点で障碍者に認定され、生態弁の寿命もあって余命を宣告されたような状態であった。しかし、そこから元気に回復し日常生活は何の問題もなかった。その後、両目の白内障手術を経て、転倒時の外傷性による脳の硬膜外出血により緊急手術を2回受けた。その後も喘息の緊急入院を年1~2回のペースで繰り返したが、それでも元気に振る舞っていた。ある日、一人で外出中に倒れ、緊急入院した時は、体中に管が通る危篤状態だったが、何とか回復してリハビリ病院に転院した。しかし、その時点で嚥下障害もあり、胃ろう手術を施さざるをえなかった。リハビリを経て、一般の施設に移り回復して胃ろうも外せるまでになった。このことは、医師や介護師からは奇跡だとも言われた。それでも24時間ケアが必要で、施設を移ったが、健康状態でありながら、いつ何が起こっても仕方がない状態になっていた。家族として医師とも相談し、ここまで頑張ってきた母に既に高齢になっている状態で、これ以上無理させるのは忍びない状態でもあり、看取りをお願いするに至った。それでも、その状態から1年以上無事に過ごせたが、徐々に弱っていく様が見て取れ、ある日朝食は元気に取ったものの、昼過ぎに静かに永眠した。既に平均寿命を大きく上回った大往生であった。看取りとは、その時点でも延命処置をしていれば管に繋がれた状態でも少しは延命できるのだろうが、そんな選択肢は取れなかった。

 命の重さは言うまでもないが、看取りに関しての是非は家族以外には語れないし、語る資格は無いと思う。経験した身でなければ分からないかもしれないが、それ程重大な決断なのだ。

 看取りを決断して、その状態で新型コロナに感染した場合どうなるか、容易に想像がつく。通常の介護、医療処置で軽症や中等症までは対処可能だろうが、看取りを決断する状態であれば、かなりの確率で重症化するだろう。しかし、その時点でECMOに頼ろうとは決して思わないしそれが看取りだ。例え、ECMOを使おうとも、数日の延命が精々で、厳しい状態に変わりは無く、苦しむだけだという判断だ。しかし、一旦ECMOに繋がれれば、重症者からの死亡だが、その処置が為されないので、見た目には軽症や中等症からの死亡ということになる。

 この数字上のカラクリは、聞いてみると納得できる数字であり、決して急変でも何でもないのである。インフルエンザであろうが、風邪であろうとも同様の事象になるのである。

 看取りとは高齢者の寿命が最期を迎える直前の出来事である。スウェーデンの新型コロナ対策が集団免疫獲得を目指しロックダウンなどの行動自粛を行わず死者を多数出しながらも、その大多数が高齢者であり、実は平均寿命が変わらないという状況が起こった。それは、スウェーデンでは従来から看取りに近い最期を迎えるケースが多いという、命に対する考え方の国民性に裏付けられている。

 従って,新型コロナが正体不明の急変で軽症や中等症からいきなり死に至るというのは、間違った情報である。全て世の中の事象には原因があり結果に繋がる。謎があれば必ず答えもある。解明されていないこともあるかもしれないが、新型コロナに関しては、ほぼ解明されてきている。不必要な恐れ方はする必要が無いことを、もう一度認識するべきだろう。

感染経路不明とは

 感染経路不明が増えているという。どこで感染したか思い当たる節が無い、と言われており、そのことは、感染が拡大し危機的状況であると専門家の多くは言い続けている。
 しかし、この事には異論がある。日本語の表現として間違ってはいないが、誤解を生む表現である。感染経路不明とは、一部の例外を除いて、感染経路に思い当たる節が多すぎて、どれか判別できない、というのが正しいだろう。そして、危機的状況というのも一概には言えず、事実とは異なることも多いのだ。

 私自身も、感染予防は万全に行っているつもりだ。それでも、いつ感染してもおかしくないと思っている。いつウィルスに曝露されるかは分からないし、100%防ぐことは不可能、ウィルスに曝露している前提で、感染しない様にいつも以上に体調管理を行うこと、最悪感染してしまっても、発症しない様に体調管理を心がけることに徹底しているし、家族には同様のことを言い続けている。それこそが万全な対策であると確信しているし、拙著『ファクターXの正体』シリーズでもこの点は強調して、Withコロナの基本としてうったえているつもりだ。

 さて、では感染経路とは何を言うのかだが、ウィルスに暴露された場所であり環境を特定することに他ならない。クラスターであれば分かり易いが、今や市中のどこにでもウィルスは存在している。その状態で、例えば電車に乗れば、吊革を触り、エスカレータの手摺を触り、次に手を洗うまでの時間にウィルスはどう移動しているか計り知れない。近くで咳をした飛沫、会話時の飛沫を浴びていないとは断言できない。そこまで言い始めたら1歩も家を出られない。嫌、家にいたところで、あらゆる外部との接触を遮断することは事実上不可能だろう。つまり、現状の状態は、感染抑止行動を採っていても、ウィルス暴露は一定のリスクとして存在し、受容しなければならない状態なのだ。

 そんな大変な?と思われる方も大勢いらっしゃるかもしれないが、私は、全く逆だと言わせて頂きたい。だからこそ、少しは安心しても良いのだと。

 ウィルスは本来宿巣である人類を絶滅させるものではなく、共存するものなのだ。従って、強毒性のウィルスは蔓延する程、感染拡大しない。感染したらすぐに死に至り、感染させる暇がないからだ。逆に、潜伏期間が長く、感染リスク期間も相当に長いウィルスは概して毒性は弱い。今の状態は蔓延状態でもあるので、ウィルスの毒性は決して強くないことを証明している様なものなのである。

 生物化学兵器として、潜伏期間が長く、感染力が高い状態で、毒性が強いウィルスが開発できれば、無敵だ。もちろん、ワクチンとセットでないと兵器として使えないが、ウィルスが出来れば一定期間でワクチン開発は可能だ。しかし、この様な強力な化学兵器が開発されたとは聞こえてこないのが現実なのだ。

 インフルエンザと風邪(ウィルス性感冒)を比較して、どちらが感染経路を認識しやすいだろうか。明確ではないだろうか。風邪を感染性と思っている人は、多くないかもしれない。それ程、原因ウィルスは常在しており、共存している。だからと言って、病気である事に違いは無く、風邪は万病の元であることも忘れてはならない。

 年初は、新型コロナウィルスの挙動も毒性も、発症する症状も未知の部分が多かったが、人類の医療は捨てたものではなく確実に様々な対処を学んで来て、医療成績は格段の進歩を遂げている。

 新型コロナを恐れるな、とは言わない。病気である事は間違いないのだから、恐れるべきである。しかし、必要以上の恐怖心、非論理的で目的意識の無い行動自粛は不要になってきたのであり、適切に恐れ、適切な対応、行動をすれば良いのである。

 感染経路不明や家族感染の率が増えたということは、他の感染経路は対策して防止しており、クラスター発生抑止も出来ている、成果が出ていると自信を持って良いのだ。

 この状態で、感染抑止の最大の策は、個人の健康管理に他ならない。栄養を十分にし、ストレスもほどほど、睡眠含めた休息も取り、日光も浴び、ビタミンDなどの摂取も心がけ、体調を保ち免疫力を高める。

 そして、人体の中での感染経路も意識する。即ち、喉や鼻、目などの粘膜を常に綺麗に保つ為に、うがいや鼻洗浄を徹底する。そこにウィルスを運ぶ媒介となる手も洗う。人体侵入の感染経路を意識して最大限防ぐことだ。

 但し、世の中は良識的な人達だけで構成されている訳ではない。無防備、無対策で行動する人も一定数現実に存在し、その結果、一定の感染拡大に繋がっていることも事実だろう。どれだけ、社会的責任、社会的要求があろうとも、法的責任すら守らない行為も実社会では決してゼロにはならない。
 その事を容認しろとは言わないが、事実としてそういう人達も存在する前提で、自らの身を守る意識を持つことが大切なのだ。罪を憎んで人を憎まずの精神で、人の事をどうこう言うのではなく、その事に影響を受けず、自分の行うべき事を自信を持って行うべきなのだ。

感染拡大と因果関係のない対策

 因果関係のない対策は対策ではない。当たり前だ、結果と関係ないことを実施しても結果を変えることは出来ないからだ。

 GoTo と感染拡大に明確な因果関係がない、証明するエビデンスはない、にも関わらず、多くの識者は、感染対策としてGoToの一時停止を呼びかけ、世論が形成され、民主国家としての政府は、一時停止せざるを得ない空気に動かされた。これは春の緊急事態宣言時の再来である。GoToを停止すべきと提言するのであれば、その成果もコミットするべきだが、出来るはずがない。

 エビデンスはないがきっかけになったのは間違いない。GoTo を実施している環境では、感染予防に対して緩む方向の空気を形成し、感染予防対策が疎かになっていると言う。だから、一時停止という空気感で引き締めようと言うのだ。冷静に考えて、国民をバカにした考えであり、国民としては怒って然るべきではないのだろうか。ある意味、直接効果は無いが見せしめとしてGoToがスケープゴートになった様なものだ。と思っていたら、素直で正直な日本人は、恐怖で煽られると頭で分かっていても、理解を示し、仕方がないと受け入れる空気を産み出しつつある。
 その根底にあるのが、感染症は人の移動で感染拡大すると言う、疫学上の常識であろう。エビデンスが無かろうとも、事実を無視してでも、常識なのだから移動制限は効果があるはずだと。

 では、その常識を論理的に検証していきたい。移動制限とは、ゾーニングによってホワイトゾーンを継続的に確保する目的で行われるものである。その前提で、下図を見て頂きたい。

ゾーニング

 上図の様に、着色部分がまばらで、区分できる状態であれば、境界線を設置してゾーニングを行えば白地の部分は確保できる。しかし、下図のように白地の中に全体的に着色部分が分布している状態で境界線を引いて移動制限しようとも、全面的に着色ゾーンになり白地は確保できない。春先と違って、今や蔓延状態なので、中途半端な行動制限に何の意味もないのだ。

 模式的に図示したが、ウィルスの蔓延状態は、今やどこを切っても白地は無く、まばらに濃淡はあれども、全面グレー状態である。それは境界の切り方や、ゾーンの大きい小さいは関係ない。マクロで見ても、ミクロに切っても同様のまばら着色状態なので、どこに行動制限を実施しても結果は同じである。小さなゾーン内に行動が制限されても、人の接触はそのゾーン内で発生するので何も変わらない。

 唯一可能性があるのは、個人単位で区切ること。つまり、全ての人の行動を制限すること、完全なロックダウン、ステイホームで人との接触をゼロ化すること。これは、一定時間でウィルスが死滅する効果があるかもしれない。しかし、それは日本ではできない。そして必要ない。また、一旦死滅しても、必ずどこかから流入する、阻止できない類のウィルスだからだ。

 陽性者をあぶり出して、行動制限すると言う考え方もある。その為に徹底検査が叫ばれ続けた。しかし、徹底検査を実施した諸外国も今は再感染拡大している。その理由は簡単、検査で白黒区分することが出来ないから、境界の意味がなくなるのである。日本でも、体操の内村選手偽陽性などの現象は記憶に新しいのではないだろうか。検査で白黒、デジタル区分は出来ないのである。

 確か、このウィルスの絶滅は現実的でなく、Withコロナ、共存を目指すと合意していたのではなかったのだろうか。少し感染が増えると、直ぐに情緒的に、ゼロ化、ゼロリスクを前提とする議論に発展してしまう。あり得ないゼロリスクを追求する結果、国民の人権を制限し、生活を犠牲にし、富を失する結果を招く責任を、ゼロリスク信者は責任を取ってくれるのだろうか。多分、他のリスクが顕在化した時点で手のひらを返して、失政だと追求し始めるに違いない。

 ウィルスは人類を絶滅させない。共存の道を選択する。従って、蔓延状態が続けば、ある一定期間で勢力は弱まる。もちろん、ウィルスに曝露されても、感染しないで健康を維持する可能性を高める対応は可能である。それが、個人の免疫力強化、体調管理、栄養補給、睡眠確保などなど。ウィルスが存在して健康も維持できている、これが人類にとってもウィルスにとっても最善であり、真の共存状態である。

 ブルームバーク通信で日本は、新型コロナ対策でニュージーランドに続く2位に評価された。3位台湾、4位韓国、と言うことで、実質的な感染数、死者数の少なさだけでなく、必要以上の人権制限を行わずに達成していることが評価のポイントだろう。日本国民はその内容に自信を持つべきなのだ。

新型コロナを正しく恐れよ

 11月の3連休、私は日本国民の賢明さを確信した。あれだけメディアで不安と恐怖を煽り、行動自粛しなければ破滅でもしそうな勢いと喧伝し、それがモラルだと言わんばかりに煽り続けていた。日本医師会会長まで医療の範囲を超えて経済停止を直接国民に求める越権行為の自粛要請発言までしたが、3連休の人出は陰らなかった。ニュースで報じる人出の状況、私自身が繁華街で感じた肌感覚でも、鵜呑みにしていない行動だと感じられる。少しだけ安心した。

 これだけ感染者数が増えている、毎日の様に過去最高をマークしているのに、何故その様に呑気な行動がとれるのかと言う声が聞こえてきそうだが、正しく情報を読み取れば、行動制限に大きな意味は無く、感染予防さえしっかり実施すれば行動しても大丈夫、であれば、経済復興のためにも、経済テコ入れ策であるGoToはフルに活用するべきなのだ。

 でも不安だ、という方々に正確に状況を把握してもらうために、数字も示しながら確認していきたい。

画像1

 まず、現在までの新型コロナの感染者状況を全国と東京都に別けて2本の折れ線グラフで示す。縦軸は、新規感染者数の移動平均値だが人口10万人あたりの数字にしている。細かいグラフの遷移から数々の読み取れる事実があるのだが、それは拙著『ファクターXの正体』をご覧頂ければと思うが、ここではピークの期間を読み取りたい。ウィルスが人と共存していく知恵なのだろうか、ピークが永遠に続くと言う訳ではなく、一定期間でピークアウトして流行が収束していくのだ。グラフから見て取れるのは、およそ2か月が流行の期間だと言うことだ。このことは、過去のインフルエンザなどの流行を見ても、ほぼ同様の傾向が見られるのである。

 即ち、最初の感染ピークが減少したのは、緊急事態宣言のお陰ではなく、自然の摂理なのだ。であれば、この冬の感染拡大もおよそ2か月で一旦収束を見るだろうと推測できる。あくまで予測だが、12月上旬から中旬に向けてピークとなり、1月上旬から中旬に落ち着いてくるのだろう。では、ピーク時の感染者数はどのぐらいなのだろう。1波、2波とピークは上昇傾向にあるため、当然ながら3波のピークは更に高くなるだろう。

 ここで、過去のインフルエンザの感染状況を確認してみたい。厚生労働省発表のインフルエンザ報告数は2020年11月9日から11月15日までの1週で、23人だが、昨年同期は9107人なのだ。お気付きだろうか、今年の新型コロナと昨年のインフルエンザは感染開始時期と感染者数が、ほぼ同じなのだ。昨年のインフルエンザの場合で1日1万人から2万人程度の感染者が記録されているが、その程度までは今年の新型コロナでも可能性があると思われる。

 それは大変なことだ!と思う人もいるかもしれないが、重症化率や致死率など公平に比較してインフルエンザとの差がないのも事実である。唯一、違いがあるとすれば、法律上の取り扱いであり、新型コロナと診断されると原則入院が必要となり、医療機関を逼迫させてしまうことだろう。これは早急にインフルエンザと同等レベルにする法改正を行うか、少なくともホテル療養や自宅療養を普通にすることは必要だろう。急速に悪化する傾向があると不安視する向きには、パルスオキシメータで血中酸素濃度をトレースしておけば大丈夫だと言うことを理解して欲しい。急速な悪化と言う現象のカラクリは拙著『ファクターXの正体』で詳述している。

 1日1万以上なんて、と言う前に、既に昨年その数字は経験しており、更にその前年はその倍以上の感染者数を経験している。しかし、誰もインフルエンザで緊急事態宣言が必要だとか、行動自粛だとか、人権制限を容認し、経済を停滞させ貧困に向かわせる様な考えは持っていなかったはずだ。新型コロナでも同様に考えれば、この程度の数字で一喜一憂する必要は無いのだ。

 本日は勤労感謝の日。確かに医療関係者の努力には感謝をするべきだが、旅行業者や飲食店経営者の努力にも感謝するべきであり、勤労に違いは無い。その感謝の気持ちを持てば、折角戻りつつある状況で、簡単に行動自粛など言えないだろう。

 もう一つ予測しておくと、今年度のインフルエンザは、新型コロナの3波がピークアウトした頃に、感染開始し遅れてピークが来るのではないだろうか。コロナと入れ替わりでの流行と想像している。例年で言うと、B型が先に流行し、入れ替わりでA型が流行する様に、新型コロナとインフルエンザが入れ替わるのでは無いだろうか。これはあくまで予想であって、状況を確認してみたい。

 各国の状況を見ても、新型コロナ感染症は根絶させることは出来ないウィルスである。あれだけ見習えと言っていた韓国でも現在同様に流行が始まっている。つまり、ほぼウィルスは常在しており、環境要因などで流行が発生するタイプの感染症であることは間違いないだろう。人の移動を制限して感染が抑止できるのは、ウィルスが常在していないからであり、常在している状況では人が動こうが関係ない。つまり流行る時には流行るし、健康管理を怠り抵抗力が低下すると感染するのだ。

 医療的な対処ノウハウも既に蓄積されており、医療成績は格段に向上している。無駄に病院のベッドさえ占有しなければインフルエンザと大きな違いは無い。インフルエンザでも死に至るリスクの保有者が、同様に新型コロナでもリスクが高いだけなのである。
 但し間違ってはいけないのは、インフルエンザだって感染を少しでも抑え、致死率を下げるのは国家課題であるのと同様、国民目線でも安易に考えるべきではない。健康経営が企業の経営課題であるのと同様、国家運営上も国民の健康が最優先されるべき事項なのであり、国民一人一人の責任でもある。従って、今回会得したニューノーマルの感染抑止行動は、確実に定着させ、国家のノウハウとするべきである。

 更に人類がたくましいのは、この状況でも医療は進歩し、メッセンジャーRNAという新しいタイプのワクチンが開発された。これまで開発に向けた話は聞いたことがあるが、遠い未来の様に聞こえていたのが、新型コロナのお陰と言ってもいいだろう、開発が一気に進んだ。まだ、安全性や保存性などの問題は山積だろうが、この様な上気道感染症に対してではなく、がん等他の病気への対応力として大きな価値ある進歩を遂げたと感じている。良い意味で緊急事態を利用したと前向きに考えて良いだろう。

 こういう混乱期は、後ろ向きに、思考停止状態で、不安を煽る声を鵜呑みにして不安だと言うのでなく、状況を冷静に捉え、情報を自ら選別し、前向きに対処していく、そういう姿勢が必要不可欠であり、その結果が大きな飛躍につながるのだ。

目的思考でマスク会席を考える

 マスク着用が感染予防になるとされ、スーパーコンピュータ富岳での各種検証結果も出ている。しかし、現状を冷静に見ると、本質的な目的と効果を見失って、マスク着用が目的化してしまっている様に感じる。これでは逆にリスク増大してしまいかねないので、振り返り検証してみたい。

 マスク着用の効果としては、大別して2通り、自分が感染しないことと、人に感染させないこと。この二つは明確に分けて議論すべきなのだ。

 まず、自分が感染しないことに関して考える。感染には飛沫感染、接触感染、エアロゾル感染が言われているが、その中でも飛沫感染が全体の9割を占めるのが現実である。従って、直接飛沫を浴びた際の防御にマスクは物理的障壁として効果がある。これは富岳でも解析データが示されており、30%から70%の防御効果が確認されている。これだけ考えると大きな効果なのだが、実際に使う際のリスクを考えると、忘れていることがある。この場合、マスク表面にウィルスが付着した状態である事なのだ。その状態で、マスクを継続着用すると、時間をかけてウィルスはフィルターを通り抜け吸い込まれるのである。つまり、正確に表現すると、マスク着用は、ウィルスを吸い込む事をブロックするのではなく、吸い込む時間を遅らせる効果を持つだけであり、いずれ吸い込むのである。

 コロナ禍以前のマスク着用は、花粉症対策だとか、インフルエンザ発生時のリスクの高い空間に居る時だとか、あくまで限定的で一日中の着用は想定外だったが、今は皆が1日中着用前提である。つまり、着用時間は格段に伸びており、マスク表面に付着しているフィルターよりも粒形の小さい異物を吸引するリスクは高まっているのだ。
且つ、接触感染のリスクとして、マスクの表面を触らないことが求められているが、現実問題として1日中着用している状況で厳密な運用をしているとは思えない。私の周囲でも殆どの人はマスク表面を手で触ってしまっている。
つまり、直接浴びる飛沫を一時的にブロックするものの、時間をかけての吸引、接触感染リスクの増大で、結局、曝露するウィルス量はそれ程変わらない様に思えるのだ。

本気で、自分が感染することを予防する考えでマスクを着用するのなら、不織布マスクなら小まめに新しいマスクに交換するか、洗い替えできる布、ウレタンマスクは、定期的に表面を洗浄することだろう。現実には、それ程簡単だとは思えないが。従って、自分自身が感染しない効果は、薄いというのが現実だろう。

人に感染させない効果は、物理的に大きな飛沫拡散を防止するのは間違いなく、このことは大きな効果があるだろう。あくまで、自分自身がウィルスキャリアであることが前提ではあるが。
確かに、僅かに透過するだろう、漏れ出して拡散する飛沫も存在するだろうが、明らかに量は減少しているはずだ。エアロゾル拡散というリスクもあるかもしれないが、リスク低減していることは疑い様がない。そもそも、感染の大部分は飛沫感染であり、換気だとか殊更大騒ぎしてはいるが、特殊でレアな感染経路であり、飛沫感染に加えて接触感染までの対応策を優先的に考えるのが真っ当なリスク管理なのだ。

マスクを透過する飛沫の量を富岳でシミュレーションした結果、不織布マスクが布やウレタンと比較して少ないという結果が出ているが、だからと言って他人への感染抑止効果が高いとは言いきれないのが難しいところなのだ。
例えばN95マスクの場合、ほぼフィルターを通しての飛沫透過は無い。しかし、その事は即ち、呼吸も出来難く、長時間の使用が出来ない。もし、長時間使用出来ているとしたら、正確な着用ではなく、隙間があって息が漏れ出しているのは間違いない。その場合、飛沫も大粒で飛散してしまうことになる。不織布マスクも、そこまでではなくとも、1日の連続着用で呼吸が苦しくならないとは思えないのだ。実際、私の周囲を見ても不織布マスク着用をしている人の方が顎マスクや鼻だし等多数見かけるし、実質効果として布やウレタンと比較して高いとは決して思えないのだ。

マスクは物理障壁としての飛沫飛散防止の効果があり、他人への感染リスクを低減する効果は間違いなくある。しかし、そもそもマスクは、1日中着用という長時間利用の形態は想定されていない。その為、適切な着用を求めても、現実的にはそれに応じる性能に欠けるし、長時間着用が比較的安易な布マスクでは、飛沫の透過量が多くなる。この様に、製品の性能だけではなく、実際の運用状況におけるリスクと合わせて評価する必要があるのだ。

それらの事実を前提に本題である、マスク会席を考えよう。確かに、飛沫拡散防止の効果はある。会席の場での飛沫感染リスクが高いと言う論理は、確かに正しいので、会話時にマスクをすることは効果があるだろう。しかも、今や1日中マスク着用の例外となるのが、食事中である事は間違いなく、他には顕著な例外事例が無いのも事実だから、尚更マスク会食が最終兵器とされるのだろう。

しかし、対策と言うものは、実行可能性も一つの指標になり、出来もしないことをルール化しても効果は得られない、実行性が低いから当然なのだ。理想的な環境によるシミュレーションと実運用を誤解してしまいそうなので、注意が必要なのだ。
左手でお茶碗を持ち、右手でお箸、という習慣は、マスク会席には大きな障害になる。左手でマスクの紐を持っていたら食べられないのだ。それであれば、マスクの着脱をその度に行うしかなくなる。つまり、食事中の小まめなマスク着脱が必要になるが、本当に可能だろうか疑問なのである。

食事と会話を明確に分けるのも効果はあるだろう。しかし、定食ならまだしも、会席やコース料理の場合は難しいだろう。

それよりも、飛沫拡散を抑えるだけで考えると、発声時に、せきエチケットと同様に口を手で覆う行為を行うことの方が効果大であることは間違いないだろう。この程度なら、実行可能ではないだろうか。実行性のある対応策が実は一番効果があるのだから。

緊急事態宣言の総括が日本を救う

 日本医師会の会見で中川会長より『GoToが感染拡大のきっかけになったことは間違いない』『秋の我慢の3連休にして欲しい』と医療機関を代表する立場で悲痛感の伝わる発信がなされた。ああ、それだけ切迫した状況なのだ、と多くの国民は受け止め、3連休のGoToキャンセルが相次ぎ、折角の復興機運が大きく減退する事態に陥ってしまった。

 責任ある立場での発信は、特に日本においては大きな影響を及ぼしてしまう。思えば、春の小池東京都知事による『ロックダウン』発言による影響は、社会に大きな影響を及ぼした。結果として『緊急事態宣言』を発出せざるを得ない世論を形成し、はたまた宣言自体の内容の誤解を払拭するために一定期間必要だったなど、社会を動かし、大きく経済の減退を生み出してしまった。今回の日本医師会会長発信もそれに次ぐ影響を及ぼしそうだ。

 ある意味、政治がどれだけリスクをコントロールしようとも、場外からの発信で世の中が動いてしまうのであり、そのことは、政府よりも場外の影響力のある立場の発信が社会影響を強く持つ表れである。ならば、本来、自らの発信が通常の人と異なる影響力を持つ場合は、社会的責任を自覚する必要があるだろう。
 今回の日本医師会会長発信が良心的な意図での純粋な訴えかけであれば、それもある程度仕方がないのだが、立場を利用した政治的発信にも聞こえてくるのは私だけだろうか。後者であれば問題なのである。

 日本医師会の会長は今年の6月に選挙が行われ、前任の横倉氏が4期を務めていたが、今回は立候補をしないという意思を固めていたが、政府の強いプッシュで遅ればせながら5期目の立候補を決めたと聞いている。だが、その時点では既に中川氏の票固めが進んでおり初当選を決めた。
 この中川氏は、政府が慌てて横倉氏の立候補を託した様に、予てから政府との対決姿勢を露わにしている。

 この点難しいが、政府の姿勢に対して批判をすることが正義だと考えるのは不健全であり、政府の姿勢に対して専門組織としての提言を発信することは健全であろう。この違いが微妙だが重要なのだ。
 ただ、これまで4期務められた横倉氏は、政府と親密な関係を築き、本音では反発はあったかもしれないが、組織の為日本医療の為に政府と連携して様々な改革を進めてこられた。結果、厳しい状況でも医療崩壊なく、最悪の事態は避けられたのではないだろうか。
 その視点で考えると、政府に明確に日本医師会が反目する姿勢を取り始めると、国民を局外者にした政争になっていく危険性を感じてしまう。

 今回の中川会長の発言は、そういう意味では一線を越えている。GoToが感染拡大の原因とするエビデンスが無いのであれば、きっかけであったとするエビデンスも無いはずだ。それなのに、間違いないと断言してしまった。そして、感染抑止策の強化を求める発信までならいいのだが、そうでなく、事実上の外出自粛要請を発信したのは、絶対に間違いであろう。

 さて、メディア各社はここぞとばかりに、危機感を煽り、政府攻撃を強める一色だ。政府が無策だと。しかし、政府は明確に指針を発信し続けている。感染抑止と経済とどちらを優先するのか、と問い続けられるが、政府指針は明確に出されており、Withコロナであり、両輪偏らない政策の実行である。
 今、経済面の危機的状況、消費喚起の必要性は一刻の猶予も許されない事態であり、明確な施策が必要不可欠なため、GoTo事業はそのシンボルとして緩める訳にはいかない。しかも、ここまで分かってきている情報によると、GoToと感染拡大に因果関係は無い。既に蔓延状態にあるウィルスに対して、行動制限をしたところで感染抑止効果は限定的なのは当然である。ホワイトゾーンが存在する状態とは既に環境が異なるのだから、効果のないゾーニングによる悪影響は決して享受できない。
 感染抑止面でも政府は政策として医療支援を徹底的に強化している。補助が現状の法的には来年3月までの時限付きなのは法的には仕方が無く、その時点の状況で柔軟に法改正、予算配分も行われることは疑い様がないだろう。そして、国民に感染抑止行動を託するのに、メディアは『これが菅政権の自助か』『国は何もせず個人任せか』と非難するが、冷静に考えて欲しい。感染抑止行動とは個人の健康管理であり、店舗や組織の構成員保護であり、国がどうこう制限する類のことではない。
 国家権力の名の元、国民の行動制限、人権制限を行わないに越したことはないはずだ。

 東京都の小池知事は会見で、『5つの小(こ)とこころづかい』を発信した。これは、春のロックダウン発言の影響を反省したのか、状況を冷静に見極めた発信だった。あくまで、感染抑止は各人の行動変容で行うものであり、現時点で行動制限や規制を行わないことを明確にした。
 
 繰り返しになるが、感染抑止は、個々人の免疫力向上も含めて健康管理意識の問題であり、それでも病気になることはあるだろうが、それは他の病気も同じである。その場合は、医療の助けを借りる、そういう整理だろう。だから、政府としては医療機関を支援することが国民の健康支援につながるのだ。
 そして、こころづかい、という言葉にも込められる、他人への配慮として、自身が体調不良の場合に他人に感染させない様にする。無症状でもウイルスキャリアである可能性を前提にマスク着用などを心がける。
 このこころづかいには、不要な分断が一番悪影響を及ぼす。感染抑止に対してゼロ化するべきだと言う意見は今でもあるだろう。ロックダウンしてゼロ化した方が、むしろ経済的にもダメージが少ないと言う言質も聞く。しかし、それは一つの意見かもしれないが、絶対正義ではない。
 民主主義の手順に則った国家政府がWithコロナで進めようとしている状況で、反対意見を論ずるまでは良しとしても、最終的には決定に従うべきではないか。いつまでも、政府攻撃を強めるメディアは、政府の監視ではなく国家に分断を生み出す張本人になっている。今のメディアの報じ様は、情報発信や政府監視ではなく、電波を利用したデモ活動に近い。国家の危機に対するには挙国一致が必要、一方で国家転覆を目指す為には分断を形成し煽る方が近道である。メディアは後者を目指しているのだろうか。

 国家的危機状態だ、危機管理だと言うのであれば、まずは民主主義国家政府の指針に従い、その上で総括をすれば良い。
 これまでの施策の総括をしていない政府も問題だが、客観的事実、データの検証結果としては、『緊急事態宣言による感染抑止効果は限定的』『GoTo事業と感染拡大は相関関係にない』であり、総括を迫らないメディアは、攻撃するネタが失われるから、総括には消極的と感じてしまう。政府は『緊急事態宣言』が不要だった失敗政策となることを恐れる、双方の利益が一致して総括できていない様に見える。

 極めて危険なのは、論理的に裏付けが無くても、何か感覚的に嫌な気がするので情緒的に制限して欲しい、という感覚。非科学的ではあるがある意味人間的、人の感情の弱い部分をターゲットにする言いっぷりで、『そうはいっても心配だ』による根拠のない集団心理誘導は社会の破滅に繋がりかねない。

 この総括さえすれば、『Withコロナ』が方針の軸になるのは自明なのである。
 そして、毎日過去最高の新規感染者数と言うが、例年のインフルエンザ感染による感染者数、死者数にも、いまだ遠く及んでいない事実を認識するべきである。その上で、個人の健康管理、医療含めた健康支援、健康国家運営が重要なのである。

第3波到来に適切に対応する考え方

 ここしばらく、毎日どこかの道府県で過去最高の検査陽性検出数が報告され、本日ついに東京都も過去最高をマークした。マスコミはこぞって危機感を煽り、医師会は次の3連休の自粛要請を発信した。

 検査陽性数に一喜一憂するべきでないと言っていたはずだが、大騒ぎである。しかし、冷静に数字を見極めてもらいたい。過去最高と言いながらも、全国でも1000の桁、10の3乗オーダーでしかない。欧米の第3波と比較して相変わらず2桁違う状態は、何も変わっていない。確かに、増加傾向にある事は間違いないが、どこかの番組で1週間前に連呼していた様な指数関数的増加では決してない。10の4乗、5乗と変化するのが指数関数であるのだから、今の増加は以前から言い続けている、1次関数的増加に過ぎないのだ。

 1次関数とは、y=ax+bで表され、第1波より第2波、第2波より第3波の定数bの値が徐々に大きくなっているのだ。つまり、基本的にウィルスの市中蔓延度合いが高まって、基礎数が高まっていると言うことだろう。市中蔓延状態にありながら、この増加傾向ということは、それ程大騒ぎするべき状態ではないとも言えるだろう。

 そもそも、寒くなり、乾燥環境になると、普通に上気道感染症のリスクが高まるのは自然の摂理である。諸外国との比較ではなく、例えば日本の過去との比較で語っても、例年のこの時期から流行し始めるインフルエンザの患者数と比較して、今年の新型コロナ+インフルエンザの総数で見ても、まだまだ少ないのが現実だ。
 インフルエンザの患者数は、新型コロナと違って発熱して医療機関の受診を受けなければ数にカウントされない。実際は、無症状、軽症状の患者も多数発生していることは、経験的にも理解できるが、その数はカウントされていない。その数字よりも、必要以上に検査を実施し多くの無症状者もカウントする今年の新型コロナ+インフルエンザの数は少ないのだ。

 インフルエンザとの同時流行リスクも噂されたが、これも何を根拠に言っているのか疑わしい。経験則から考えて欲しい。冬の初めはA型が流行し、A型が終息してから次はB型が流行するなど、入れ替わりで流行するのではないだろうか。若干のオーバーラップはあっても、大きく同時流行と言う経験は余りないのではないだろうか。そういう話が為されないのは何故だろう。だから、新型コロナが蔓延しつつある状況でインフルエンザは流行していないのだろう。

 そして何より、陽性者数が問題ではなく、重症者数や死者数を問題視するべきなのだ。ここで注意すべきなのが、公表されている死者数の定義であろう。新型コロナの死者数は、死に至る要因ではなく、死者が陽性者かどうかでカウントされている。しかし、通常の致死数と言うのは、死の主要因でカウントされるものである。例年のインフルエンザの死者数は、通常通りのカウントだが、何故か新型コロナは違う。この要素を考え合わせると、例年のインフルエンザの致死数と同等かそれ以下だとする見解がある。数字が公開されていないので断言はできないが、どちらにしても、大騒ぎする程の状況では決してないのだ。

 勘違いしないで頂きたいが、新型コロナであろうと、インフルエンザであろうと、はたまた流行性感冒であろうとも、病気であることは間違いなく、健康を維持するための努力は絶対にするべきなのだ。その為に、マスク着用や手洗いうがい、3密回避、ソーシャルディスタンス確保などの努力はするべきであろう。健康のために。しかし、GoToキャンペーンを諸悪の根源とする説には賛同できない。

 GoToキャンペーンが感染拡大の要因になっていると言う統計的根拠はどこにも存在しない。マスコミやマスコミで専門家として語る方々は、根拠はないかもしれないが、人の移動が感染リスクだと言い続け、休止を提言する。エビデンスは無いが、きっかけになったのは間違いないと根拠なく言うのは科学者としては如何なものだろう。
 不正の確固たる証拠を示せていないトランプ氏を非難するマスコミが、同じ口で、根拠を示せないのにGoToをやめろと言う。ダブルスタンダード、自分の都合のいい勝手論理とは気付かないのだろうか。

 最近ようやく、GoToのお陰で経済が回り始め、何とか耐え凌げている状況で、もし休止でもしようものなら、もう耐えられないという声が大きい。致死率の低い感染リスク対策の為に経済死の増加は決して容認できないのだ。
 無責任なコメンテイターは、行動制限を実施して、その分の補償をすれば良いと言うが、それもおかしいのだ。GoToで投下する税金は投資であり、投資であるからサービス開発、事業拡大等にもつながる回転を生み、経済効果としては何倍にもなるのである。休業させて補償しても、その額で一時は凌げてもジリ貧である事には変わりがない。つまり、同じ額で同じ効果ではなく、同等に語るべき性格のものではない。補償はセーフティネットでしかなく、経済復興を支える効果として語るべきではない。

 不思議なのは、強制的に休業させると言うことは、明らかに人権侵害であるのだが、何故か人権問題にうるさいリベラル系の方が人権侵害すべきと言う傾向が強い。奇怪に感じるのは私だけだろうか。

 そもそも、春の緊急事態宣言の効果検証、振り返りが何故か行われていない。統計的、数学的検証を真っ当に行えば、緊急事態宣言による感染抑止効果は極めて限定的であったと結論されるはずだ。だからこそ、政府は悪影響の方が大きいと言う予測からだろうか、緊急事態宣言発出には当時後ろ向きで、慎重であった。それでも、マスコミが煽り続け、世論が形成され、民主主義の政府としては、宣言を発出せざるを得ない状況に追い込まれたのが現実だろう。だから政府としては、第3波に対してもGoToを止めようとはしないのであり、1本筋が通っている。

 春の緊急事態宣言の総括を行えば、効果の無かった事実に対して政府は糾弾されるかもしれないが、上述のプロセスを考えれば理解は得られるだろう。むしろ、総括して困るのは、それでも危機を煽り続ける勢力でしかないはずだ。

 最後に新型コロナが死に至る病ではない、風邪と同等とまでは言わずとも、インフルエンザと同等かそれ以下のリスクである事実を示したい。スウェーデンの対策と結果が示しているのである。
スウェーデンでは行動制限などの対策は行わず経済を回し続け、集団免疫獲得を目指した。当初は感染者数の爆発的増加と死者数の多さに問題視する声も多かったが、結局、死者数は欧米他国と同等レベルに収まっている。そして、何より、多くの死者が発生したにも関わらず、平均寿命に影響が出ていないのである。つまり、言葉を選ばずに言うと、それほど遠くない将来に寿命を全うする運命の老人が少しだけ寿命が縮まっただけと考えないと辻褄が合わないのだ。

 今の市中蔓延状態は、ウィルス常在に近づいているのは間違いない。ウィルス常在と言うのは、流行性感冒の原因である旧型のコロナウィルスも常在しているが、常に風邪を患う訳ではない。同様に、新型コロナ常在状況で、感染予防、体調管理が徹底できると、比較的安全に集団免疫にも近づく。

 この冬を乗り越えるポイントは、風邪をひかない様な体調管理の徹底である。
 変な行動制限は、経済への悪影響だけでなく、不必要なストレスによる健康影響のリスクが高いので良いとは思えない。風邪をひかない為に、栄養を適切に取り、睡眠・休息を十分に取り、日に当たり、適度な運動を行う。その上で、基本的な手洗いうがい、マスクなどの感染対策。それ以上でも、それ以下でもない。

アメリカ大統領選挙で不正はあったのか?

 アメリカ大統領選挙の結果として世間では、バイデン勝利一色に染まっており、トランプ現大統領が敗北宣言をせず、政権移行しないことに対して、バイデン候補は非難の攻撃を強めている。
 しかし、冷静に考えてみよう。バイデン候補の言うことも結構無理筋なのである。バイデン候補に当確を出して勝利としているのは、マスコミの報道であり、正式決定の結果ではない。トランプ候補にも訴訟の権利があり、最終的に司法で決着がついていないのだから、勝利宣言はまだ早すぎる。不正の証拠がないとか、報道されているが、戦前からマスコミが反トランプ一色なのだから鵜呑みにしてはならない。この点、日本の感覚とは全く異なるのであり、司法決着を待つ必要があるのだ。

 過去にも、再集計、手集計を行って票数が変わったりしているのだが、日本では考えられない事態ではないだろうか。日本で数え直して票数が変わるなど、もしあれば大事件である。
 つまり、アメリカの選挙は日本の様な厳格で、不正が困難な制度ではないのだ。ある意味、実弾を使わない戦争、権力闘争なのだ。しかも、州毎に選挙管理の体制も異なれば、知事の権限に左右される要素が大きい。不正は、行おうとすれば普通に行え、証拠など隠蔽するのは簡単と言っても過言ではない。だからこそ、接戦の最終決着が司法決着に委ねられるのである。

 だからと言って、今回、不正が行われた証明にはならないのはその通りだが、不正していないと言う客観的エビデンスを示すことも困難なのだ。日本では投開票に不正が無いことはエビデンスで示せるので、大きな違いなのである。

 マスコミの報道では、戦前はバイデン圧勝であった。明らかに支持率に違いがあった。隠れトランプと言う言い訳が横行しているが、普通に考えて、4年前に同じ票読みの間違いをしていて、同じことを繰り返すのなら、それはマスコミの情報収集能力がでたらめか、もしくは、敢えて情報操作をしてでも、間違ったアウトプットで反トランプの世論形成をしているか、どちらかだろう。私は、後者だと確信している。ならば、マスコミの情報は鵜呑みにできない、バイアスがかかっていると考えるべきなのだ。

 投票日、初日、郵便投票の多くが開票される前の段階は、トランプ候補が圧勝の様相であった。マスコミは郵便投票の開票で逆転の可能性もあり得ると、言っていたが、苦しい言い訳にしかその時点では聞こえなかった。その時点でのバイデン候補の発言も、最後の1票が開くまで待てと、最後の1票が開けば勝利できるという宣言をした。これは奇怪だった。私には、敗北宣言はしない、と宣言した様にも聞こえた。

 夜が明けると、状況が一変。郵便投票の開票が進み、バイデン氏の逆転の様相が強くなってきた。しかし、その票の中身を客観的に考察すると、次の様な図式が出来る。

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 今回の得票数は史上空前の得票数であった。過去最高得票を、敗色濃厚のトランプ候補でも大きく上回っている。バイデンの得票は更に上なのだ。しかし、それ程の得票率をマークする程、選挙戦は盛り上がっていたのだろうか、疑問である。討論会も1回中止になり、最後も静かだった。バイデン候補の演説は、簡素だった。それで史上空前の票が得られるのだろうか。

 今回コロナ禍の影響で、郵便投票が従来の特別扱いでなく、ハードルを下げて、しかし公正維持策は施さず実施され、結果として6500万票も実行された。これはとてつもない数字である。しかも一説によると、その9割をバイデン候補が獲得したとか。9割は余りにも大きい差なので、少し加減して8割獲得で、郵便投票を除いた得票数をシミュレーションすると、トランプ候補が6000万票、バイデン候補が2700万票とトランプ候補の圧倒的優勢となるのだ。

 トランプ候補が獲得した郵便投票の2割を正として、バイデン候補の方が郵便投票においては優勢であったとして、その差を常識レベルの範囲に抑えて、倍を獲得したとすると、トランプ候補7300万票、バイデン候補5300万票と常識レベルの差でのトランプ候補の勝利になる。

 この状況では、トランプ候補が納得できず、不正が行われたと判断するのも、何ら不思議でない。しかし、不正の証拠がない。統計的に検証する方法はないのだろうか。

 実は、統計的手法でデジタルデータ分析を行うことが可能である。その一つの手法である、ベンフォードの法則を使ってみる。

 ベンフォードの法則とは、ランダムに発生する桁数もまばらな数字の上位桁の数字の出現確率を示すものであり、何らか人の手が加わると、この法則から不自然に外れることで、不正の検出を行うのである。例えば、上1桁目には、『1』が30.1%の確率で発生する。1~9までの数字が均等の確率で出現するわけではなく、統計的にはlog10(1+1/n)で表されるのだ。直感的には、変に思うかもしれないが、桁数が揃っていない数字の上の桁と考えると少し冷静に考えればお分かり頂けるだろう。個々では数学的証明など、詳細は割愛するが、そういうものだとして以下を読んで欲しい。

 激戦州でバイデン候補にマスコミが当確を出している、『ウィスコンシン州』『ペンシルベニア州』『ネバダ州』『ミシガン州』『ミネソタ州』『アリゾナ州』『ジョージア州』の郡毎の得票数の分布を調べてみたのが、次のグラフである。

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 青線でベンフォードの法則の曲線を描き、赤線で実際の得票の分布を示した。青と赤のズレが大きいと統計的に不自然だということになる。
 そうすると、バイデン候補の『1』『4』は不自然にベンフォードの法則から外れているのである。確かに、統計としてn数が充分かと言うと、不充分であることは間違いない。本来であれば、もっと多くのデータを取得して検証する必要があるが、対象とできるデータが簡単に取得できないので、この結果は、あくまで簡易に検証した結果に過ぎない。従って、この結果をもって、不自然と断言はできない。しかし、不自然である可能性があることは間違いないのだ。

 ちなみに、このベンフォードの法則を利用した統計デジタル分析は、会計監査などで、不正を検出する手法として実際に使われている方法である。数あるデータの中で、不自然な所を検出し、ターゲットを絞って、深い調査を行うのである。これらの統計手法は、それ自体で不正の証拠とはならないが、怪しい不自然な部分を抽出し、集中的に検査することで不正を暴く。

 今回の司法判断の過程で、この様な手法を利用するとは思えない。従って、司法決着となってもバイデン勝利となるだろう。しかし、司法判断で不正が無いと言い切ることも出来ないだろう。不正があろうと、無かろうと、勝ちは勝ちと判断するのは、当事者でなく司法しかない。それが、アメリカ大統領選挙制度なのだ。

第三波到来と騒ぐメディアだが

 北海道で新型コロナウィルスの感染者と称する検査陽性者が増加し、東京の1日の数を上回る状態になってきている。マスコミ各報道は、第三波の到来と騒ぎ始め、知ったかぶりの識者たちが、GoToキャンペーンの制限などまで言い始める状態だ。相変わらず、『お化け怖い』と根拠もないのに、公共の電波を使って尤もらしく危機感を煽り始めた。なんとも、いい加減にして欲しいものだが、多様性を尊重する世の中において、人の口に戸を立てられないので、冷静かつ、客観的に真相を考察したい人に向けて、発信したいと思う。このラインより上のエリアが無料で表示されます。

 まず、GoToキャンペーンが人の動きを活発化させる感染拡大の諸悪の根源であるかのような説だが、これには全く根拠がない。人が動けば、確かに接触機会は増え、感染リスクは高まるのは確かだが、データ上その様な兆候は見えていないのである。

 例えば、東京都がGoTo解禁になり初の週末の賑わいがあったのが10月の3・4日。だが、筆者自身も経験したが、その前週の9月末の4連休、この時の高速道路の渋滞は凄まじいものであった。群馬にGOLFに出かけ、普通に帰路に就く予定が、高速道路の渋滞が、年末年始と同等、それ以上の渋滞で、往路1.5時間の道が、6時間要したのだ。つまり、その時期から東京地区でもデジタル的に人の動きが活発になったのだ。その後、週末毎の高速道路状況を確認していたが、流石にそこまでの混雑は無くとも、明らかに人出は多くなっていた。つまり、GoToが原因であれば、10月中旬には飛躍的デジタル的に感染増になって然るべき状態だったが、実際は影響がなかった。

 東京解禁の前も、GoToによる感染影響は顕著ではないと言う状態だったのだ。従って、今、感染数が増加した原因としてGoToを持ち出すのは、荒唐無稽と言っても良いだろう。

 では何が原因で感染者数が増えているのだろうか。そのことを理解するには、基礎知識としてPCR検査は何を検出しているのか、その仕組みを理解しておく必要がある。

 PCR検査は、採取された検体に存在する該当のウィルスを化学的に繰り返し処理にて増殖し、その量を測る。その量が予め決めた量を超えたら陽性で、それ以下であったら陰性と判定される。お気付きだろうか、人に対する感染の有無ではなく、ウィルスの存在の検出、量の測定でしかないのだ。

 いや、そんなこと言っても、ウィルスが検体から検出されたと言うことは、感染だろう、という誤解がものすごく多いだろう。ウィルスが存在しても、その時点で感染では決してないという真実から目を背けてはならない。感染とは、鼻やのど、目などの粘膜を通じて、増殖され、人体に侵入して初めて感染となるのだ。

人は、流行性感冒のウィルスに接していても、その時点で風邪をひく訳ではない。不摂生や体力低下などで、粘膜で外敵を防ぐ免疫反応が機能低下して体内への侵入を防げず、感染する、つまり風邪をひくのだ。

 ウィルスは非感染の状態でも存在するのは、接触感染のカラクリを考えれば分かるだろう。人体に関係なく存在するウィルスを手で触り、口や鼻に運んで、粘膜から人体に侵入して感染するのだ。
 そうやって考えると、感染する前の状態のウィルスが検体に紛れ込んで検査で検出され陽性判定されることだってあるのだ。それこそ極論を言えば、手すり等の表面を採取しPCR検査にかければ陽性判定されることだってあり得る。まさか、手すりが感染したとは誰も言わないだろう。これは科学的誤差による偽陽性ではなく、正常な検査判定であり、実は無症状感染者と言われる多くは、この現象による陽性判定者なのだ。無症状なのは、当たり前、感染していないのだから。

 冬季に突入し、気温も下がり湿度も下がっている。この状態では、ウィルスの生存期間は伸びるのであり、検査によって前述の非感染の陽性検出数が増えるのは自明なのだ。

 また、当然ながらウィルスの生存期間が伸びるのと、体調不良に陥りやすい季節であることを合わせると、感染リスクが高まるのも当然であり、冬季に感染が増加するのは至極当然のことなのだ。

 つまり、今現在の感染拡大は気候条件によるものであり、GoToの要因があるとは到底思えないのだ。だから、本来原因ではないGoToは制限するべきではないし、活動自粛も必要ない。もちろん、だからと言って感染予防対策を怠ることはあってはならない。

 緩みと言う言葉は使いたくないが、夏場マスクでの熱中症リスクを必要以上にメディアで煽った結果、気温が下がり熱中症リスクが低下しても、マスク着用率は戻るどころか低下の一途だと、肌感覚で感じる。マスクの効用は長短あるが、飛沫拡散防止、この1点において、感染リスク低下に効果があり意味がある。しかし、目の前でマスクを外し、大声でしゃべるシーンを見かけることが実際に増えてきたのは、リスクが拡大している現象なのだ。

 更に、軽い体調不良でありながら、大丈夫という自己判断で濃厚接触者を増やす行為も増えてきている。

 これらの行為は、GoToとは全く関係ない。ニューノーマルの定着が問われる局面である。ニューノーマルの定着のためには、不必要に無根拠のリスクを煽ることが逆効果であり、正しく対応することに尽きるのだ。

 そして、個々人の心がける最大のポイントは、風邪をひかない様に体調管理を心がけることだ。ウィルスの存在確率は確かに高まっているだろう、であれば感染しなければ良いのだ。粘膜を通じての人体侵入を防ぐ、これは第一免疫機能なのだ。体調面を万全にし、免疫力を高める。実は、この免疫力はワクチンでは高めることが出来ない。栄養管理であり、充分な睡眠や適度な運動、日光浴そしてビタミンD摂取が効くだろう。
 そして、日常の手洗いうがい、鼻洗浄などなど、一般的な感染予防行動、これで感染リスクをできうる限り下げる。

 現在の重症化率や致死率を考えると、新型コロナウィルスだけを考える必要は無く、むしろインフルエンザも含めた冬季を健康に過ごす、ニューノーマルで乗り越えるべきであろう。