中等症からの死亡が多い原因

 第3波感染拡大が騒がれる状況で、重症者数、死者数も徐々に増加している。しかし、それでも本当の意味でのパンデミック、欧米諸国の危機的状況と比較すると桁違いの静かさであり、日本国内で考えてもインフルエンザの例年の流行状況と比較しても同等レベルかそれ以下であるのが統計数字上の事実である。第1波と比較しても医療処置の進歩が確実だと思われる。

 それだけを考えると、何を大騒ぎしているのだろうかと思えるのだが、死亡に至る経緯は、私自身も解せない数字が存在する。それが中等症からの死亡が多いことだ。普通は、重症を経て死亡に至る。しかし、新型コロナの場合、中等症や軽症からの死亡者が多いというのは、不思議な現象であり、信じられなかった。

 多くのメディアは、中等症や軽症からの急変だと言う。実は私も、それ以外の可能性は無いと感じていた。

 疑問だったのは、当初の急変メカニズムは、症状の悪化がステルス性で進行し自覚症状が無いまま悪化していくことにあったが、それ自体はパルスオキシメータによる血中酸素濃度をトレースすることで早期検出が可能になったはずだったのに、何故だろうかということだった。臨床経験により、その急変は対処可能になったはずだったのに、未だに中等症・軽症からの死亡が多いことは謎なのだ。何か、別のメカニズムによる急変現象があるのだろうか。

 しかし、そのカラクリが解けた。その理由は、看取りであった。

 私自身も母を昨年亡くした。看取りであったので良く事情は分かる。母の場合、大病の百貨店の様に数々の病を患った。持病としての喘息を持ちながら、最初の大病は平滑性筋肉腫。手術による切除から、抗がん剤治療、放射線治療を受け完治した。その後、心臓病を患い、弁置換とバイパス手術を同時に受けた。この時点で障碍者に認定され、生態弁の寿命もあって余命を宣告されたような状態であった。しかし、そこから元気に回復し日常生活は何の問題もなかった。その後、両目の白内障手術を経て、転倒時の外傷性による脳の硬膜外出血により緊急手術を2回受けた。その後も喘息の緊急入院を年1~2回のペースで繰り返したが、それでも元気に振る舞っていた。ある日、一人で外出中に倒れ、緊急入院した時は、体中に管が通る危篤状態だったが、何とか回復してリハビリ病院に転院した。しかし、その時点で嚥下障害もあり、胃ろう手術を施さざるをえなかった。リハビリを経て、一般の施設に移り回復して胃ろうも外せるまでになった。このことは、医師や介護師からは奇跡だとも言われた。それでも24時間ケアが必要で、施設を移ったが、健康状態でありながら、いつ何が起こっても仕方がない状態になっていた。家族として医師とも相談し、ここまで頑張ってきた母に既に高齢になっている状態で、これ以上無理させるのは忍びない状態でもあり、看取りをお願いするに至った。それでも、その状態から1年以上無事に過ごせたが、徐々に弱っていく様が見て取れ、ある日朝食は元気に取ったものの、昼過ぎに静かに永眠した。既に平均寿命を大きく上回った大往生であった。看取りとは、その時点でも延命処置をしていれば管に繋がれた状態でも少しは延命できるのだろうが、そんな選択肢は取れなかった。

 命の重さは言うまでもないが、看取りに関しての是非は家族以外には語れないし、語る資格は無いと思う。経験した身でなければ分からないかもしれないが、それ程重大な決断なのだ。

 看取りを決断して、その状態で新型コロナに感染した場合どうなるか、容易に想像がつく。通常の介護、医療処置で軽症や中等症までは対処可能だろうが、看取りを決断する状態であれば、かなりの確率で重症化するだろう。しかし、その時点でECMOに頼ろうとは決して思わないしそれが看取りだ。例え、ECMOを使おうとも、数日の延命が精々で、厳しい状態に変わりは無く、苦しむだけだという判断だ。しかし、一旦ECMOに繋がれれば、重症者からの死亡だが、その処置が為されないので、見た目には軽症や中等症からの死亡ということになる。

 この数字上のカラクリは、聞いてみると納得できる数字であり、決して急変でも何でもないのである。インフルエンザであろうが、風邪であろうとも同様の事象になるのである。

 看取りとは高齢者の寿命が最期を迎える直前の出来事である。スウェーデンの新型コロナ対策が集団免疫獲得を目指しロックダウンなどの行動自粛を行わず死者を多数出しながらも、その大多数が高齢者であり、実は平均寿命が変わらないという状況が起こった。それは、スウェーデンでは従来から看取りに近い最期を迎えるケースが多いという、命に対する考え方の国民性に裏付けられている。

 従って,新型コロナが正体不明の急変で軽症や中等症からいきなり死に至るというのは、間違った情報である。全て世の中の事象には原因があり結果に繋がる。謎があれば必ず答えもある。解明されていないこともあるかもしれないが、新型コロナに関しては、ほぼ解明されてきている。不必要な恐れ方はする必要が無いことを、もう一度認識するべきだろう。

感染経路不明とは

 感染経路不明が増えているという。どこで感染したか思い当たる節が無い、と言われており、そのことは、感染が拡大し危機的状況であると専門家の多くは言い続けている。
 しかし、この事には異論がある。日本語の表現として間違ってはいないが、誤解を生む表現である。感染経路不明とは、一部の例外を除いて、感染経路に思い当たる節が多すぎて、どれか判別できない、というのが正しいだろう。そして、危機的状況というのも一概には言えず、事実とは異なることも多いのだ。

 私自身も、感染予防は万全に行っているつもりだ。それでも、いつ感染してもおかしくないと思っている。いつウィルスに曝露されるかは分からないし、100%防ぐことは不可能、ウィルスに曝露している前提で、感染しない様にいつも以上に体調管理を行うこと、最悪感染してしまっても、発症しない様に体調管理を心がけることに徹底しているし、家族には同様のことを言い続けている。それこそが万全な対策であると確信しているし、拙著『ファクターXの正体』シリーズでもこの点は強調して、Withコロナの基本としてうったえているつもりだ。

 さて、では感染経路とは何を言うのかだが、ウィルスに暴露された場所であり環境を特定することに他ならない。クラスターであれば分かり易いが、今や市中のどこにでもウィルスは存在している。その状態で、例えば電車に乗れば、吊革を触り、エスカレータの手摺を触り、次に手を洗うまでの時間にウィルスはどう移動しているか計り知れない。近くで咳をした飛沫、会話時の飛沫を浴びていないとは断言できない。そこまで言い始めたら1歩も家を出られない。嫌、家にいたところで、あらゆる外部との接触を遮断することは事実上不可能だろう。つまり、現状の状態は、感染抑止行動を採っていても、ウィルス暴露は一定のリスクとして存在し、受容しなければならない状態なのだ。

 そんな大変な?と思われる方も大勢いらっしゃるかもしれないが、私は、全く逆だと言わせて頂きたい。だからこそ、少しは安心しても良いのだと。

 ウィルスは本来宿巣である人類を絶滅させるものではなく、共存するものなのだ。従って、強毒性のウィルスは蔓延する程、感染拡大しない。感染したらすぐに死に至り、感染させる暇がないからだ。逆に、潜伏期間が長く、感染リスク期間も相当に長いウィルスは概して毒性は弱い。今の状態は蔓延状態でもあるので、ウィルスの毒性は決して強くないことを証明している様なものなのである。

 生物化学兵器として、潜伏期間が長く、感染力が高い状態で、毒性が強いウィルスが開発できれば、無敵だ。もちろん、ワクチンとセットでないと兵器として使えないが、ウィルスが出来れば一定期間でワクチン開発は可能だ。しかし、この様な強力な化学兵器が開発されたとは聞こえてこないのが現実なのだ。

 インフルエンザと風邪(ウィルス性感冒)を比較して、どちらが感染経路を認識しやすいだろうか。明確ではないだろうか。風邪を感染性と思っている人は、多くないかもしれない。それ程、原因ウィルスは常在しており、共存している。だからと言って、病気である事に違いは無く、風邪は万病の元であることも忘れてはならない。

 年初は、新型コロナウィルスの挙動も毒性も、発症する症状も未知の部分が多かったが、人類の医療は捨てたものではなく確実に様々な対処を学んで来て、医療成績は格段の進歩を遂げている。

 新型コロナを恐れるな、とは言わない。病気である事は間違いないのだから、恐れるべきである。しかし、必要以上の恐怖心、非論理的で目的意識の無い行動自粛は不要になってきたのであり、適切に恐れ、適切な対応、行動をすれば良いのである。

 感染経路不明や家族感染の率が増えたということは、他の感染経路は対策して防止しており、クラスター発生抑止も出来ている、成果が出ていると自信を持って良いのだ。

 この状態で、感染抑止の最大の策は、個人の健康管理に他ならない。栄養を十分にし、ストレスもほどほど、睡眠含めた休息も取り、日光も浴び、ビタミンDなどの摂取も心がけ、体調を保ち免疫力を高める。

 そして、人体の中での感染経路も意識する。即ち、喉や鼻、目などの粘膜を常に綺麗に保つ為に、うがいや鼻洗浄を徹底する。そこにウィルスを運ぶ媒介となる手も洗う。人体侵入の感染経路を意識して最大限防ぐことだ。

 但し、世の中は良識的な人達だけで構成されている訳ではない。無防備、無対策で行動する人も一定数現実に存在し、その結果、一定の感染拡大に繋がっていることも事実だろう。どれだけ、社会的責任、社会的要求があろうとも、法的責任すら守らない行為も実社会では決してゼロにはならない。
 その事を容認しろとは言わないが、事実としてそういう人達も存在する前提で、自らの身を守る意識を持つことが大切なのだ。罪を憎んで人を憎まずの精神で、人の事をどうこう言うのではなく、その事に影響を受けず、自分の行うべき事を自信を持って行うべきなのだ。