怒りの緊急提言、人の死を何と思っているのだ!

 羽田議員の死は本当に痛ましい事故であり、この様なことは二度と起こって欲しくない。年内、コロナ関連はもう書くつもりはなかったが、今朝のワイドショーで余りの言いっぷりに怒りすら覚え、書かざるを得ない状況となった。

 まず、この件、情報が錯綜しており、何が真実か正直言って不明の部分も多かった。アエラの記事では、PCR検査をこの混乱時期に自分が使うことで逼迫度合いが高まるとの理由で本人が断ったとの事だったが、ワイドショーでは、無症状時には検査対象とはならないと言われ、発熱後、受診を受けず民間のPCR検査を予約したが2日後だったとのことで全く異なっていた。何が真実なのだろうか?

 ただ、共通しているのは、24日の深夜に発熱後、発熱外来など医師の判断を仰ぐ行動がなかったのは事実の様だ。

 私が怒りを覚えたのが、あるジャーナリストがこのことを判断ミスと言いのけたことだ。流石に驚いたが、瞬間、菅野女史が諫めてくれたのが僅かに救いだった。

 確かに想像の範囲では、深夜の発熱の際に電話で相談していれば、少なくとも翌朝、発熱外来にかかっていれば、朝熱が下がったとしても夜には再び発熱しており、最悪でもその時点で医師の判断を仰いでおれば、と言うのを判断ミスと言いのけたのだろう。

 百歩譲って、本当に想像の通りの判断ミスだったとしたのなら、その原因を作ったのは貴方達だとの反省をするべきではないか。検査を医師の判断ではなく、素人判断で受けたい時に受けるべきと喧伝し続け、医師の判断関係なく素人が判断する様に仕向けたのは、貴方達、医療と関係ないPCR検査推進派ではないのか。

 通常は検査というものは、医師の判断で受けるものだ。医師は、診察とCT等の他の検査に合わせてPCR検査をして、確定診断を行う。極論を言えば、PCRで陰性と出ようと、新型コロナと同様の医療処置を実施することだってあるだろうし、その為に繰り返し検査をすることもあるだろう。陰か陽かが全てではなく、総合的に診断するのだ。

 普通に考えて欲しい。自分でレントゲン写真を撮って、自分で判断することなどあり得ないだろう。民間の検査で陰陽の結果で勝手な判断をするのは、これと同じことなのであり、あり得ないのだ。

 確かに春先、医師の判断があっても検査が行えない不幸もあったが、今や検査能力は格段に上がっていて、その様なことは無い。その時と混同してはならない。検査は、あくまで医師の判断なので、症状が無い場合は濃厚接触でもない限り検査の判断が下らない。当たり前だ、必要ないからだ。素人判断の検査は、誤った判断、誤った行動を引き起こすので本来危険なのだ。実際に、民間検査での偽陰性クラスターの報告も上がっている。誰でもいつでも検査を実施している国で、感染を抑止出来ているのは、非人道的な人権無視の行動制限隔離を実施できた国以外に存在しない。

 その様な状況で、誰でも検査を無責任にも訴え続けることで、空気感を醸成し、市場まで生み出した結果、実際に民間検査が今や相当な規模に増えている。医師の判断ではなく、勝手に検査を受けるという風潮が判断を誤らせたと言って過言ではない。そんな検査が無ければ、常識的には体調不良時には医師の判断を仰ぐのだから。

 なのに、コメンテイターは、民間のPCR検査が未だ少ないことが原因とし、もっと増強しなければならないと訳の分からない主張を繰り返していた。まずは、自分たちの作り出した空気、環境の及ぼしている危険性を直視し、反省するべきなのにだ。

 先日発信した提言である、医療の緊急事態宣言に続き、検査環境の緊急事態宣言を緊急提言する。

  1. 民間のPCR検査は全て各保健所の管轄として、医師の判断、空港検疫、濃厚接触者以外に実施することを禁止する
  2. 民間のPCR検査は、保健所の検査と同水準(試薬、検査精度など)で行う。
  3. 海外とのビジネス等でPCR陰性証明書が求められる場合は、特別に申請を受け付けて検査実施出来るようにするが、陽性検出の場合、医師の指示に従う事と、陰性の場合でも、非感染を証明するものではないので感染抑止行動は引き続き実行することを誓約させ、違反した場合の罰則を設ける。

 結局、日本における新型コロナ感染症対策で最大効果があるのは、先日の医療資源の再配分、全体最適化を目的とする強化策であり、その次が、PCR検査の統制だろう。無暗な検査は、偽陰性リスクだけでなく、医師の診療を受けずに勝手な判断をする方向に誘導するというリスクすらあるのだから。

東京都の感染拡大が他地区と異なる動きを示す理由の分析

 一旦『K値』そして『T値』(詳細は『ファクターXの正体』をご覧ください)で感染収束が検知された後、しばらくはピークアウトの傾向を示していたが、再び感染拡大に向かい始めている。それも、他地区と大きく異なる変化を東京が示している。森羅万象、世の中の出来事には必ず因果関係が存在する。東京だけ異なる傾向を示すのも、何らかの理由があるはずであるので、丁寧に検討していきたい。

 相変わらず、危機を煽り、政府を非難するだけのメディアも多く、危機管理のなんたるかを尤もらしく語っているが、正直言って、メディアで語られている危機管理は多くの部分で大きな勘違い、思い込みの激しい決めつけで、机上の空論が多すぎる。実践を通じて危機管理に対処してきた立場から言うと、もっとも危機管理対応時にやってはいけないことを多くのメディアは言い続けているのだ。

 考えうる最大のリスクに最初から対応するのが危機管理の基本だと言う間違った説が実しやかに語られている。大きな間違いだ。東日本大震災時の福島原発を襲った津波を想定外と言わしめた反省の様だが、一体どこまでの想定をすれば最大と言えるのか、が問題なのだ。

 例えば、地球崩壊のリスクを想定して巨大隕石の衝突を想定して、対応能力を備える必要があるのか。太陽の巨大クレア発生に備える必要があるのか。笑い事ではない、そんな可能性は無いと馬鹿にしても想定以上の津波は自然現象で発生するのであり、どこまでを馬鹿にできるのか、誰にも答えられない。もっと、身近な例で言うなら、飛行機には乗れなくなる。墜落事故の可能性を考えて命の危険を冒すリスクを取るのか、という事である。墜落事故は、確率は低くとも発生しうるリスクであり、最大のリスクでもあるのだから。更に言うと、車の運転、いや、道を歩くことすら出来なくなる。

 危機管理とは、実際に発生している危機状態を冷静に状況判断し、適切に対応しなければならない。それが基本だ。それ以上でも以下でもダメなのだ。だから、状況変化に柔軟にかつ迅速に適応する必要があり、極めて難しい判断の連続と舵取りを要求される。場当たり的に見えるのは、他人事で無責任が故でしかない。大きく、強力な措置、何もさせない、を実行する程簡単なことはないが、それは危機管理としては極めて無責任、責任回避の良い訳行動でしかないのだ。

もし、本当に日本が危機的状況に陥ると想定された場合は、まず情報統制を真っ先に実施しなければならないだろう。そうしなければ、危機管理対応としての実施策が全て無効化されてしまうからだ。そういう意味では、まだまだ日本は危機管理状態とは程遠い、平常状態なのである。

話を、感染再拡大の原因究明に戻そう。

まず、真っ先に想像できるのが、変位種の感染である。振り返ってみれば、本年3月に武漢種の感染が収束を見せた直後、入れ替わる様に欧米種が感染拡大を見せた。その欧米種は直前の渡航飛来したものと思われている。今回の感染傾向もその当時に酷似しているのだ。変位種はまだ数例だけが確認されているに過ぎないが、実はもっと早く、多く上陸していることも否定はできないはずだ。

少しだけ、疑問なのは、大阪など多くの海外からの入国者が東京と同様に多い筈の地域は、収束に向かい始めているのである。この違いは何だろうか?例によって、メディアは、若者を悪者にして行動の自粛を呼びかけるが、はっきり申し上げよう、大阪と東京で若者の行動レベルに差があると言うのは何の根拠もない。体感的に言うと、大阪の方が寧ろ対策面で緩やかである。その証左の一部として、店舗の正月開店状況を比較すれば分かる。大阪では、正月に普通に福袋が販売される予定が多い。東京ではほとんどが年末からの売り出し、しかも予約制だ。

私がよく用いる地域文化の差を表す、『エスカレータ理論』(詳細は拙著『ファクターXの正体』をご覧頂きたい)、ルールが目的化してしまい目的を見失い行動が東京に多いということも考えられるが、その件は別で議論しよう。

二つ目の仮説だが、民間の検査、誰でもいつでも受けることが出来るPCR検査の影響である。東京ではかなりのレベルで普及してきている。そして、不要不急の外出自粛要請、帰省を控える様なメッセージが発され、医療の世話にならない程度の体調不調時、或いは何もなくても、安心したいと言う理由での検査が爆発的に増えている。この中に感染者が存在した場合、その30%が偽陰性と判定され、誤った安心を得て、少々の症状があっても感染抑止策が不充分な行動に繋がる。これが感染爆発の大きなリスクなのである。このカテゴリに属する人は、安心させず感染抑止行動を徹底させるべきなのだ。

PCR検査は、医師の判断で行う、確定診断の助けになるものであり、勝手な安心を得るものではない。この点の勘違いが多すぎて困る。メディアが煽る、誰でもいつでも何回でも検査を実施している国で感染が抑えられている国があれば数字で語って欲しい。中国は、検査で抑えたのではない、強制的な集団隔離の効果があったのであり、検査は関係ないのだ。

無症状者による感染拡大を殊更大げさに言うが、無症状者はウイルスを保有していたとしても、咳をする有症状者と比較して、ウイルス拡散量は少ないのである。マスクをした状態で、飛沫を防げば、かなりのレベルでウイルス拡散を防止できる。従って、誰もが感染しているつもりでの抑止行動で感染抑止は可能なのである。

合わせて、周囲にウイルスが存在する、常在する前提での、感染抑止行動が重要なのである。つまり、ウイルスをもらっても粘膜に近づけない、洗い流す。そして、自然免疫力を高める様に努める事だ。それで全てではないだろうか。

 更にウイルスの変異であるが、メディアで恐怖の様に語られ続けているが、大きな間違いである。確かに強毒化する変異もあり得るが、今回の変異は、感染力が高まったとしか言っていない。ウイルスの基本的な性質上、感染力が高まると言うのは、毒性は弱まる方向にいくのだ。なぜなら、ウイルスも生存競争を戦っているからだ。毒性が強まった変位種は、感染機会が減少してしまうので自然淘汰されるのだ。もし、毒性と感染力を同時に高めることができれば、強力なウイルス兵器になるが、実はまだ成功事例は聞こえてきていない。つまり、今回の変異は、より通常の風邪の原因ウイルスに近づいたと考えるべきで、歓迎すべき変異に思える。Withコロナとはその様な変異でも近づくことができるのだ。

 最後に確認しておく。東京の状況を危機的と喧伝されるが、それでも欧米先進諸国と比較して、桁違いに感染規模が小さい。ニューヨークでは1日何十万回、いつでも検査が出来るのに、日本は何もしないと言われ続ける。同じ規模の感染に拡大して良いのなら、その選択肢もあるが、私は嫌である。

アメリカ、イギリスではワクチン接種が始まった。副反応のリスクを遥かの凌駕する効果を期待してのことだ。日本では、ワクチン接種に慎重論が専門家筋でもまだ多い。そのことが日本の感染状況が危機的状況ではない証拠でもあるのだ。

正しく恐れ、正しく対処する。必要以上の対応は100害あって1利無し。正しい行動を心がければ、マクロ視点では大きな危機に繋がらず、日本の医療も崩壊しない。

コロナ禍での我が家のゴルフ成果

コロナ禍で緊急事態宣言まで発出された1年であったが、巣ごもりの我が家の暇つぶし、ゴルフ一家として春に購入した練習用マットが、およそ9か月でこの様なズタボロ状態までなった。わずか、9か月である。

それ程、素振りに明け暮れた1年であった。それはそうだろう、打ちっぱなし練習場すら休業する状況なのだから。我が家の家族にとって身体動かさないのは、コロナに感染するよりも重症に陥ってしまうのだ。常に動いていないと死んでしまう回遊魚的な性質を持つ一家なのだ。

そして、怪我の功名とも言えるのだろうか、家族全員がパーソナルベストを更新、大幅レベルアップが果たせたのだ。

妻は、昨年まで年3回~程度のラウンドで、100を切れないゴルファーだった。しかし、今年は目標の100切を達成、どころかベスト91まで達成できた。ゴルフになってきた、面白くなってきた。来年は90切達成は確実るだろう。

光里は、陸上を引退し、ファンランも激減し、ゴルフに邁進した1年で、初心者の域から、100切をウームゴルフのなみきちゃんに先んじて達成、ベスト93、ハーフベスト43をマークした。陸上で鍛えた体幹と地面をとらえ反力を伝えるスウィングを習得、飛躍的な上達を成し遂げた。来年、同様に90切は当然、この先父さんと本気の勝負が出来るまで頑張って欲しい。

有美香は、大学最終年度、就職活動や卒業研究などでラウンド数は限られたが、それでもベスト102と100切に肉薄。そして何よりも、豪快なスウィング、ヘッドスピードで40に迫るパワーを持って、220ヤードドライブを実現。この力は、何よりも貴重でこの先の伸びしろはトンデモナイ、期待の星だ。

最後に私自身も、本年パープレイ、72を達成。生涯目標のエージシュートを本気で目指せる年齢まであと12年余り、それまでに更なるレベルアップと体力維持が課題。本年、クラブ競技の中止が前半特に相次いだためか、月例等では不調だったが、来年は確実に狙いに行く。

コロナ禍での基礎トレーニング、素振り。この大切さを実感し、来年は2代目素振りマットの登場となる。我が家の躍進は止まらない。

現代版学問ノススメ

 福沢諭吉先生の学問ノススメ。日本人で知らない人間はいない程有名だが、ではその中身を理解している人間はどれぐらいいるのだろう。大きな誤解をしている人間が多いのではないだろうか。

有名な冒頭『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』を、平等社会を訴えた様な言い方をする人が多いのではないだろうか。その後に『といへり』となってその後に逆説的に続いているところまで理解している人が少ないのである。

逆説的に続いている部分は『されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや』なのである。つまり、万人は平等と言うが、現実社会は貧富の差、賢人と愚人など違いは確実にあるが、それは何故だろう、としているのだ。

決して平等だと言っているのではなく、平等と言われているが現実は異なるぞ!なのだ。

結論として、その差を生み出すのが学問であるとしていて、学問のススメになるのだ。学問をすることで、賢明な国民が健全な民主主義を運営できるのであり、賢明になれなければ健全な民主主義が運営できないことになる。学問は、個人が自分自身で努力すべきことであり、まさに、自助による個が自立・自律することが近代国家の最優先課題だとうったえていることになる。

どこかの政党の党首は、菅首相の国家像として示した『自助・共助・公助』に対して、自助を政府の立場で語るのは無責任だと頓珍漢な攻撃を行ったのは記憶に新しい。流石に、自助をベースとした個が成立しなければ、近代国家の自由・独立・平等が成立できず、封建的独裁国家になってしまうことは理解しているはずだが、恐らく、政府の言うことには条件反射的に反対すると言う脊髄反応を示したのだろう。末期的症状と言われても仕方がない。

それはともかく、学問のススメの時代背景は、それまでの江戸時代、武家による封建制度から、欧米の様な自由と民主主義を追随し、経済発展を目指すべく明治維新という時代変革に挑戦していた。勿論、国家としての役割、機能、制度を整えるのは絶対必要なのだが、今までの様にお上の言う通り、その範疇で実行するという国民では、大きな時代変革におけるイノベーションを阻害してしまう。むしろ、国民一人一人、個人が主人公にならなければならない、個々が責任を持たねばならなかったのだ。その為には個々人のポテンシャルを上げる必要があり学問が勧められたのであった。

今、再び時代は大きく変動しようとしている。その変動の最大なるポイントは情報革新である。インターネット環境下で、5G、AIが実用化され、量子コンピューティング、量子暗号などの技術がブレークスルーしようとしており、誰もがビッグデータに直面して、自由に確認することが出来る様になってきた。これまでの、マスを対象とする、画一的であるが故に、偏向するか、内容が希薄かのどちらかにならざるを得ない情報から、多様性を包含し、奥深く中身の濃い様に変貌してきている。しかし、一方でそれ故、玉石混交状態であるのも事実なのだが。

自由と民主主義を成立させる個々人、その個々人の思考が民意として、進むべき道は選択されるが、その判断に必要不可欠なのが情報なのである。しかし、今、この情報性向の変化に個々人が適応しているとは思えないのが問題なのである。

それ故、マスに発信される情報は、今まで以上に偏向する傾向が強くなってきている。ある意味、何らかの意思があるのではと感じる程なのだ。それは、個々人に、玉石混交の情報の中で判断できる情報の選択と分析、解析するリテラシーが備わっていない為に、所謂フェイクニュースが有効になってしまい、更にひどくなるという悪循環が生じている様に感じる。

簡単である、フェイクニュースに対して、きちんと論理的に是々非々の個々の考えが発信できる様になれば、その様に情報に向き合うリテラシーが備われば、マスの発信も無駄なことは避ける方向に向かい、情報として洗練されてくる。

今のメディアは目に余るフェイクニュースの発信を繰り返しているが、それが輿論形成に繋がってしまい、視聴率の獲得のために更にフェイクニュースが増えるという悪循環を発生させてしまっている。この状態が継続されると、人類は再び不幸な道に向かってしまいかねない。その勢いは、良識ある一部の為政者が存在しようとも、せき止める事は出来ない、それが民主主義だからだ。

であれば、今こそ、現代版の学問のススメが必要になる。個々人の情報リテラシーを備える努力が必要不可欠になるだろう。そして、更に、ビッグデータに向き合い、統計的、論理的思考によるデータの解釈、分析が出来る様になれば万全だ。

まずは、私自身、統計的、論理的思考による情報発信を続け、リテラシーを備え、データ分析による思考が出来る人材が一人でも多く育ってもらい、議論を戦わせる様になることが目標だろう。

医療崩壊の数値的検証とその対策提言

 諸外国に比べて圧倒的に少ない感染者数、重症者数にも関わらず、医療崩壊の瀬戸際に立たされる日本。愕然とさせられる事象だが、本当であれば国家的に医療体制の脆弱性を真剣に改善しなければ、枕を高くして眠れないだろう。その実態を検証してみなければ、対策の方向性も検討できないので、オープンデータから検証をしてみる。
 
 まず、グラフをご覧いただきたい。このグラフは、感染者総数から死者数と療養解除者数を引いた推移である。つまりマクロな観点では、指定感染症であれば全て入院必要な患者となる。

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 ご覧いただければ分かるのがピークを2回経ながら3回目のピークへと向かって行く傾向の中で3万人というラインに近づいているのが分かるだろう。この3万人という数字が重要である。

 なかなか、減少しない傾向があるのは、一旦療養に入ると他の感染症と比較して療養解除まで長期間必要になる。即ち、他の感染症より病床占有率が高くなるのである。そして、3万人に迫ろうとしている。

 日本の病床数は、概ね100万床と言われているが、新型コロナに備えて準備可能とされたのが、その3%にあたる3万床である。即ち、マクロ的には逼迫している事を数値は示しているのである。

 いやいや、無症状者などホテル隔離、自宅療養も増えているという意見もあるだろうが、現実問題として3万床とはMAXであり通常の回転率、全国に散らばっている総数だと考えると、実質は約80%の2万4千床あたりで、そこいらじゅうでベッドがないと言う調整が必要になり、所謂逼迫状態になる。その分をホテルや自宅でカバーしていると考えれば、3万人に近接してきたという数字は、逼迫と言っていいだろう。

 一方で、今インフルエンザの患者は激減している。例年なら週当たり10万人前後の感染者だったのに対して、今年は数百人に収まっている。この中から入院患者はどれだけいたのだろうか?仮に1割と想定すると、1万人規模となるのであり、その分は病床に余裕があるはずだ。

 また、危機管理の基本中の基本だが、危機に備えて準備した資源(この場合病床であり、対応人数である)3万床で不足する事態が発生する場合、残りの97%から適宜資源の再配分を行うのである。3万から4万、5万というと相当なリスクを孕む規模に感じるかもしれないが、97%を96%,95%に調整すると考えるとそれ程困難には感じないのではないだろうか。現実、企業における危機管理対応時には、普通に当たり前に実行する資源の再配分なのだ。

 私自身、東日本大震災時の企業における危機管理対策本部や、その他のインシデント発生時の組織運営管理者として幾多の危機管理体制に対応した経験から言うと、資源の再配分は権限さえ備わればそれ程難しくないし、通常業務に影響を及ぼさずに対応可能なのである。危機管理体制やプロジェクトに必要不可欠なのは資源の確保に対する権限なのだから。しかし、厄介なのが、権限が付与されていないことを想定する場合なのだ。それでも、その体制をの責任者がまず実行すべきことは、資源の確保なのである。

 そもそも危機管理体制に資源確保の権限が付与されていない時点でお終いなのだ。資源を再配分しようと、全体最適を考えて采配を振るおうとしても、既存組織は既存のミッションを保有し、自組織防衛の為の防御反応が出るので、権限が無ければ、部分最適に引っ張られ、全体最適が犠牲になってしまうのである。

 今の医療界が発信している、既存の医療に影響が出ると言う言い方は、この部分最適の防御反応の象徴なのである。構造的に、医療業界全体を統制管理し全体最適を指揮できる権限機能が存在しないことが、危機管理体制として脆弱である所以なのだ。

 正直言って、冬の感染ピークは想定された現象であり、その時点で3万床の医療資源で間に合うかは極めて心もとなかったと言わざるを得ない。そもそも、諸外国の感染状況を鑑みた場合、当初3万であったとしても、柔軟に増床する資源再配分を想定しておくのが当たり前だ。3万が限界だから、3万以内に感染を抑えるべきだと言うのは、その通りだろうが、収まらなかった時点の策を用意していないのは、余りにも稚拙、怠慢の誹りを免れないだろう。

 特措法で有事の強制力が議論されるが、命を守る医療に対しての国家としての強制力は何よりも最優先するべき事項のはずだ。少なくとも、医療業界の善意による危機管理能力は限界があることが今回露呈しているのだから。

この件も含めて、政府の採るべき対策、法的な対処をまとめると

① 感染症指定時に予め想定できる感染状況を定め、それに対応する、医療体制確保、医療資源配分の要請を医療業界(医師会?)に要請できること
② 予め想定した感染状況を超える事態と感知した際には、医療緊急事態宣言を発出し、医療資源の再配分の指示を強制力を持って出来ること
③ 医療資源再配分とは、病床数、ICU数のみならず、それを運用する医師、看護師も含むものである
④ 当該指示における設備運用費、人的資源費用の通常以上にかかるコストは政府が負担するものとする
⑤ この際必要な、ホテル療養や自宅療養に必要な介護師の人的資源確保とサービス維持を指示し、コストは前期同様政府負担とする

 以上のような内容を、法律としてブラッシュアップして特措法に組み込めば、飲食店などの休業要請よりも、もっと現実的な政府対策になる事は間違いないし、この部分が不足していては、本当の意味で命を守る体制にはなり得ない。

 繰り返しになるかもしれないが、日本の医療資源は世界に堂々と胸を張れる水準であることは疑いようがない。そして、医療のレベルもトップレベルである。皆保険制度に支えられている医療サービス体制も万全だ。日本の医療がこの程度の感染拡大で崩壊することがあろうはずがない。あるとすれば、資源の配分が硬直的で偏っていることに原因がある。であるならば、少なくとも緊急時には、医療業界に不足しているだろうノウハウ、経営のノウハウを注入しなければならない。即ち全体最適を見据えた資源の有効活用のノウハウを注入しさえすれば、今発生している様な動脈硬化現象は必ず解消できる。確かに医療業界は不可侵かもしれないが、崩壊し、国民の命が危機に晒される事態であるならば、背に腹は代えられないはずだ。

 何故、分科会や専門家会議に経済の専門家が入っていながら、この種の提言が出ないのか不思議でならない。経済の専門家という学者は、結局実践力が伴わず、机上論で経営のプロではないとするならば、学者でない本当の経営のプロ、或いは現場指揮を経験した、企業には存在するバリバリの再建人材を入れて議論すべきだろう。

モチベーション特性

 モチベーションを高めるには、承認欲求・自己実現欲求が満たせる状態になれる、目指せると思えなければならない。しかし、どうなれば欲求が満たせるのか、このことは個々人よって異なるものであり、一様に語れるものではない。一般的に個々人の性格や志向は異なり、いくつかのタイプに分かれるのだ。以下に、4タイプに分けて簡単に説明する。

・A(attacking).結果追求タイプ;
 人に頼らず自分の力で結果を出すことにこだわるタイプ。
 一国一城の主として、勝ち負けにこだわり、自己責任の元、成功を目指す。人との競争において、秀でることを目指し、結果を出すことに執着する。実行に対して、自分自身に責任・裁量権が与えられないと、物足りなさを感じ、モチベーション低下につながる。また、目標は自ら高く設定する傾向が強く、目標が低いとモチベーションは高まらない。
 このタイプは、大幅に権限移譲をすると期待以上の成果が期待できる。

・T(thinking).分析論理タイプ;
 自身の知識を広げ、探求することにこだわるタイプ。
 物事を論理的に探究し、誰もが到達できない解を導き出すことにこだわるタイプ。特定の分野を深堀、探求したりすることで、問題解決にあたる傾向が強い。因果関係を明確にして突き進めることにモチベーションを感じる。逆に、計画のない行き当たりばったりの環境では、全くモチベーションが高まらない。示される方向性の論拠も明確で論理性が無ければ、モチベーション低下につながる。
 このタイプは、困難な課題に直面すると期待以上の成果が期待できる。

・F(feeling).発想感覚タイプ;
 自分らしさを追求しオリジナルの発想を重要視するタイプ。
 自分らしさ、自分の発想、感覚の趣向が強く、オリジナル性を志向し、新しい価値の創出にこだわる傾向が強い。自身の置かれている環境に自由度がなく発想や活動を阻害する様だと、大きくモチベーションが下がる。また、対応する役割に独自の工夫や相違が必要ない、定型的な行動を強いられるとモチベーションは下がる。
 このタイプは、誰もが未着手の新分野に直面すると、期待以上の成果が期待できる。

・E(empathy).貢献中立タイプ;
 誰かに感謝される、ありがとうと言われたいタイプ。
 人との協調性を重視し、対立を好まず、中立を保とうとする。その上で、人の役に立つことに喜びを感じるタイプ。個人ではなく、チームの成績にこだわり、リーダーではなく、縁の下の力持ちとして支えるタイプ。結果よりもプロセスを重視する。目標ノルマなど結果を厳しく追及されたりするとモチベーションは低下する。成果よりも感謝を受けることにモチベーションを感じる。逆に、無関心に置かれると、たちまちモチベーションは下がる。
 このタイプは。協力的な対人環境に置かれると、期待以上の成果が期待できる。

 以上の様に、タイプを見極めず、良かれと思って実施した施策が、逆効果でモチベーションを下げてしまう結果となり得ることを理解して欲しい。
 試しに身の回りの人物を見てもらいたい。面白いぐらい、上記4タイプで分類できることがお分かりになるのではないだろうか。勿論、筆者の様に、強烈なAタイプと若干のTタイプを持ち合わせる分かり易いパターンから、それ程極端ではなく、バランスよく2パターンを持ち合わせるなど人それぞれである。
 組織構成要因としても、このタイプのバランスが必要であり、Aタイプばかりの集団では、衝突ばかりで結果の前に破綻が見えてきて、モチベーションが生まれなくなってしまう。この特性を見極めた組織、人員配置が必要なのだが、日本の企業は、この考えとは程遠い組織人事が行われるのが、日本型企業の特徴である。どのタイプでも同様の役割、同様のチャンスが与えられる、終身雇用の平等性により、むしろモチベーション低下を招き、生産性の最大化が困難であるのが実態である。
 逆に言うと、この点を改善するだけで、飛躍的進歩の可能性も秘めているのである。

『じんざい』の4象限

『じんざい』という言葉に想いを込めた当て字を、図に示す。

 横軸をモチベーションの高さ、縦軸を能力の高さで、4象限で表している。右上のカテゴリ、モチベーションも能力も高い人、この象限には『人財』という字を当てる。言うまでもなく、社会にとって、組織にとって、財産となるべき、活躍が期待される人財なのである。
 その下の象限、モチベーションは高いが、能力が伴っていない人、この象限には、『人材』という字を当てる。モチベーションの高さを活かして、教育訓練して、知識も詰め込み、経験を積めば、必ずそれを活かす活躍が期待される原石であり、この時点では『材』の字を当てるが、右上の象限を目指せる、期待すべき層である。
 左の上の象限、モチベーションは低いが、実は能力が高い人、この象限は『人在』という字を当てる。人それぞれの個性であり、価値観なので、全面否定は出来ないが、一般的には勿体無い人達なのである。何か、価値観を変えるような出来事や、きっかけを与えれば大きく化ける。至極当然だが、元来能力を持っているのだから、やる気になりさえすれば力を発揮するのである。マッチする環境の提供、環境変化が必要な層なのである。
 実は、世の中の多くの人は、この象限に属すると言っても過言ではないだろう。2:8の法則(パレートの法則)と同様、右側の象限に属する全体の2割が、世の中を動かしている。しかし、動かしている層がマイノリティであるのも事実であり、左側の層から右側に僅かでもシフトすることで、世の中、組織は劇的に良くなる。従って、モチベーションを向上させる環境構築、施策は人が育ち、活躍する上で、最大の要素となるのである。
 左の下の象限、モチベーションも能力も低い人、この象限は『人罪』という字を当てる。非常に厳しい当て字だが、しかし、モチベーション向上策で変わりうるのである。モチベーションと能力のどちらを先に変えるべきかは明らかで、モチベーションなのである。モチベーションさえ向上すれば、それは『人材』領域であり、能力開発は見えてくる。モチベーションのない状態で能力開発と言っても、成果に限りがあるのは当然ではないだろうか。

 では、モチベーションを上げる為にはどうすればいいのか。そもそも、人によってモチベーションを上げる要素は異なるのであり、個々の特性を見極めた対応策が必要なのである。

 ここで、少し視点を変えて、人が欲する欲求のレベルを確認してみる。マズローの欲求モデルを見て見る。人が自己実現に向けての欲求を5階層に分類している。低い層の階層の要求が満たされるとより高い層の欲求を欲する様になるモデルである。

 最下層は『生理的欲求』。人間が生活する上での基本的な欲求で、食欲、性欲、睡眠欲などである。その次が『安全の欲求』で、危機的状況ではないか、健康面の心配はないか、経済面の心配はないか。
 その次の層が『社会的欲求』である。人間としての基本欲に問題なく、身を守る安全も確保できていると次に、社会の一員でありたいという欲求が働く。人間は孤独に耐えられないのであり、村八分や仲間外れは、この欲求を損なう厳しい対応になるだ。
 そして、ここまでの基本的な欲求が満たされると、次に『承認欲求』が働く。社会に認められたい、活躍したい、より高い地位を求めたい、金持ちになりたいなどである。
 そして、最上位の欲求が『自己実現欲求』である。自分の能力を最大限に発揮したいという、かなりレベルの高い欲求になる。

 基本的にモチベーションの要素としては、4段階目の『承認欲求』を得るための意欲、或いは、最高レベルの『自己実現欲求』にどう達するかという意欲となる。ここで、よく考えて欲しい、3段階目までの欲求が満たされない状態で、4段階、5段階の欲求は論外なのである。即ち、環境として、3段階目までの欲求が基本的には満たされている必要があることに注意して欲しい。これが意外と整っていない場合が多いのである。

 学校内で、友達が出来ず、先生にも理解されず、常に怒られてばかりで居場所がない。何をしても認めてもらえるどころか、聞く耳を持ってもらえず、同じ空間を共有できない別モノ扱いされてしまう。
 会社内でも、組織の中で浮いて、誰にもまともに話を聞いてもらえない。仕事も任されず、雑用ばかり。仕事をしていても、上司にも自分の仕事を見てもらえず、丸投げ、まかせっきりで、問題を抱えても誰にも相談できない。
 家庭内でも、会話もなく、話はまともに聞いてもらえず、一方的に言われるだけで、コミュニケーションが成立しない。などなど、様々な例はあるだろうが、その状態でモチベーションが高く保てるのは、特異的な反骨精神の持ち主だけであり、通常の人間はモチベーションを高めるどころの話ではなくなる。
 従って、まずは、この次元の欲求、特に社会的欲求を満たす環境を注意して確認することが入口になる。

 学校教育であろうと、会社組織の人材育成であろうと、ジュニアアスリートの指導であろうとも何も変わらない。指導者、教育者、指導担当、先輩、上司、どう呼ばれようとも、最も重要視しなければならないのは、人が育つ環境を提供出来ているかであり、そこの改善は怠ってはならない。

 そして、モチベーション向上に関してだが、基本的に、承認欲求、自己実現欲求が対象になるが、それ以下の欲求と異なり、事はそう単純ではない。個々人によって、何をもって、承認欲求が満たされるのか、自己実現に近づけるのか、が異なるのである。タイプが異なると言えば分かり易いだろうか。このモチベーションのタイプは別レポートで報告したい。

ざわつく世間、危機煽りの限界露呈 冷静になれば為すべきことは明確だ

 東京都の新規感染者数が800人を超えて、この世の終わりの様な報道、感染拡大を政府の責任する無責任な専門家発言が相次ぐ。どうしたらいいか、政府のメッセージが欲しい、強力な対策が必要だ、と言い続けるメディアだが、同時に若者にはメッセージが届かないと責任を転嫁する。パニック状態の収拾がつかないデマが世の中を覆う危機的状態。ここは、冷静に原点に返るべきだ。原点とは、感染症対策の学術的原点ではなく、日本が当初より示した対応方針の原点である。

 感染症対策の学術的常識は、感染ゼロ化、完全封じ込めを目指すのが前提である。それは、致死率が高い、最悪の感染症を前提にするから当然と言えば当然だ。しかし、新型コロナ感染症は、感染力は高くとも、致死率は低いという事実は既に周知であるし、実は日本は当初より、その実態を見抜き、完全封じ込めでなく、管理抑制方針、つまりWithコロナを目指している。

 この管理抑制方針と完全封じ込め方針は根本的に異なるが、メディアの殆どは完全封じ込めから抜けられず、メディアで発信する専門家の多くも同様の発信に明け暮れている。国民目線から見て、分かり難いのは当たり前だ。この二つの違いで平行線となり、実際に取るべき策と、メディアから流れる情報が異り、交わるところが無いからだ。訳が分からない、どうしたらいいか分からないと、危機感を感じるのは当然と言えば当然なのだ。この二つの違いは、学閥、派閥の違いが強く影響を及ぼしているとの説もあり興味深いが、それは後日考察するとして、今現在、各個人はどういう行動を心がけるべきかを簡単に示したい。極めて簡単、次の二つを心がけるだけで良いのだ。

① 自分自身が感染者である前提で他人に感染させない予防策を実行する
② 市中どこにでもウィルスが存在する前提で、自身が感染・発症しない様に予防策を実行する

 この二つに尽きるのだ。上記2点を前提にすれば、会食はどの様に対応すれば良いか、普段の行動はどうするべきか、どういう店を選べばいいか、各個人が責任感を持った行動を心がければ良い。何をすればいいか分からない、というのは無責任と認識し責任ある行動を取る事。こんなこと既にやっている、というのであれば、今まで以上に継続すれば良い。

 この感染症は、感染力が高いと言っても、それ程無尽蔵に感染するものではないことも分かってきている。勿論、上記の行動を完全に実施しても、不幸にも感染してしまう可能性がゼロではない。世の中でゼロリスクはあり得ないのだから仕方がない。しかし、限りなくゼロに近くリスク低減する努力は出来る。それが上記2通りの行動指針だ。

 それでも、世の中は法律すら守らない事件も発生する。国民全てが良識ある行動を取る訳が無い。それ故、一定の不正行為のリスクは存在し、それ故の感染は発生するだろう。それは社会リスクとして一定受容しなければならないだろう。人権制限に及ぶ程の強制的な行使を実行しない限り防げないのだから。

 ワクチン接種がアメリカや欧州で始まった。まだ、安全性確認が不十分な状態でも、背に腹は代えられない状況で一定のリスクを受容することを国民も了解して始まっている。日本では、このリスクは取れないだろう。何故なら、ワクチン接種のリスクを受容する程、感染拡大のリスクが高まっていないからだ。この事実からも、日本の現時点の感染拡大状況は大騒ぎする状況ではないことを冷静に理解しなければならない。もし、本当に危機だというのなら、ワクチンを特別認可して年内にでも接種開始する様に各方面から迫るべきだろう。その気がないのなら、煽るべきではない。

 では、東京都の800という数字はどう考えるべきか。実は、忘れているかもしれないが、小池都知事は1か月前に1日1000人の新規感染を想定した医療体制整備を語っていた。肉薄してはいるが、そこからはまだ8割である。実は私の予測でも、東京都で1日1000、全国で5000というピークを想定していた。しかし、現実は拡大の中途で一旦収束に向かう兆候を確実に示した。そこから再拡大を示し、少しだけピークシフトした状態で現時点の東京都800という数値になった。このことは事実だ。

 私は不思議で仕方がなかった。一旦収束を示しながら、再拡大を示し始めた要因が必ずあるはずだと。それがあったのだ。そして、そのことを事実と受け止めた瞬間、愕然とした。私が『ファクターXの正体』でテーマとした事象が発生しているのだ。ここのところ民間の検査機関がビジネスとしてPCR検査をかなりの規模で始めている。そして、私はある場所で、GoToを利用した宿泊所でどんちゃん騒ぎをする団体と遭遇した。話を聞いてみると、全員PCR検査で陰性だから大丈夫だと言っていた。これなんだ、最大のリスクは、と確信した。

 症状の無い人は、本来検査など必要なく、自身が感染している前提で行動をすれば問題ない筈だが、陰性という大義名分を与えると、人とは弱い動物であり、大なり小なり緩みが発生する。その中に偽陰性者が存在する限り感染リスクが増大するのは当たり前なのだ。陰性という大義名分があれば、症状があろうとも大丈夫と思い、無理をする。だから、無暗なPCR検査は今すぐやめるべきなのだ。海外とのビジネス等、必要に迫られる場合に限り必要悪として認めるとしても、少なくとも陰性という結果は全員偽陰性と思え、ぐらいの注意喚起が必要だろう。だから、全員感染している前提の行動が必要なのだ。

 数字に話を戻そう。800という数字に恐怖を感じる。しかし数字とは怖いもので、何が危機となる基準なのか、曖昧で感情に影響されてしまう、その原因は、目標としての設定数値、基準としての数値が設定できていないからだ。いやいや、ステージを分ける数値設定はしていると言われるかもしれない。しかし、その数字をよく見て欲しい。危機的状態を想定して設定したものではなく、その時点の数値を基準に、少し増やしたところの数字設定をしているに過ぎない。経営を少しでもかじった人ならお分かりだろうが、客観的理由のある目標数値設定ではなく、現状からの見えている範囲で積み上げた数値を目標にしてはならないのである。

 では、本来ステージ4などの危機的状態の数値をどう定めるべきか。現状ありきではダメで、諸外国の危機的状態から導いた数値設定にするべきなのだ。勿論、そこまでは行きたくない方針の元、諸外国の状況の半分や3割減などに設定すればよい。現状からすれば、遥かに余裕のある数値となるが、危機との差はそれだけ余裕があると言う現実を理解するために必要な数値なのだ。それでは、その前に医療体制が崩壊するというのなら、崩壊しないぎりぎりはどういう数値になるのか、を基準にしても良い。病床数、医師数は諸外国と比較して最優良なポジションを示す医療先進国である日本が、本当にどういう数値で医療崩壊が起きるのか、そこを数値設定すればよいのだ。

 医療崩壊、逼迫していると危機感を煽る。事実、医療の現場は大変だろう。箱モノを整えても、対応できる人間の数が少ないと専門家は言う。だから、現時点で既に医療崩壊なのだと。

 100歩譲って、今の状態で医療崩壊ということを認めてみよう。それは諸外国と比較して医療後進国、脆弱な体制である証になるだけなのだ。その事実に、真摯に向き合って、強化対策を計画するのは政府ではなく、医療業界の務めではないのだろうか。これは強力な皮肉だが。

 今、医療崩壊を防ぐ方法は簡単だ。大阪の様に、専門病院を作る事。そして、そこの医師や看護師を調達する強制力を政治が持つことだろう。任意で希望者を集めようと言う通常時の考え方では無理なのは当たり前で、危機管理状態であれば、危機対応に相応しい強制力が必要なだけだ。絶対数は不足していないのだから全体としては賄えるはずだ。現状ある病院の病床を少しずつ、コロナに割り当てて確保するのでは簡単に崩壊するのは当たり前だ。

 もう一つの方策は、高齢の入院患者、要介護状態の患者の介護を担当する介護師も雇用することだ。医療の聖域として、看護師が介護まで担当する様では、看護師の負荷が膨大に増えるだけでなく、サービス面の不備にもつながる。これは実は重要なポイントでもある。

 医療崩壊だ、とメディアで吹聴するのではなく、この様な対応をすればここまでキャパを拡大できると提案する役割を担うのが専門家ではないのか。他責を追求する前に、自責の範囲を全うする、或いは更に前向きに提案することが経営視点では生き残りの条件なのだから。

シブコ残念無念、だが来年リベンジを確信できるメンタル

 渋野日向子選手の戦いが終わった。全米オープン、メジャーの3日半、守り続けた首位を4日目に明け渡しての単独4位。単独4位は素直に称賛に値するし、やはり海外で勝負できて勝てる可能性を持っているナンバーワンがシブコだ!と知らしめてくれた。それでも悔しい、この悔しさは来年の五輪、そして海外メジャーの舞台で晴らしてくれると信じている。

 最終日、それまでと違い寒いということが、画面から伝わって来た。まず、意味不明なほど距離が出ていなかった。悪天候を考慮して、ティーを前に出し、全長400ヤードほど短くしているのに、ハイブリッドを使う率が極めて高かった。止めにくい厳しいグリーン、ピン位置が更に止めにくく、見ていても攻めきれる気がしない状態に感じた。そして、寒さだけでなく、緊張も併せて振れていないとしか思えないミスが連発していた。抜けない芝に突っかかり、かと言えば開いてしまい、トップもし、我々から見てもこれでは安定できないと感じざるを得ない状態だった。スマイルもいつもの心底から出てくるスマイルではなく、どこか無理したスマイルだった。

 その中でも5番ロングのサードショットは、本音を言うと打った瞬間、テレビの前で『あっ』と声が出るほどで、終わったとさえ感じさせられた。

 しかし、その状態で1日5ボギーに抑えたのは、逆に凄いと言っていいだろう。特に5番のグリーン奥からのアプローチは圧巻だった。ベアグランドから打ち上げ、球を上げて寄せる。しかも、一筋ズレていれば入っていてもおかしくなかった。あれは、ヘッドの入る位置がほんの1mmズレても、あれだけうまく打てない。随所に、凄まじい執念の粘りが見ることが出来て、寝不足でも眠たさを感じる暇がなく、息も出来ないぐらいの重たい雰囲気で最後の最後まで粘ってくれた。

 流れがあれば、あの粘りのアプローチのいくつかが、一筋ズレてカップに吸い込まれてもおかしくない。そうすれば、空気はかなり軽くなっていただろうが、流れも味方をしなかった。厳しい世界である。

 上がり3ホールを残し、2打差で可能性を残し、17番のバーディーパットをショートしてしまった時点で、気持ちが切り換えられていないというか、自分を責めていると言うか、パーパットが入る精神状態には見えなかった。そして結果はボギーで終戦。

 しかし、18番のバーディーパットは、勝負がついた後、全てのプレッシャーから解放された様に見事ロングパットを沈めてくれた。もう、ファンとしては、このパットを最後に見せてもらえただけで今日のところは充分満足。悔しいが、絶対次にはやってくれると確信できるからだ。

 感情をコントロールすることで、1打・2打を稼ぎ出す、そんなシブコを見せてもらえた。賛否両論あるだろうし、事の是非は分からないが、私の感覚的には、感情をコントロールする事を覚えた状態で、もう一度感情を表に出す様にすれば、無敵ではないだろうか。感情をコントロールするのは正直しんどい筈だ。それが4日間だけでなく、1年間、この先の選手生活と考えた時に、個人の適正であれば問題ないだろうが、シブコは違う様な気がする。

 確かに、若さに任せて、感情を出すだけでは、ムラが出て、大きな勝負には勝てなくなっていくだろう。しかし、シブコの本質は、スマイルシンデレラなのだ、それで大舞台を勝ち切った。更なるレベルアップのために感情のコントロールをこの1年間訓練出来た。この出し入れが出来る様になれば、無敵のスマイルシンデレラとなってくれるだろう。

そういう観点の、メンタルトレーナーは付いているのだろうか?

民主主義の恐怖政治 情報を制する者が民衆を扇動する最強権力を行使 結果としてGoToが生贄に

 菅政権の支持率が大幅に低下してきた。ここ最近の新型コロナ感染拡大第3波に対しての対応で指示率が落ちていると見るべきだろう。しかし、この構造自体は、良い言い方をすればポピュリズム、悪い言い方をすれば民衆の有無を言わさない暴力的な力であり、その方向性に空気感を導くメディア、特に電波系メディアの責任を問わざるを得ない印象を拭えない。このラインより上のエリアが無料で表示されます。

 感染症の流行自体は、政府の責任ではなく、自然災害と言っても良いが、人は自分達が被害を受けると精神的に他責要因を求めるのが人の性である。連日連夜、テレビのスイッチを付けると、感染者数過去最高、死者数過去最高、医療崩壊、命の選択が目の鼻の先と言われ続け、ウィルスに責任を問えない状態で、政府には明確な姿勢を取って欲しい、強力な感染症対策が必要だ、政府のメッセージが足りないと耳に入り続けると、大なり小なり影響を受け、政府への批判意見が増えるのは当たり前だ。

 耳に入る情報が偏っていることに気付く人は、ほんの一部だろう。大多数は、矛盾に気付かず、妄信して、心配になる。人の気持ちを誘導するために一番手軽な方法が、人を不安に陥れることだ。心配だったら、少し調べれば多種多様な情報が存在することは直ぐに分かる。その時点で、電波系メディアが伝える情報が一辺倒で、他の情報が排除されている異常さに気付けるだろう。更に踏み込んで、多様な情報を文書として確認すれば、自ずと客観的な判断が出来るのだ。しかし、大多数が調べる意欲を持たず、そこに労力を使おうとしない、或いはする能力を持たないから、電波で言い続けている事を鵜呑みにしてしまう。

 ここまでコロナ一色で危機感を煽られ続け、客観的判断すら喪失させられた状態で、責任の転嫁先、所謂犯人をあてがわれると、その犯人の一挙手一投足、箸の上げ下げにすら文句を言いだす悪循環が始まる。『ガースーです』や少し前の『お家に居よう動画』など、本質的には何ら批判の対象とはなり得ない事まで、緊張感が無いなどと脊髄反射的に攻撃の対象になる暴力的な悪循環がもたらされる。

 情報とはそれ程強力な力を持っている。現代はインターネット全盛期で様々な情報との距離が近くなり、誰でも多種多様な情報を取得することが出来る。しかし、インターネットの情報の力は現時点では極めて限定的なのだ。情報を取得することが出来ると、取得するとは莫大に大きな差がある。そして、情報の威力で言うと、相変わらず電波の力がその受動的に受けてしまえるという性格上、圧倒的に強いのが実態だと再認識させられるのである。

 インターネットでの情報発信では、仲間は集まるが、全ての情報を一色に染めることは事実上不可能、大衆を扇動するのは相当困難である。それは、多様性が存在するからだが、電波は多様性のある情報の中から、極めて一部分の情報だけを、それ以外の情報は存在しないと決め込んで1色に染めることは比較的簡単なのだ。それは、多くを語る時間が無い、視聴者はそれ程根気強く見聞きしておらず、ワンセンテンスメッセージのつまみ食いで分かった気になる。従って、伝える側も、視聴率を取るためにはこの傾向に逆らわず、印象だけで感情的に訴える。これがフェイクニュースの構造であるが、最近の電波系メディアはドンドン酷くなっている様に感じるのは私だけだろうか。

 政府を攻撃する際の語り口として、説明が充分でない、施策を打ち出して欲しいという言い方をよく聞く。しかし、実際のところ、政府各所からのメッセージは多数発信されており、施策も多数実行している。そのメッセージや施策はメディアが望む通りの発信、即ち一辺倒に偏った情報を元とするものでないので、発信が無いと言う言い方になる、極めて公正さに欠ける言い方なのである。

 テレビの報道で専門家が登場するのはいつのころからだろうか。確か、湾岸戦争時期に軍事専門家と称する方々が出演して、素人に分かり易く解説することが始まったように記憶している。最近では感染症の専門家がテレビに出ない日は1日たりとも無い。そして、口を揃えて、感染拡大の危機感を語り、行動制限が感染症を抑え込む対策だと語り、マスクやソーシャルディスタンスの必要性なども語る。そして、医療崩壊の危機を語り、GoToを停止しろと、政府に対する批判まで語っている。つまり、感染が拡大し、医療崩壊に繋がり、国民を命の危険に晒しているのは政府だと言わんばかりの印象を毎日発信していれば、支持率が低下するのは当然だろう。

 さて、では現実はどうなのだろうか。その答えは、インターネットに存在する多様な情報と数字を検証すれば自ずと出てくる。

 冷静に考えて欲しい。専門家といわれる人々は、全員の意見が一致しているのだろうか。そんな訳が無いことぐらい容易に想像できるだろう。異論異説、反対意見があって議論し、自説の信ぴょう性を高めるため、研究やデータ分析を科学的に行って、進歩していくのである。電波を通じて発信されている専門家からの情報が異口同音で同じことを言っていることに不思議さと違和感を感じて欲しいのである。

 必ず反対意見は存在する。現実に、電波で言っていることに真っ向反対する専門家は多数存在する。しかし、電波では決して取り上げられないから、他に意見が無いような錯覚をしてしまう。こう言うと、公平に取り扱っていると言う反論が聞こえそうだが、趣旨と反する意見が出された瞬間に完全スルーし無視、無かったことの様に別の意見の説明を始める光景を私は幾度となく見ている。異論に対して反論すればまだましなのだ。その時点で異なる意見の存在を認めることになるからだ。だが、完全に無視をしてスルーし、発言自体を無かったことの様にするのである。その傾向の強い番組、キャスター、コメンテイターは数えたらきりがない。そういう目線で、見て頂ければある意味滑稽さすら感じてしまう筈なのだ。

 医師に対する取材でも、発言を部分的に切り取って、全く正反対の趣旨に利用され、その医師から抗議を受けた事件もあった。一応の謝罪は後日したものの、誤解を与えてしまった注意不足程度に留まっており、誤りを認めてはいなかった。無論、後日謝罪したところで、情報とは発信された時点で消せず、影響はその時点で与えるものなので、発信の何倍もの訂正と謝罪が無ければ謝罪にはならないのだ。ファクトチェックや取材相手の主張確認はメディアとしては当たり前の義務だが、どうも自分たちの大義の為には正義だと奢っている様にしか見えない。

 感染症対策は、検査をして隔離をする、行動が感染を拡大させるので行動制限が効果的な対策となるのが常識と言われている、それはその通りだろう。しかし、その根本的な意味を無視して、そう決まっていると言うのは間違いなのである。ある、条件の元に成立する話だからだが、その条件を無視しての強弁は、聞くに堪えないのだ。状況や環境条件によって実際は変わってくることも事実なのに、それらを無視しての決め込みは、極めて非科学的、感情的でしかない。

 政府は、実際に国民の命と生活を守るために、偏った意見ではなく、多様性のある意見に耳を傾け、その複雑な連立方程式とも言えよう数式の最適解を求めようと模索する責任がある。従って、ワンセンテンスで決め込んでくる説とは、意見が合わないのは至極当然であるが、どちらが、現実に対して最適なのかは自明であろう。しかし、民主主義において有権者の意見が、例え偏向情報に洗脳された結果だったとしても、意見が揃ってしまえば、ある程度納得させるための落としどころ案を創出するのが民主主義である。ある意味、最適解ではないが、間違っていようと、最適でなかろうと、苦渋の選択をせざるを得ない状態に追い込まれてしまうのだ。

 GoToを一時中止などする意思は政府には基本的にはないし、今まではなかった。その理由は明確で、GoToと感染拡大の因果関係はないからだ。感染を拡大させていないというエビデンスも無いと言うのは悪魔の証明であり、本来無理筋として論外なのだ。また、東京大学の症状の発出との関係アンケートもどう考えても結論ありきの無理筋である。緊急性があるので査読前の公表というのは、査読後であれば公表できる代物でないので査読前に公表したと考えるべきだろう。実際、GoToの人出でマクロ的に感染は拡大していないのは明らかだが、電波は認めずスルーしているだけなのだ。自分たちの主張と異なる情報や意見は無視する異常な姿勢なのだ。

 そうはいっても、ウィルスを持った人が無症状で行動し他人と接触することで、感染は広まるではないか、という人も多いだろう。確かに、その主張は正論だ。ミクロ的には何の間違いもない。但し、前提となるのは、人の行動をゼロにして接触ゼロ化出来ればその通りだろう。しかし、現実にはそれほど簡単に個を選別し行動ゼロ化を実現することは出来ないので、一般的には地域や場所を限定して、その境界を越えない隔離施策を取るのが通常である。その場合、隔離境界内は接触による感染は発生するのである。統計的には、隔離境界内は増加も減少も均一になっていくので、境界をまたいで非感染地域が存在する場合に限り、有効なのだ。逆に言うと、今の日本の様に全国に蔓延している様な状態では、行動制限は何の意味もない。いや、本当に中国が実施したような一時期完全に個の行動を強制的に制限できた場合は有効である。感染周期の期間、強制的に自由を束縛して個を隔離出来れば収束するのも当たり前である。しかし、通常の民主主義国家で語ることはできないのだ。

 実際に春の緊急事態宣言は、同様の情報偏向により世論が動かされ、その圧力で民主主義政権が追い込まれ発出せざるを得なかったのが実態だ。そして、結果の総括は行ったはずだが、その結果は曖昧にされてしまっている。それはそうだろう、緊急事態宣言は発出の必要が無かったと言うのが結論、発出時には感染は収束し始めており、発出と収束に因果関係が無いからだ。このことを誤解なく公表するのは、偏った情報との全面戦争になりかねず、混乱を更に深めるしかなくなり、敢えて公表を様子見にしているというのが本当のところかもしれない。本来は、その時点で指定感染症としての扱いを変更すれば今の医療崩壊直前状態は起こっていないだろうが、この扱い変更も大反対でとても切り出せる状態ではなかったのだから、誰の責任と言うべきだろうか。

 従って、今、GoToを中止しようが、行動制限しようが感染抑止に効果はない。一方で、行動制限に伴う生活への打撃は確実に被るので、政府としては生活を守る視点から効果もない施策を選択できるはずがないのである。補償で得られるのはその場しのぎでしかなく、充分な筈もなく、もし万が一充分であれば、事業の拡大意欲減退にも繋がりかねない最後の手段なのだ。GoToなどの景気刺激策の場合は、政府の支援と言いながら、事業拡大のカンフル剤となる投資であり、何倍もの経済効果を生み出すので、本来比較する方が間違っている。

 そうすると、何故今、感染拡大しているのか。一つには冬で寒くなり、乾燥している季節要因だとも言える。そして、何より原点に返れば感染抑止行動ニューノーマルの実行性が低下してしまっていると考える以外にないだろう。この事には対策は必要かもしれない。ドンチャン騒ぎを自制すればそれだけで大きな効果はあるだろうからだ。

 しかし、電波系の危機煽り報道のあまりの酷さにオオカミ少年状態になっている。ニューヨークの様になる、イタリアの様になる、死者何十万人、と煽り続けて、何か一つでも現実になったことがあるだろうか。来週には危機的状態になると言い続けるのには限界があり、逆効果となってしまう。
 実際数字を見ても、危機だと言う諸外国と比較して桁違いに規模は小さい。見習うべきという韓国でも感染は止まらない。検査と個に至らない隔離は効果が無いことは社会が証明している。この状態で自粛はあり得ないが、行動上の注意は喚起できる。実際、政府の発信は、マスク会食や3密、ソーシャルディスタンスを守った行動を強く託している。電波系メディアがその事を無責任と責任転嫁しているのでメッセージが弱くなってしまっているだけだ。

 素直に考えれば、感染抑止行動ニューノーマルのレベルを上げるのが最大の感染防止施策といっても過言ではないし、それ以外にないだろう。

 実は、電波系メディアもその事は理解している筈だ。行動制限を必要不可欠だとスタジオで専門家やキャスターが語っている姿を見て、今年の春と比較して違いを感じないだろうか。緊急事態宣言の総括、効果が見えない時点では、リモートを強化し、最低限の出演者に抑え、連続ドラマなどもかなりの部分が自制されていた。しかし、現在はそれ以前と比較して違いがあるとすれば、アクリル板が設置されているだけだろう。通常の飛沫飛散を考えると、それでは不十分なのだが、堂々とその状態で報道番組を放映し、他の行動は制限するべきと強弁している。
 様々な番組のご意見受付に、そこまで行動制限をうったえるのなら、まずあなた達がリモート主体にし、コメントの際にはマスクを着用しなさいと訴えているが、一切反応もなく、対応も変わらない。この程度では感染しないことは分かっている、とでも言いたいのだろうが、それなら他の感染拡大に繋がらない行動を攻撃してはならない。政府にメッセージ性を求め、GoToを生贄にしろと言うのなら、その姿勢をメディアが画面で伝えるべきだ。だが、絶対にしないだろう。自分たちの業界、タレントなど含めた関係者の損害が計り知れないからだと想像するが、それなら旅行業界、飲食業界の損害に目を向けないのは身勝手すぎる。

 日本の産業構造を変革するために、デジタルトランスフォーメーションやSDGs、アグリなど以外に注力していたのがインバウンドだ。残念ながら、インバウンドは海外交流なくして本当の拡大は困難だが、この状態なので内需でまずはイノベーションを起こす方策が目指せれば、それは大きな力になるはずだ。ピンチをチャンスに変えられるが、折角のチャンスをつぶすのも簡単なのだ。

 しかし、それでも世の中は合理的な判断が為されないのが常だ。特に民主主義国家では、情報を制する者が牛耳れるのが実態だ。それが故、電波系メディアは混乱に乗じて力を発揮し始めた。結果、政府はGoToを生贄として捧げざるを得なくなった。感染抑止効果は無いことは百も承知の上で。

 実際第3波は、12月中旬時点がピークで、ピークアウトしている。高止まりしている様に見えるかもしれないが、本来のピークは東京都で1日新規陽性者1000人を想定していた、全国規模で言うなら1日5000人規模だろう。その手前で上げ止まりしたのが実際で、そこまで上がっていないから下がっている様にも見えないピークの頭カットされた状態なのだ。年明けには一旦収束する予測だったが、春の緊急事態宣言の再現で、収束と対策に因果関係のないムダな策となってしまうだろう。私如きの予測では誰も信じないだろうが、大阪大学の専門家チームの提唱するK値でもピークアウトは検出されているのだ。しかし、メディアは決してまともに取り上げない。

 そして、情報を牛耳る権力が蔓延る状態で、我々が対抗する手段は、現代版学問のススメにあると信じて止まない。福沢諭吉先生の学問のススメは、一部誤解されていることもあるが、世の中は平等で公平と言っておらず、何故か実際は貧富の差など格差が存在し、不平等であるとし、それは学問で左右されると言っているのである、即ち、不平等な目に合わない為に、民主主義国家として自由と平等を勝ち取るために、学問をするべきだと主張している。

 現在版は、情報リテラシーを個々に高めることが自由で平等、成熟した民主主義の確立のために必要不可欠になってきた。従って、受動的な情報に流されず、能動的に情報を取得し、その多様性の中で自身の考えを作り上げていく、情報リテラシーを磨けと言いたい。