国を動かす、32県知事の要望

3月17日にGoToトラベル事業の段階的な再開に関わる国への緊急要望が32県知事より提出された。これに対して、赤羽国土交通大臣は、『再開は簡単ではない』として、当面再開は出来ないとしたが、32知事の訴えは、一定のメッセージとして届いたのではないだろうか。その要望の要旨を抜粋すると、

・感染状況が落ち着いている地域では、独自に宿泊割引等の観光需要の喚起を行っているところであるが、これまでにクラスターが発生したとの報告はない。

 ⇒宿泊等の観光事業喚起と感染拡大には相関関係が無い事実を語る

・地域の観光需要喚起に有効な「GoToトラベル事業」の早急な再開

 ⇒地方の観光需要喚起(GoToトラベル再開)を要望

・まずは感染状況が落ち着いている県単位で早急に「GoToトラベル事業」を再開

 ⇒方法論として、具体的にリスクの低い所から徐々に再開を提案

・観光関連事業者の経営は極めて深刻な状況にあり、回復には相当の期間を要する。

 ⇒地方経済の根幹を支える事業の困窮を説明

・また、段階的に対象エリアを広げた場合、地域間に不公平が生じるおそれがある

・6月末とされている「GoToトラベル事業」の実施期間を大幅に延長する

 ⇒徐々に再開した場合のリスクを提示し、解消策まで提案

前向きな提案実施で、要望そのものは却下されたものの、観光事業者への支援策の検討を急ぐという約束を勝ち取った。

ビジネスの世界でも参考に出来る、上手いやり方だろう。あくまで前向きな提案、そして、想定リスクに対しても具体的に打つ手の可能性まで用意しているのが、相手を説得し、動かせた成功要因だろう。

ところで、32知事という事は、全知事ではないのだが、どういうメンバー構成なのだろうか調べてみると、頷く点と、驚く点の両面があった。

頷く点は、外れた都道府県だ。当然だろうが、現時点で緊急事態宣言中の1都3県含め、解除されたとはいえ緊急事態宣言の対象となっていた、東京・神奈川・埼玉・千葉・栃木・愛知・岐阜・大阪・兵庫・京都・福岡の11都府県。まだその時期ではないだろうという判断は理解できる。加えて、北海道・沖縄も現時点の感染状況、今までの感染拡大経験を踏まえて慎重になるのも分かる。

驚いたのは、宮城県だ。GoToイート再開の影響だろうか、感染拡大状況にあり、独自の緊急事態宣言を出さざるを得ない状況だが、32県に名を連ねているのだ。確かに、GoToトラベルは感染拡大との因果関係は無く、GoToイートは確証までは無くとも因果関係はありそうな状況で、GoToイートは止めて、GoToトラベルを再開と言う、極めて合理的な判断とも言えるが、県民感情的に大丈夫なのだろうか、と心配になる。

そして最後に意味不明が、名を連ねなかった、島根・徳島の2県。両県とも、感染状況は落ち着いていて、地域経済も疲弊しているだろう。島根県は、聖火リレーボイコット、五輪反対まで持ち出して、地域経済支援を要望していたはずだ。地域選出の国会議員に窘められても政府に反旗を翻した形になっているが、それでは結果を引き出すのは難しいだろう。徳島はなぜなのだろうか、聞こえてきていない。

32知事が勝ち取った支援は全地域に対して差の無いものにはなるだろう。しかし、人が動かす組織である限り、何らかの心情面が目に見えない形で差となる事もあり得る事を認識しているのだろうか。それをカバーする別の動きはあるのだろうか。

コロナ禍で進展するDX(デジタルトランスフォーメーション)、活かすも殺すも日本人のマインド改革がポイント

<日本社会はデジタル化後進国である>

日本のデジタル化が遅れている事は、昨年からのコロナ禍で誰の目からも明らかになった。

ナショナルID(※1)は先進国で普及できていないのは今や日本ぐらいだ。日本も今まで複数回トライし頓挫してきた。現在ラストチャンスとしてマイナンバー利活用を目指しているが道半ばである。

感染者数などのトレーサビリティも未だ不充分で、FAX手入力が残存し、データのリアルタイム性や正確性に課題を残している。

スピードが要求される環境下でも、未だに重厚長大なウォーターフォール式開発の発想が捨てきれず、要求品質とスケジュール感がアンマッチした様なシステムトラブル(COCOA等)が増えている。

振り返ってみると日本では、『ものづくり』で最先端を行き『ジャパンASナンバー1』と言われた時代以降、バブルが崩壊し、ロスジェネ時代を経ている内に、諸外国のデジタル化の進展に取り残されてしまい、生産性も低い国になってしまっているのが現実だ。

かつては、グローバル企業として多くの日本企業が君臨してきたが、今や日本企業の影すら見えないのが実態だ。

<コロナ禍は、デジタル化推進の絶好機>

一方で昨年からのコロナ禍の影響で、否応なくデジタル化は進んでいるのも事実だ。数年前から課題となっていた『働き方改革』の一つの回答になる様に、リモート業務が急増している。

筆者自身、多くの移動を伴う業務都合から、移動時の効率を考えたサテライト業務など、予てからリモート対応が日常的であったので、移動が激減しただけだが、多くの人には、根本的な仕事の有り方すら考える変化があっただろう。

この変化がもたらしたものは、『物理的距離の短縮』『物理空間の狭小化』なのだ。

歴史を振り返ってみると、16世紀のマゼランに始まる大航海時代、18世紀の蒸気機関発明による欧米の世界進出、20世紀後半のインターネット普及など、物理的距離を縮める事で、世の中に大きな変革をもたらしている。

21世紀の今、AIや5G、ブロックチェーン(※2)、その先の量子コンピューティング(※3)などの影響は計り知れなく、所謂DX(デジタルトランスフォーメーション)(※4)が時代の潮流になる事は間違いない。

例えば、都心一極集中は必要なくなるのだ。日本国中、どこにいても、仕事の効率が変わらなくなり、場所の概念が無意味になり、移動ロスが極小化する。結果として生まれる時間が更なる消費を拡大する。

その昔、グローバル化が叫ばれた当初、『グローカル(※5)と言う名で地域活性化、地方のグローバル参画の戦略性が語られたが、産地直送程度と成果は限定的だった。今回のDXは、それこそ地方にとっては千載一遇のチャンス、ものづくり企業にとっても新たなイノベーションを生み出す絶好のチャンスなのだ。

そう、DXとは決してデジタルだけで成立するものではなく、デジタルとアナログの融合、バーチャルとリアルの接点にこそ本当の活路が見出せるのだ。地域特性も活かしながら、ものづくりのノウハウを活用し、デジタルを利活用する事が、新たな価値を生み出し、生産性を向上させるのだ。

<日本社会に根強く巣くう課題>

但し、日本がこれまでデジタル化に関して後れを取った反省に立脚しないと、このチャンスは掴めないだろう。では、何故デジタル化は遅れてしまったのか、考察してみたい。

一番大きな原因は、デジタル化しなくても困っていない、裕福で満足しているからだろう。

デジタル化で大きな進歩を遂げた代表格は、エストニア、東南アジア、韓国などだが、これらの国は、デジタル化は国家存続の至上命題の様に、国家も国民も志向し取り組んだのだ。社会システム自体が成熟しておらず、殆ど白地からのデジタルインフラ構築、国家の命運をかけた取り組みだったのだ。

片や日本の場合、既に存在する重厚長大なレガシーと言われるインフラが存在し、まがりなりにも機能しているので、敢えて載せ替えるモチベーションが産まれ難いのだ。

そして、何といっても大きいのが、ゼロリスク信仰の強さではないだろうか。

日本人の行動心理を諸外国と比較する際に、昔からよく使われた例えに、コップ半分の水をどう考えるかがある。日本人の傾向として、コップ半分の水に対して『あと半分しかない』『もう半分だ』と危機感を募らせ、後ろ向きになり、守りに入りがちだ。しかし、グローバル標準は、『まだ半分も残っている』なのだ。この差による結果は、天と地ほど異なる事は、自明だろう。

例えば、ナショナルIDだが、間違いなく個人情報のリスクを過大評価し、適切なセキュリティ対策にも非論理的に耳を貸さず、ゼロリスクを盾に前に進む事を拒み続けている。

個人情報管理は元来、欧州の人権問題意識から発し、OECD8原則(※6)の元、様々な制度と対策を構築し、現在ではGDPR(※7)と言う保護規則を定め、欧州域内のリスク管理体制が確立されている。知っておいて欲しいのは、日本も安倍政権時に、このGDPRの十分性認定(※8)を受け、国際的には個人情報管理体制の確立は認められている。しかし、未だに『マイナンバーカードを落としたらどうするんだ』と無知な質問が繰り返されている。

また、システムは絶対でなければならないと言う、古い信仰が、スピード優先し、試用しながら柔軟に仕様変更するべき事案に対しても、リスクゼロ化を求めるという根本的矛盾による無理がCOCOAの様なトラブルを招いている。

<今こそチャンスを活かすべき>

首都圏で進展するDXは、所詮申し訳程度で最低限に留まる可能性が高い。『物理的距離の短縮』の御利益を得るのは、首都圏ではなく地方である。地方は創生の為に、必要に迫られる環境ではないのだろうか。

例えば、東京五輪と言いながら聖火リレーは全国規模のイベントだ。人が集まるのを恐怖と感じるのなら、バーチャルも並行すればよい。海外からの観客を受け入れないのであれば、その代わりに、バーチャルでご当地を走ってもらうのはどうだろう。リアルの走者の横をバーチャルの走者が走る。アバターでも良い、障碍者でも元気に走れる、パフォーマンスを披露してもらっても良い。全世界参加型の聖火リレーなんて、今までにない概念、大会の一体感を演出できるのではないだろうか。

当然、その中にご当地名産や観光スポットなどの紹介も織り交ぜれば絶大なる宣伝にもなる。新たなビジネスチャンスにも繋がるだろう。

3月25日にその様なシステムは間に合わないだろうが、それでも良い。当初はリアル中心になりながら、アジャイル開発でバーチャルを徐々に組み込み、改善しながら、進化する聖火リレーとして演出すれば良い。当然ながら、開会式や閉会式も同様だろう。

五輪以外にも、ものづくり企業、中小企業は事業拡大、生産性向上の好機である事は間違いない。無限の可能性がある。

この好機をつかむポイントは、『まだコップの水は半分もある』という、ポジティブなエネルギーなのである。

※1;ナショナルID;国民を確実に認識し、国民であることを確認できるデータベースシステム、国民に対して公. 正で公平な行政サービスが実施できる。

※2;ブロックチェーン;分散型台帳とも呼ばれ、高度なセキュリティ要求に対応する基盤技術

※3;量子コンピューティング;従来の0or1判定に加え、3段階にすることで、計算速度が飛躍的に向上する技術、スパコンで1万年かかる計算が数分で可能になる。

※4;DX(デジタルトランスフォーメーション);デジタル技術による業務やビジネスの変革

※5;グローカル;地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方

※6;OECD8原則;個人情報保護の共通した基本原則、1980年に採択され、現在もグローバル・スタンダードである

※7;GDPR;EU一般データ保護規則。EU域外でも広く影響ある、個人情報保護の規則

※8;十分性認定;EU域外の国や地域の個人情報保護が水準を満たしていることを欧州委員会が審査認定する。EU圏とのビジネス交流には必要不可欠である。

Noの論理よりYesの発想

<現状認識>

昨年からのコロナ禍で、朝・昼のワイドショーにおける『Noの論理』のオンパレードが、在宅勤務が中心になり否応なく耳に入ってきた。

朝から晩まで、徹底的に流される偏向情報に多くの国民がサブリミナル効果を受けているのか、余りにも感情的な言動も多く聞こえてくる。他の意見や現実に出ているデータすら見ざる聞かざるで、陰謀論まで展開し、自己の主張を絶対正義と押し付け、異論には暴力的に誹謗中傷まで展開する。両論あるのに、持論に決まっていると非科学的に断定し、両極端に分断が進行している。

元々、日本人は、コップ半分の水を『もう半分しか残っていない』と直ぐに悲観的になって守りに入りがちだ。グローバル標準は『まだ半分もある』と前向きに、半分の資源を使って次の打開策を進める。外圧や上からの指示には、Noと言えない日本人だが、じゃあやってみろと言われても、後ろ向きで自らは踏み出せない傾向がある。

この様な状態でもパレートの法則に則り、前向きな少数が全体を牽引出来ていれば良いが、後ろ向きでマジョリティが形成されてしまうと話が異なってくる。どうも最近の世論形成は、『Noの論理』に支配され、所謂悪しきポピュリズムを生み出す方向に舵を切っている様に感じる。

この事態を目の当たりにし、このままではとんでもないことが起きる。自分に何が出来るだろうかと考えさせられ、偶々、定年に向けてカウントダウン、第二の人生を本気で考える段階でもあり、一念発起、個人事業としてLogINラボ(屋号)を立ち上げ、一石を投じたいと考えた。まだ、この先何が出来るかは、暗中模索状態ではあるが、何か役に立てはしないかと日々考えている。

<回顧録>

思えば、私の人生は波乱万丈と言っていいだろう。『Yesの発想』なくして今の状態はなく、『Noの論理』に絡めとられたら、前進は出来なかっただろう。小学生まで身体が弱く虐められていた少年が、小中高と体育会系でトップとは言わないが、一端のアスリートには成長できた。進路指導の先生に100%不可能と言われた受験を成功させた。社会人になってからも、結果を妥協無く追求する事で、多くの敵を作りつつ、修羅場を乗り越え、成果も人一倍出してきたと自負している。Noという選択肢を持たず、否、歯を食いしばり常にYesと前を向いて、多くの火中の栗を拾ってきた。

新会社の代表職、伸び悩む新事業の製造部門長、日本中物資不足・サプライチェーンが破綻した東日本大震災時の調達部門長、国家の威信をかけた最後のチャンスである国家プロジェクトの受注生産部門のトップ、など、どれも修羅場であった。『Noの論理』に絡めとられる反対勢力と対峙し、組織を活性化し、一定の成果を挙げてきた。

<『Yesの発想』は最も楽な道の選択>

人は精神的に弱い動物で、危機を感じると守りに入る。守りに入った時に、次の前進を前提にすればまだ良いが、前進しない自分を正当化し、後ろめたさを覆い隠すための論理武装を始める。そして、いつしか、当初正当化した後ろめたさを忘却し、前進しない事が正義と本気で信じる様に変化していく。この負のスパイラルは質が悪く、本人は正義だと信じて疑わない。

そして、負のスパイラルは人に伝搬しやすい。脱出しようとする者には同調圧力をかけて、時には暴力的に反対行動を起こす。正義の名のもとに。どこかで、このスパイラルを打ち破り、前進に転ずる事が出来れば、結果は天と地ほど違ってくるのだが、そう容易くない。

私の経験から言おう。『Yesの発想』で前進する事は、一見難しく感じるかもしれないが、一旦ポジティブチェンジが出来れば、実はネガティブ状態より遥かに気分は楽になる。確かに責任は重くなるが、失敗したところで命までは取られないし、皆がNoであれば、失敗してもNoの状態のまま、失敗しても当たり前、マイナスは無い。一方、Yesに転じる事が出来れば大きな成功の果実が得られる。実は、負けて当たり前の状態は、それ以上悪くなることが無い、気楽な状態なのだ。

今、世の中がネガティブに染まり、『Noの論理』が跋扈する状況で、一人でも多くの人が負のスパイラルを断ち切る事が出来れば、日本は凄まじい発展を遂げる事が出来るはずだが、その為に必要な要素は何だろう。それは、そこいら中に転がっているオープンデータを元にして統計データ分析をベースとした、ロジカルシンキングによる真理の追及だと確信している。

<世の中に前向きな成果をもたらす>

真理は一つしかない。しかし、真理には人間如きがそう簡単に到達出来ない。だから、『Noの論理』を入り込ませる隙が出来る。しかし、『Noの論理』には必ず論理破綻、論理矛盾が内在する。それは、真理追及が目的ではなく、Noと結論する事が目的なので、論理がご都合主義に侵されるからだ。

『Yesの発想』も決して傲慢になってはならない。真理は一つでも、そこに至るプロセスには多種多様であり、考察の方向性も様々なのだ。決して、自身の分析・検討のプロセスは唯一絶対ではないことも知らねばならない。100人いれば、100の考え方がある。思想信条は人の数だけあり、それぞれに異なり、尊重されるべき。多様性に寛容である必要がある。

しかし、その100種類の考えから、前向きな『Yesの発想』を活かし、最大公約数を目指せば、大きな勢力となり成果に繋がることは間違いない。異なる意見にも耳を傾け、尊重しつつ、最善と思える意見を示し、粘り強く説得し続ける。継続に不可欠なのが、ぶれない論理性だろう。

『Noの論理』を振りかざし、ポピュリズム手法で、『煽り』『脅し』で扇動する方が簡単で多くの信任を得られるかもしれないが、それでは長続きしないだろうし、結果は悲劇的である可能性が高い。地道で粘り強い『Yesの発想』の追及と普及は、一朝一夕には拡大しないが、一旦定着すれば、根強く正のスパイラルアップを生み出し、大きな力に必ず成長していける。

『Yesの発想』を持ち続け、真理に近づく論理を軸に、小さな一石を投じる事が出来れば、この先の人生も充実できるだろうし、必ず前向きな成果を世の中にもたらすこともできるだろう。

事業継続計画(BCP)の対応を怠っていた医療福祉業界の実態

東日本大震災などの大規模自然災害を受け事業継続計画(BCP)の必要性が再認識された。特に日本は欧米先進国と比較して、このBCP、更にはマネジメントにまで発展させたBCMの取り組みが東日本大震災当時は遅れていて、対応が後手後手となりサプライチェーンなど様々な脆弱性が露呈した。

多くの方は記憶にあるだろうが、震災直後、製紙工場の被災により新聞のページ数が減少し、石油化学コンビナートの被災により、カラー刷りが無くなった。私自身、何の因果か、その時は調達部門の責任者だったため、全国の工場に対して生産材料の欠乏無き様、統制管理を実施、東奔西走の毎日で事業継続の必要性を肌で感じている。また、その直後タイの洪水により、ハイテク部材の日本への供給が逼迫する状況が発生した時も同様だった。

これらの事案は、日本企業の経営課題として事業継続の重要性を突き付け、2重調達や従業員が通勤できない状態の対応策等、各社相応の企業努力を実行している。その想定事案として、基本は大規模震災であったが、パンデミックも想定すべきとの議論も盛んに行われていた。今回、急な在宅勤務によるリモート対応などの対応がスムーズにできた企業は、これらの対策が出来ていたからだ。

企業の経営課題は即ち日本としての国家課題でもあり、政府としても国土強靭化を目的として、平成28年にガイドラインを制定し、『レジリエンス認証』という認証制度を創設している。次に示す表は、内閣官房国土強靭化推進室が公表している、認証取得の業界別の団体数である。

この認証制度は2年更新であり、年3回の更新機会を設けているので、過去6回分の審査における新規と更新の団体数が全認証団体数となり、現在207団体認定取得している。その全体の半分以上が製造業と建設業で占めているのが表から分かる。確かに、サプライチェーンという課題に対して直接向き合う必要性から頷ける数字だが、それとは別に、目を疑うのが医療福祉分野の認定取得がたったの7団体、認証全体の3.4%に留まっていることだ。

本来、医療福祉業の事業継続は国民の生命・健康に関わる為、優先順位は高い筈なのだ。実際に、内閣官房国土強靭化推進室として、事業継続シンポジウムと銘打って、全国キャラバン方式で『医療・福祉分野の事業継続』を開催し拡大強化を目指している。そこまでやっても、賛同し認証取得に至っている医療福祉の団体が、たったの7団体なのだ。

認証取得が全てではない。認証取得してもISOの様に、形だけで運用が形骸化してしまう問題点も指摘されている。認証取得しなくても、運用さえ確実に行えば問題ない。しかし、今回のパンデミックに対する医療業界の対応を見ている限り、そもそも事業継続に関心すらなかった、自分事としては考えていなかった、内閣官房から言われても馬耳東風だった、と言わざるを得ないのだ。何故なら、ガイドラインを少しでも認識していたら対応は変わっていたと思えるのである。では、簡単にガイドラインを確認しておきたい。

まず目的に記載されている文言からいくつか抜粋する。

『大規模自然災害等への備えを最悪の事態を念頭に置きつつ、平時から様々な政策分野での取組を通じ、いわば「国家百年の国づくり」として行う』

『いかなる事態が発生しても機能不全に陥らない経済社会システムを確保しておく』

国や地方公共団体のみならず、経済社会活動の担い手である民間事業者の普段からの取組・活動が極めて重要となる』

『民間事業者の行う国土強靱化のための努力には、自己の事業継続に関するものと社会貢献としてのものとが考えられる』

次に具体的な基準だが、大きく2項目あり、『事業継続関係』と『社会貢献関係』から成立しており、前者は自助、後者は共助として定義されている。

『事業継続関係』には、簡単に言うと、方針の策定、分析・検討、対策の検討・決定、計画の策定、見直し改善の仕組み、事前対策の実施、定期的教育訓練、経験者・知見者の担当、法令順守と詳細項目が定義されている。

『社会貢献関係』には、社会貢献の定義、社会貢献実績、従業員の社会貢献支援と実績、他の社会貢献実施と定義されている。

どうだろう、医療業界がこの活動に積極的に関わっていれば、現在の医療崩壊はあり得なかったのではないだろうか。その様な活動を政府は目指していたのである。そして欧米先進諸国は、日本よりはるかに事業継続計画に関しては民間にも浸透していることが、あれだけ感染拡大してパニック状態でも医療崩壊にはなっていない一因でもあるのだ。

日本は政府の指導力が弱いとメディアは言いそうだが、それは筋が違う。あくまで、自らの意識向上による優先順位の高い経営課題と認識し、自助・共助を明確に意識した地に足の着いた活動を平時から行う必要があり、業界団体として横連携も含めた強化活動が不可欠なのだ。

今年は勝負の年だ、誓いの2021元旦

 一昨年の『凶』、昨年の『吉』から、今年は『大吉』と大躍進、大きな運気サイクルとも一致し今年は花咲き、その後の基盤となる基礎固めが確実に出来る年となると確信しております。ここ暫くの低迷状態から確実に脱し、大きな飛躍を目指します。

 今年の初詣は、コロナ禍の影響を受け、緊急事態宣言でも発出されそうな状態で、人出は例年よりも大きく減少。車での道のり、駐車場もがらがら、出店も例年の半分以下だろうか、寂しい限りだが、これなら密にはなり得ない環境での初詣であった。

 多くの人に、『今年は大変だ』『この感染状況はどうすれば』、と言われ、その都度確認したが、何を持って大変と言っているのか、全く説明不明、意味不明の、感情的、感覚的訴えが全てであった。私としては、それこそが大変な事だと、心配になって仕方がない。

 多くの人が死んでいる、新型コロナに感染している、重症者が増えている、急変で突然死までしていて不安だ、医療崩壊で通常診療が出来なくなる、などなど。しかし、これらは絶対評価できるものではなく、比較による相対評価しなければ本来何も分からない事ばかりなのに、毎日テレビで危機感を煽られ続けて感覚がおかしくなっている。

 交通事故は多数発生しているが、その多くは怪我もなく車の破損も軽症。時々発生する悲惨な事故を連日報道し、防ぎようのない逆行での正面衝突や暴走して歩道に乗り上げ多くの死傷者を発声させてしまう事故の危機を煽り、事故を防ぎ、身を守るためには不要不急の車両使用を自粛、歩道を歩くのも危険なので外出自粛、緊急事態宣言とは決してならない。比較して何が違うのだろう。

 いやいや、交通事故とは違うよ。という人は、今シーズンの気管系疾患、感染症の感染や死傷者と比較してどうなのか知っているのだろうか。

 東京都の1日1300人は過去最高を大きく上回る危機状態だと言う人は、1日10万人になったらどういうのだろうか。他国の危機的状況と比較すれば、これぐらいの数字の差があるのに、何故危機と言うのだろうか。

 テレビで政府を批判する際に使われる、危機管理の常道として最悪の事態を想定した対応が必要だと。そのこと自体は、大きな誤謬性を含んでいるが、そのことは置いておくとして、最悪の事態を想定するのなら、新規感染者数は、1日10万人規模の想定が必要不可欠だろう。その想定からすると、遥かに低い数字なので慌てる必要は無いはずだ。

 危機管理状態を示す数値的指標を明確にする必要性を訴えているが、その際に、1日10万位規模になればステージ4だと設定して納得が得られるだろうか。現状の数字から、少し上積みした数字を設定して納得を得ている状態だが、それでは本当の意味での危機対応ではないのは、冷静に考えれば分かるはずだ。

 医療崩壊の重症者病床数も同様だ。用意していた病床数の70%、80%というが、1日10万人規模の新規感染者の場合に必要となる重症病床数ではない母数に近づいたとしても、母数を増やせば良いだけなのだ。

 今の感染者程度で医療崩壊する訳は無い。もし、この状態で医療崩壊するのであれば、医療業界の構造改革、経営の刷新、統制管理が必要不可欠であり、その為の法改正、現業界のトップ層は総退陣が必要不可欠だろう。

 はっきり言って、新型コロナの感染力は高いだろうが、毒性は高くなく、死ぬ病気ではない。確かに不幸の死を遂げる事例の報告はあるが、インフルエンザでも同様に休止の例は多数存在する。その比較による説明もなく、一方的な話で危機を煽るのは、それ自体が既におかしい。風邪は万病の元とはよく言ったものだ。

 新型コロナ感染症は、病気だから怖くないと言うと嘘になる。感染力も高いので、基本的に市中にウイルスが常在している前提で行動しなければならない。でも、ウイルス常在状態でも必ず感染する訳ではない事は、風邪でも周知のはずだ。不摂生で初期免疫力が低下して初めて風邪をひくのだ。であれば、新型コロナも同様、風邪を絶対にひかない様に、養生すれば自身の感染は相当レベルで抑えられる。同時に、自分がウイルスを保有している全体で、他人にうつさない様に行動する。それで全てであり、それ以上でも以下でもない。

 利権があるのか既得権益構造なのかは明確ではないが、少なくとも言えるのは、人の気持ちというのは、危機を煽ることで簡単に導けるという社会実験となってしまっていることだ。それこそ社会的脆弱性が露呈しているのである。

 少し、立ち止まって、冷静に思考回路を働かせる事さえ出来れば、この様な事態には決してならない。私は、それは情報リテラシーを高める必要があると考えており、その為に必要な要素は、モチベーション力であり、胆力であろう。しっかりと、人の話に耳を傾け、自分の思い込みに固執し異なる意見を聞かずに批判、或いは面倒臭がって無視、何ら思考回路を働かせない悪癖を断つ。その為に、活字をしっかりと読み、反対意見に対しても自身の意見をまとまって語り、議論が出来るようになる。これは、新型コロナに限った話ではなく、全てに通じる事象であり、DXや環境問題など社会問題への適合が要求される激動の社会環境で必要不可欠な人財力なのである。

 その様な問題意識を持ち、社会貢献が少しでも出来るように、ジュニア層や日本の産業の中核を担う中小企業の支援を想定し、昨年活動し始めた。その活動の本格的基盤作り、土壌を構築し、軌道に乗せる、勝負の年としたい。

人財育成の入り口、現代の課題

 最近よく感じるが、活字を読む習慣が現代人に不足している。世の中が大衆迎合にシフトし、分かり易いワンセンテンスで語る傾向が強まると、しっかりと文脈を読む、分析力が衰えていく、鶏が先か卵が先か、は不明だが、その傾向の強さは間違いなくある。朝のワイドショーでは、時のニュースをそこが知りたいと、もっと分かり易いメッセージが政府に欲しい、国民に声が届かないとか言い続けて視聴率が高まっている様だが、私なんかは、知りたければ自分で調べれば良いだろう、政府は説明しているけど聞いていないの?ちゃんと聞いてから反論すれば?と感じるのだ。結局放送内で知りたいことは論理的に解説していないで不安だけ煽っているのだ。

 情報とは、それ程簡単に表現できるものではなく、丁寧に記述し、筋に沿った説明を要するものだ。数字も同じで、読み取る力があれば様々な情報を検知できる。聞き手側に読み取る力が必要になるのだ。発信側は、正確な情報を伝達しようとすれば、ワンセンテンスでは不足し、文脈での伝達が必要になる。出来るだけ分かり易く図やグラフで表現しようとも、文章での伝達は避けられない。従って、情報を受け取り、自分の情報力とする為には、読解力が必要不可欠なのだ。

 しかし、残念ながら多くの人は文章を読まなくなっている。読まないから読解力も衰えていき、論理思考力は尚更なのだ。そして、都合の悪い話には耳を塞ぎ、自分勝手なストーリーを自分の世界だけで作り上げる、悪循環なのだ。文章を読むには一定の胆力が必要だが、その胆力が衰えているのが文章を読めない主要因と考えている。電波やインターネットの動画で受動的に入ってくる情報、それがワンセンテンスに偏っていればいる程、分かり易いので、能動的な情報取得思考、胆力が衰えている。

 小さな子供には最初はこの胆力が備わっていない。集中力と言い換えてもいいが、10分と同じことに集中できないのが、成長と共に徐々に集中力が備わっていく。多くの子供が経験する受験勉強は、その胆力育成の重要なトレーニングとなる。従って、素頭の良い悪いではなく、受験勉強という嫌なことでも頑張ってやり続ける行為で個々人の差が表れる。良い学校に合格したかどうかではなく、自分の学力を伸ばせたかどうか、やるべき時にやるべき事をやることが出来たかで差が出る。

 この胆力、集中力はどうやって育成することが出来るのか。そもそも、精神面だけではなく、体力も必要不可欠なのだ。頑張ろうとしたときに、身体がいうことを聞かなければ話にならないからだ。無理が効く心身、いざという時に、やり通す力だからだ。

 小学生に陸上競技の指導をしている時に感じるのが、彼らは楽しくなければ我慢できない。辛い練習は、心身ともついていけないのが実情だ。その状況で基礎的な運動能力と陸上競技としての競技力、続ける精神力を育成する為の、最高の練習方法が『おにごっこ』だった。

 1日の練習メニューを組み立てる時に、前半に子供たちの嫌いな技術練習を組み込む。通常だと、身が入らず、上の空で、身につかない傾向が強いのだが、練習終了後に『おにごっこ』の時間を設けると、その遊びの為に少しは我慢してくれるのだ。そして、実は前半の練習で体力の限界近くまで来ているのに、『おにごっこ』が始まった瞬間、目の色を変えて走り回ってくれる。これが実は、トレーニング効果としては有効であった。たったそれだけで、今や日本を代表するような選手と同じ舞台で戦うことが出来たのだ。決して、素質にあふれた子供達でなくとも戦えたのである。

 楽しみ、興味があればモチベーションは維持し、基礎的な練習も自分で前向きに取り組むので、成果が出るのは当たり前なのだ。要は、どうやってモチベーションを高めさせるかが全てのポイントになる。そして、スポーツでもモチベーションを高め、厳しいながらも前向きになれる力を養った人財は、他の世界でも同様に頑張れるのだ。

 子供の時代に、このモチベーション向上力を養ってこなかった人材は、大人になってからでは頑張ることがなかなかできない。でも、諦めてはいけない。確かに、子供時代よりハードルは高いかもしれないが、一時我慢して、嫌な話にも耳を傾け、自分の目で見て、考えることを心がければ、必ずモチベーション向上力は身に付き、情報リテラシーが確実に高まる。

 私の周りでも、文章を読まない人間が多い。その癖、知ったかぶりをする。知ったかぶりが出来るワンセンテンスの言葉は耳に受動的に飛び込んでくるからだ。しかし、少し議論をしようとすれば直ぐに化けの皮が剥がれる。直ぐに感情的になり、非論理的に意固地になり、そして無視してソッポを向く。ほんの少しの議論さえ出来ない、薄っぺらになってしまう。そうすると、ワイドショーの視聴率稼ぎや似非政治家による洗脳の餌食となって、それが知りたい、政府は何もやってくれない、と言い始める。

 世の中は、それでもハインリッヒの法則で回るものなのだ。つまり、ほんの一握りの人が全ての方向性を決めて周りを従える。それでも良いと言う人は仕方がないが、ならば民主主義や自由なんて語るべきではない。一人でも多くの人が、情報リテラシーを高め、モチベーションを高く維持し、反対意見があっても議論を交わし、自身の方向性を決めつつ、周りに影響力を発揮していく。そういう人財育成が本当に必要不可欠な時代環境になっていることを理解する必要があるだろう。そして、なんでもいい、活字を読む習慣を身に着けて欲しいし、自身の意見を語れるように心がけて欲しい。小さな前進が、長い時間で大きな成果となることは保証する。

現代版学問ノススメ

 福沢諭吉先生の学問ノススメ。日本人で知らない人間はいない程有名だが、ではその中身を理解している人間はどれぐらいいるのだろう。大きな誤解をしている人間が多いのではないだろうか。

有名な冒頭『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』を、平等社会を訴えた様な言い方をする人が多いのではないだろうか。その後に『といへり』となってその後に逆説的に続いているところまで理解している人が少ないのである。

逆説的に続いている部分は『されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや』なのである。つまり、万人は平等と言うが、現実社会は貧富の差、賢人と愚人など違いは確実にあるが、それは何故だろう、としているのだ。

決して平等だと言っているのではなく、平等と言われているが現実は異なるぞ!なのだ。

結論として、その差を生み出すのが学問であるとしていて、学問のススメになるのだ。学問をすることで、賢明な国民が健全な民主主義を運営できるのであり、賢明になれなければ健全な民主主義が運営できないことになる。学問は、個人が自分自身で努力すべきことであり、まさに、自助による個が自立・自律することが近代国家の最優先課題だとうったえていることになる。

どこかの政党の党首は、菅首相の国家像として示した『自助・共助・公助』に対して、自助を政府の立場で語るのは無責任だと頓珍漢な攻撃を行ったのは記憶に新しい。流石に、自助をベースとした個が成立しなければ、近代国家の自由・独立・平等が成立できず、封建的独裁国家になってしまうことは理解しているはずだが、恐らく、政府の言うことには条件反射的に反対すると言う脊髄反応を示したのだろう。末期的症状と言われても仕方がない。

それはともかく、学問のススメの時代背景は、それまでの江戸時代、武家による封建制度から、欧米の様な自由と民主主義を追随し、経済発展を目指すべく明治維新という時代変革に挑戦していた。勿論、国家としての役割、機能、制度を整えるのは絶対必要なのだが、今までの様にお上の言う通り、その範疇で実行するという国民では、大きな時代変革におけるイノベーションを阻害してしまう。むしろ、国民一人一人、個人が主人公にならなければならない、個々が責任を持たねばならなかったのだ。その為には個々人のポテンシャルを上げる必要があり学問が勧められたのであった。

今、再び時代は大きく変動しようとしている。その変動の最大なるポイントは情報革新である。インターネット環境下で、5G、AIが実用化され、量子コンピューティング、量子暗号などの技術がブレークスルーしようとしており、誰もがビッグデータに直面して、自由に確認することが出来る様になってきた。これまでの、マスを対象とする、画一的であるが故に、偏向するか、内容が希薄かのどちらかにならざるを得ない情報から、多様性を包含し、奥深く中身の濃い様に変貌してきている。しかし、一方でそれ故、玉石混交状態であるのも事実なのだが。

自由と民主主義を成立させる個々人、その個々人の思考が民意として、進むべき道は選択されるが、その判断に必要不可欠なのが情報なのである。しかし、今、この情報性向の変化に個々人が適応しているとは思えないのが問題なのである。

それ故、マスに発信される情報は、今まで以上に偏向する傾向が強くなってきている。ある意味、何らかの意思があるのではと感じる程なのだ。それは、個々人に、玉石混交の情報の中で判断できる情報の選択と分析、解析するリテラシーが備わっていない為に、所謂フェイクニュースが有効になってしまい、更にひどくなるという悪循環が生じている様に感じる。

簡単である、フェイクニュースに対して、きちんと論理的に是々非々の個々の考えが発信できる様になれば、その様に情報に向き合うリテラシーが備われば、マスの発信も無駄なことは避ける方向に向かい、情報として洗練されてくる。

今のメディアは目に余るフェイクニュースの発信を繰り返しているが、それが輿論形成に繋がってしまい、視聴率の獲得のために更にフェイクニュースが増えるという悪循環を発生させてしまっている。この状態が継続されると、人類は再び不幸な道に向かってしまいかねない。その勢いは、良識ある一部の為政者が存在しようとも、せき止める事は出来ない、それが民主主義だからだ。

であれば、今こそ、現代版の学問のススメが必要になる。個々人の情報リテラシーを備える努力が必要不可欠になるだろう。そして、更に、ビッグデータに向き合い、統計的、論理的思考によるデータの解釈、分析が出来る様になれば万全だ。

まずは、私自身、統計的、論理的思考による情報発信を続け、リテラシーを備え、データ分析による思考が出来る人材が一人でも多く育ってもらい、議論を戦わせる様になることが目標だろう。

モチベーション特性

 モチベーションを高めるには、承認欲求・自己実現欲求が満たせる状態になれる、目指せると思えなければならない。しかし、どうなれば欲求が満たせるのか、このことは個々人よって異なるものであり、一様に語れるものではない。一般的に個々人の性格や志向は異なり、いくつかのタイプに分かれるのだ。以下に、4タイプに分けて簡単に説明する。

・A(attacking).結果追求タイプ;
 人に頼らず自分の力で結果を出すことにこだわるタイプ。
 一国一城の主として、勝ち負けにこだわり、自己責任の元、成功を目指す。人との競争において、秀でることを目指し、結果を出すことに執着する。実行に対して、自分自身に責任・裁量権が与えられないと、物足りなさを感じ、モチベーション低下につながる。また、目標は自ら高く設定する傾向が強く、目標が低いとモチベーションは高まらない。
 このタイプは、大幅に権限移譲をすると期待以上の成果が期待できる。

・T(thinking).分析論理タイプ;
 自身の知識を広げ、探求することにこだわるタイプ。
 物事を論理的に探究し、誰もが到達できない解を導き出すことにこだわるタイプ。特定の分野を深堀、探求したりすることで、問題解決にあたる傾向が強い。因果関係を明確にして突き進めることにモチベーションを感じる。逆に、計画のない行き当たりばったりの環境では、全くモチベーションが高まらない。示される方向性の論拠も明確で論理性が無ければ、モチベーション低下につながる。
 このタイプは、困難な課題に直面すると期待以上の成果が期待できる。

・F(feeling).発想感覚タイプ;
 自分らしさを追求しオリジナルの発想を重要視するタイプ。
 自分らしさ、自分の発想、感覚の趣向が強く、オリジナル性を志向し、新しい価値の創出にこだわる傾向が強い。自身の置かれている環境に自由度がなく発想や活動を阻害する様だと、大きくモチベーションが下がる。また、対応する役割に独自の工夫や相違が必要ない、定型的な行動を強いられるとモチベーションは下がる。
 このタイプは、誰もが未着手の新分野に直面すると、期待以上の成果が期待できる。

・E(empathy).貢献中立タイプ;
 誰かに感謝される、ありがとうと言われたいタイプ。
 人との協調性を重視し、対立を好まず、中立を保とうとする。その上で、人の役に立つことに喜びを感じるタイプ。個人ではなく、チームの成績にこだわり、リーダーではなく、縁の下の力持ちとして支えるタイプ。結果よりもプロセスを重視する。目標ノルマなど結果を厳しく追及されたりするとモチベーションは低下する。成果よりも感謝を受けることにモチベーションを感じる。逆に、無関心に置かれると、たちまちモチベーションは下がる。
 このタイプは。協力的な対人環境に置かれると、期待以上の成果が期待できる。

 以上の様に、タイプを見極めず、良かれと思って実施した施策が、逆効果でモチベーションを下げてしまう結果となり得ることを理解して欲しい。
 試しに身の回りの人物を見てもらいたい。面白いぐらい、上記4タイプで分類できることがお分かりになるのではないだろうか。勿論、筆者の様に、強烈なAタイプと若干のTタイプを持ち合わせる分かり易いパターンから、それ程極端ではなく、バランスよく2パターンを持ち合わせるなど人それぞれである。
 組織構成要因としても、このタイプのバランスが必要であり、Aタイプばかりの集団では、衝突ばかりで結果の前に破綻が見えてきて、モチベーションが生まれなくなってしまう。この特性を見極めた組織、人員配置が必要なのだが、日本の企業は、この考えとは程遠い組織人事が行われるのが、日本型企業の特徴である。どのタイプでも同様の役割、同様のチャンスが与えられる、終身雇用の平等性により、むしろモチベーション低下を招き、生産性の最大化が困難であるのが実態である。
 逆に言うと、この点を改善するだけで、飛躍的進歩の可能性も秘めているのである。

理系と文系の特性相違点

 私自身は理科系学問(理学部物理学科にて)を学び卒業し、就職後も技術開発などの業務を中心に従事し、企画販促や管理系、経営にも携わってきた。理系の中では幅広い分野に従事したが、その根底にある軸足、判断基準は理系脳による論理思考であったと思っている。

 ビジネスの世界で、理系と文系でどちらが優位なのか、判定は出来ないだろうし、答えはないかもしれないが、私の持論として、理系的論理思考力を持ちつつ、文系的幅広い視野での柔軟な思考展開が出来ることが理想的であり、そのバランスが勝負のキーポイントであると考えている。
 昔、データベース・マーケティング論をビジネスで語りあった時の1例を上げる。データの分析やその仕組みであるシステム思考など、構造的かつシステマチックに理解していなければ、マーケティング分析やCRM提案は出来ない。基礎となるシステムや技術面のバックボーンなく語るのは、いい加減な絵に描いた餅、机上の空論でしかないと論破していた。ちなみに、世の中のこの手の企画提案には、実にきれいに表現した夢の世界の絵に描いた餅の詐欺紛いのものが多いのも実態である。
 一方で、仕組みや論理、技術面に終始すると、その先の可能性や運用面の人の感性などが抜け落ちてしまい、面白くもなんともない、単に難しいだけの企画提案になってしまいがちである。これでは、正しいかもしれないが、実際の利活用には程遠く、夢もない状態に陥ってしまいビジネスでは通用しなくなる。
 実世界、実運用上は、理系、文系のバランスが取れる必要があるのだ。

 では、バランスと言ってもどちらを優位にするべきなのか。論争として、理系センスを持った文系と文系センスを持った理系とどちらが最終的に勝つのか。この論争に答えはない。しかし、実社会では双方のバランスが必要だということに異論はないだろう。しかし、現実社会は、どちらかというと文系脳に偏っている方が優位になる様に感じざるを得ないのは私だけだろうか。もう一つ、現実社会では、理系、文系の分類とは別に、軸としては直交する全く異なる軸として、体育系と芸術系が存在するが、複雑になる為今回はこの軸は除外して考える前提で、どうしても理系だけ偏った印象があるのは事実ではないだろうか。

 理科系学問の性格として、白黒はっきりしている事が上げられる。数学の計算結果に曖昧さはない。物理の法則も真しかなく、化学も再現性が要求される。もちろん、人類が知り得るのは、砂漠の一粒の砂に過ぎないのが自然科学の世界の真ではあるが、その一粒の真理を究明するものだ。解のない場合は、現時点で解がないとはっきりさせ、解を求めていく。万人に共通する解を。
 文科系学問の性格として、人それぞれの思想や考え方によって解は異なってくる。それぞれの見解として。法が絶対的なものと言いつつ、法律で明文化していながら、解釈が人によって異なってくる。歴史も学説として主流派はあっても、異説も異論も多々あるし、それぞれに正誤関係はない。新説に対して反証を繰り返し洗練されていく。しかし、どこまで行っても絶対真理には行きつかない。
 政治や経営の分野は、不確実な未来に対して、確実な答えを持たずに、今の手を打っていく。一長一短ある様々な方法論の中で、総合的に判断して決断するのだ。そこには政治、経営のポリシーが必要だろう。人間である限り、判断に迷う事もあるだろうが、その場合も基準となる根本的な基盤思想を持って判断される。しかし、判断のためにインプットされる情報が偏っていて全体像が俯瞰できなかったり、客観的な状況が見えていないと判断を誤ることもしばしばある。
 だからこそ、政治や経営の責任者は、多くの情報を多面的かつ総合的にインプットしたいと考えるのである。政治で言えば、専門家会議や話題の学術会議、経営であれば事業戦略部門やコンサル、シンクタンクだろう。
 では、この求める情報を提供してもらうためには、理系が良いか文系が良いかを考えて見よう。文系の性格上、答えには個人の思想信条、考えの偏りが必ず発生する。従って、決して客観的とは言えない。つまり、政治や経営に活かす情報としては、一人、一系統の文系系情報のインプットでは偏ってしまう事になり、判断を誤る原因になるのだ。確かに、政治家や経営者自身の思想信条、自分の考えに近しい系統から情報を得ると、自身の考えと一致しやすく、ある意味の心地よさが得られるだろうが、この様な場合の多くは裸の王様化してしまう危険性が高い。従って、文系的な情報をインプットとして活用する為には、真っ向対立する異論含めて多くの情報を多系統から求めなければ、総合的に判断することが出来ない。それが出来ないで偏ってしまうぐらいなら、初めから自身の思想信条、考えに則って他の情報を持たない方がむしろ良い。
 一方で、理系的情報を得るとどうなるのか。理系的性格上、正か誤か、その度合いを数値で表現するなど、情報としては明確になってくる。否定しようのない情報であふれるはずだ。しかしながら、現実に打つべき手が、その事に全面的に沿う必要があるかというと決してそうではない。何故なら、求めた情報の方向性においては真実であろうが、現実世界は多極面が存在する複雑化した社会である。実際に打つ手も、1か0かではなく、バランスが求められる。そのバランス感覚は政治家、経営者の手腕に委ねられるのだ。但し、絶対的事実の情報があれば、バランスが取れた判断に役立てられるのである。

 こうやって考えると、政治や経営で政策判断、経営判断の助けになる情報を取得する方法としては、基本的には理科系面の情報取得が必要不可欠だろう。やはり、客観的情報としては理系的な情報が望ましいと言わざるを得ない。少し、幅を広げても数学、統計的解析の経済まで広げても良いが、何が正か判然としない個々の思想が前面に出る法律系、政治系は情報としては偏ることを織り込む必要がある。人文科学的な情報は、アウトプットされる提言ではなく、その経緯の議事録、議論内容がなければ情報となりえないと言っても良い。一方向に考えをまとめ上げる事を求めているのではなく、両論を公平に聞きたいのであり、一方を封殺する様では採択できる訳がないのだ。
 例えば、原子力エネルギーの政策を検討する上での情報を取得する場合、理系的側面では、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーの夫々のエネルギー効率や温暖化ガス排出など多角的な影響面の科学的考察と開発のロードマップ、技術の可能性、安全面や想定リスクなどが情報として得られる。しかし、このことに関して文系的な情報を得ようとすると、イデオロギーを問う様な答えが、正解とは言い切れないにもかかわらず正解の振りをしてアウトプットされてしまう。こんな情報は百害あって一利なしなのだ。いや、言い過ぎたとすれば、住民感情や理解度、説明責任のレベル感などを推し量ることは出来るかもしれないが、事の是非を判断する情報では決してあり得ない。もちろん、最終的には民主主義的手段で決定していくのだろうが、その場合も政治家、経営者の信念で説得する以外になく、おもねる必要はないのだ。ダメだったら、政治家も経営者も進退を伺うだけなのだから。

 さてさて、そうこう考えると、今問題の学術会議はどうだろう。学術会議は政府の諮問機関であるのは誰も疑わないはずだ。しかし、3分の1が自然科学工学系、3分の1が医学薬学系、3分の1が社会科学法学政治学系であり、多くの発言は社会科学系、つまり文系の発信である。この3系統で言えば、母数となる研究者総数に対する比率で言えば、社会科学系は他の2桁下の数でありながら、会議体としては3分の1を占め、発信としては更に全体を牛耳っている印象が強い。これでは正当な判断の為の情報を得ることは出来ないと考えるのが通常だろう。それゆえ、政府は長い期間諮問をしていないのだ。
 この3分野を独立させ、数的にも適正数に配分し、もっと理系的な発信が前面に出る様な会議体にならなければ、政府諮問機関としては機能しないのだ。
 更に加えて言うと、政治家はプロである。そして行政の実行部隊である官僚もプロである。私には、人文科学系の学者がプロとして誇れるのは、自然科学系で言えば理学の分野であり、その実践に当たる工学の分野は、政治家や官僚の領域ではないのだろうか。であれば、人文科学系の学者に敢えて諮問する必要性は無く、あっても情報連携で充分。但し、政治家に絶対的比率で理系が少ないのが実態に見える状況では、自然科学、医学薬学系の学者、専門家への諮問は必要不可欠だろう。

 私は、理科系の人間なので特に強調したいのだが、もう少し理科系の人間を重用し、活躍の場が与えられる社会にならなければ、バランスの取れた判断による、本当の意味での発展にはつながりにくいと考えている。

デジタル化の波

 デジタル化推進に政府が大きく舵を切った。
 積年の課題であるが、コロナ禍による影響で、少しは世間に必要性が訴求され追い風が吹いている今こそ唯一無二、絶好のチャンスであろう。

 この課題は、何十年も前から目指すべき電子政府という目標があったにもかかわらず、抵抗勢力の影響だろうか、遅々として進まなかった。ナショナルIDも複数回チャレンジしてきたが、政府が悪の化身であるかの様な言い方で、政権政府に情報を握られることで、悪用されるリスクを誇張し続け、一般人の不安を煽り続け、実現を遠ざけてきた。
 マイナンバーは、何度目のチャレンジであろうか、恐らく今回のチャレンジで浸透ができなければ、先進国で唯一ナショナルIDが運用されていない劣後国のレッテルが貼られるだろう。

 デジタル化の課題は、難しそうでありながら、実はグランドデザインとしては、至極簡単なのである。縦割り行政が問題視されているが、正直言って縦割り状態でのデジタル化は可能なのである。ただ一つ、横串を貫く、データ連携設計を基に、基本設計基盤に各所から接続するインタフェースの形さえ作り上げれば良い。無理に縦割りを連結して、個々のシステムの自由度を奪うのでは、様々な逆の弊害も出てくるのである。
 従って、デジタル庁のあるべき姿としては、機能としてはクラウド・データセンター機能に特化する形が理想的であると考えられる。そうであれば、各省庁などの個別特有な業務に適したアプリケーションの対応が可能になる。縦割りの良さを活かしながら、横串が刺さった一気通貫の仕組みが出来上がるのである。

 それでも、いまだ抵抗勢力は根強く存在する。

 抵抗勢力は、今後も無意味で非論理的かつヒステリックに不安を煽り続けるだろう。その最近の例で言うならば、ドコモ口座などの不正出金被害にかかわる報道だろう。伝え方として、便利を追求すると、セキュリティリスクが高くなると言い切っているが、これは根本的に間違っている。便利さと、セキュリティは両立を目指せるのであり、その障壁となるのはコストなのである。

 不正出金の件の問題は、やるべきセキュリティ対策を怠ったことが主要因であり、基本的な2要素認証や2段階認証による接続と本人確認を行えば、問題なかった。更に、その先には、マイナンバーカードの電子証明書を本人認証として利用する様になってくれば、更にセキュリティ性は向上する。つまり、利便性を保ったまま安全な運用が可能になるのである。

 技術の進歩を享受するには、その技術の使い方が重要なのである。使い方を誤れば技術は宝の持ち腐れになるが、使い方を間違わなければ、宝となり、宝が次の宝を生み出す効果も期待できる。しかし、使い方を間違わないためには、初期コストの投資が必要になる。不正出金の問題は、この初期投資を目先の利益のため、嫌がった結果に他ならないだろう。
 この初期コスト、投資は、新しい技術による便利さの享受と言う大きなリターンがあり、経済的にも確実に投資回収が出来るのである。

 もう一つ、大きな抵抗勢力の反論は個人情報漏洩のリスクであろう。しかし、危機感を煽る言い方に、個人情報が何たるものかと言う基本的な知識の欠落すら感じるのである。
 結論から言おう、デジタル化を推進し、マイナンバーカードの利活用を拡大することで、個人情報漏洩のリスクも間違いなく低減できるのである。

 マイナンバーカードを落としても顔写真や基本情報の漏洩はあっても、それ以上の機微情報などの漏洩のリスクは極めてゼロに近い。マイナンバーカードには必要以上の情報が入っていないし、使用も出来ないのだから当然だろう。しかし、マイナンバーカードの電子証明書利活用が拡大しなければ、アクセス先である各省庁に存在するデータの脆弱性は高まり、漏洩リスクが高くなるのである。などなど、実はデジタル化を推進すれば、必要なセキュリティ対策さえ実施してあれば、安全性が高まるのである。確かに、必要なセキュリティ対策の実施有無による、リスクの差はデジタルの場合大きくなるのは疑い様は無いが、適切なセキュリティ対策を運用すれば全て解決するのだ。

 縦割り組織の最大の良さは、情報が分散することで、漏洩リスクを最小化出来ること。縦割り組織の短所である、情報連携、効率的な横連携は、デジタル化基盤の構築で解決できる。そして、安倍政権時代に野党から攻撃を受ける最大のポイントであった文書管理の問題も、デジタル化でアーカイブすることで解消できるのである。

 コロナ禍がもたらした、千載一遇のチャンスを活かして、遅ればせながら先進国並み、いや一気に最先端のデジタル・トランスフォーメーションを反対勢力に臆することなく、全力で進めるべきである。