外国人の地方住民投票券は国防問題である

武蔵野市の松下玲子市長が発表した外国人に投票権を与える住民投票条例案に対する賛否が戦わされている。これは軽く考える問題ではなく、国防に関わる重要な問題である。

松下市長は、外国人参政権に通じる問題との指摘に対して「論理の飛躍だ。同姓でも離婚する人がこれだけいる中、夫婦別姓制度を実現すると『家族が壊れる』と言っている人に似ている」と発言し否定している。

この否定の仕方事態が論理になっていない。『同姓でも離婚する人がいる』は決して『同姓だから離婚する人がいる』のではない。つまり同姓、別姓に関係なく、結婚は人と人の繋がりなので離れる事もありえるということでしかない。『夫婦別姓制度を実現する』と危険因子が増加し『家族が壊れる』可能性が高まる、不要な争いが起きうることを『同姓でも離婚する人がいる』という事象で否定できない。これこそが論理の飛躍に他ならない。

この様な論理破綻の言い訳を堂々と発言できること自体、自己正当化の詭弁である誹りは免れないというのが筆者の見解ではあるが、そのことはさておき、この問題についてリスク面から考えていきたい。

<外国人への投票権を与えるリスク>

制度のリスクは性善説のみで語ってはならない。悪意をもって実行した場合に、どこまでのことが可能で、どれだけの影響があるか、そしてその行為は事前にどれだけ把握できて、影響最小化のリスク対策がどれだけ可能か、客観的にかつ冷静に検証する必要がある。

悪用の仕方は簡単だ。大人数の工作員を所定の市町村に住所変更させた後に重要な案件(市町村合併、原子力発電誘致、基地建設など)の住民投票を行い、多数の民意を形成して首長が強権を振るうことだろう。これは合法的、民主的な手段による独裁と言っても良い。

これは誇大妄想でも何でもない。歴史的にも、中世に宣教師がキリスト教を布教し、地域に根ざし、植民地支配に移行していく手段は同様であろう。新疆ウイグルやチベットなどへの侵攻も同様。もっと言えば、アメリカ大陸もオーストラリアも結局現地人よりも多数派の移民による、実力行使力獲得によるものといっても良い。

別の例を挙げると、現地の施政権は取れなくても、情報覇権を占有する方法。現代戦において、情報発信のチャネルを寡占し、規制する事は、世論操作や扇動が容易であり、制空権を握るに等しく占領を容易にする効果がある。そして更に効果的なのは、現地の教育現場を占有することだろう。

つまり地方自治体の攻略は、武器を使った攻撃の様な自軍被害のリスクもなく、平和裏に民主的に侵攻を可能にする手段なのである。

実は、日本国内で外国人に投票権を認める自治体は既に43存在し、在留期間を要件に付けない条例は、神奈川県逗子市、大阪府豊中市の2例存在し、武蔵野市は3例目で東京都内では初の事例になる。これほど多くの事例が既に存在することに驚きである。住民は本当に意味を理解しているのだろうか、筆者は疑問に感じざるを得ない。

<国益の全体最適思考が個人の利益にも通じる>

リスクがあるから、それが全て顕在化するとは限らない。しかし、今現在顕在化していないからといって、リスクがある事を否定はできないし、軽く見積もってもいけない。サイレント・インベージョンは現実の脅威と考えるべきであろう。

本来、国防や外交に関わる要件は国政マターの筈である。

全国に43もの侵略リスクの高い拠点が存在することを認識し、その危険性が無いか適宜状況確認を継続する必要がある。本来であれば、住民がその役割を果たすべきだが、恐らく正しく周知されていないのだろうから、正しく周知させる事から始めるべき。

その内リスクの高い2カ所には具体的な対応策が必要だろう。そして今後これ以上増えない様に、武蔵野市における議論を広く周知し、本当の意味でのリスクを周知する努力は必要不可欠だろう。

決して外国人を差別しようと言っている訳では無い。住民サービスや社会保障は外人であろうと、住民であれば享受できる権利があるものも多い。公平に受ける権利が行使できるようにするべきだろう。

しかし、リスクの高い重要事項に関する決定に関与する権利は基本的に住民である前に、日本国民である必要がある参政権に属するものではないだろうか。それは、そのリスクは地域で留まるものではないからだ。

よく言われる例えに、税金を払っているのだから権利も与えるべきだと言うのは詭弁に過ぎない。商品を購入するユーザーは、商品やサービスに関して物申す事は出来ても、株主として投資しない限り経営に口は出せない。それだけなのだ。

市民活動は、何故か、国家の利益を毀損する活動が多い。国家の利益よりも個人の利益を優先するのがリベラルの根本思想と聞いたことがあるが、個人の利益を追求し過ぎて、全体の国家として利益が失われるのなら、結局、個人の利益失墜にもつながることが理解できないのだろうか。これでは、単なる目先の利益、部分最適思考、利己的な利益追求でしかない。

個人と国家の利益やリスクは、あくまでバランスであり、全体最適思考で検討すべきであろう。

政府分科会の辞書には「反省」の文字が無いのか

新型コロナの政府分科会が新指標に合意したと報じられた。政府分科会尾身会長は、新指標について「感染状況を医療が逼迫(ひっぱく)しない水準に抑え、社会経済、日常生活を取り戻すことが目的だ」と説明。「新規感染者数は注視するが、医療逼迫の状況をより重視する」とのことだ。

凡その考え方を下図に示す。

出典:テレビ朝日系(ANN)11/8(月)

どうだろう、問題の本質を分かっていない、反省という事が出来ない集団なのだろうかと改めて痛感するのは筆者だけなのだろうか。

<新型コロナ対策の本質的な問題>

日本の感染状況は、最初から現在に至るまで、常に海外比較で『さざ波』状態で、穏やかであった。色々批判を受け、アジアとの比較や、成功している国との比較と揶揄もされていたが、現在に至って総合的に世界最優秀と言っても過言ではない。問題は、その状態で医療崩壊が発生してしまうという事が日本特有の脆弱性だったのであり、普通の感覚であれば真っ先に反省するべき事項のはずだ。

このレベル2に示す「感染者増加傾向も病床増で対応可」という状態は、病床を状況に応じて増減できれば、このレベルを超える事は本来あり得ない論理だ。逆説的に言うと、病床数を増やせなければ、感染がどれだけ穏やかでも、直ぐにレベルが上がるという事だ。つまり、生殺与奪の権を、一部の医療従事者、いや医療界への影響力を考慮すれば分科会や医師会が握る事になるのではないだろうか。

レベル3の「一般医療を相当制限」はもっと酷い。相当制限とはどの程度の事か全く不明で、恣意的に何とでも言える。それだけでなく、一般医療の定義が不明で、既得権益を守ろうとする排他的な定義としか思えない。村組織の中で縦割りを超えさせない自衛意識の象徴ではないか。

そもそも一般医療とコロナ対応医療を別のものとしている時点で、医療資源の適切な配分など出来様がない。見え隠れするのが、救急医療へのしわ寄せをして自分達のリスクを回避しようとしている様にしか見えないのだ。あくまで、コロナ対応も含めて一般医療として、その配分を現場状況に応じて臨機応変に対応していく事が、当たり前の世界だからだ。百歩譲っても、呼吸器内科系の一括りで治療体制は語るべきでは無いのか。

本来のあるべき姿で考えれば、確保病床数を分母に入院必要数を分子にする指標は、分母さえ増やせば閾値を超える事はあり得ない。また、この指標が50%程度で云々する事も、一般の資源リソース評価としてもあり得ない。

通常のリソース管理は、上限の閾値を80%程度にして、超えそうな70%あたりでアラートを鳴らして資源増強を図るトリガーとする。逆に50%を下回る様な状態であれば、資源リソースの過剰投資として資源の他への転換を図るトリガーとする。これが通常のリソース管理である。結果として、この指標は50%を下回ることが無いのが、正常な資源管理だ。

他の資源再配分と医療は異なる、そんな簡単では無いとの言い訳は聞き飽きる程聞いてきたが、この点こそ国際比較して欲しい。諸外国は見事に柔軟に対応している。いや、せざるを得ない状態に追い込まれ対応しているのだ。比べて、日本の医療体制は幽霊病床で補助金を獲得する等、余りにも悠長ではないのだろうか。第5波になってようやく野戦病院等の施設を唱え始めたが、昨年大阪の専門病床に対しては非協力的で結局、自衛隊出動した。ワクチン接種も歯科医や自衛隊出動するまで非協力的だったのだ。追い込まれたらできる事でも、非協力的であった事は紛れもない事実なのである。

これは、飲食業や観光業、昔はパチンコ屋、夜の街などの弱者、政治的影響力の弱い集団の活動を制限し、一般国民を恐怖で縛り、我慢を強いる事で、医療業界全体としての対応を回避したと言えるだろう。

勿論、その中で実際のコロナ対応医療関係当事者は、本当に患者に向き合い、治療に従事していて、真剣にコロナ対応をして頂いている事は疑い様がない。要は、その人数、資源を増やさない事、増やせない事が日本の医療の構造上の問題なのだ。

筆者は、この構造に対して昨年より指摘し、批判を続けたが、当時は全くと言っていいほど理解を頂けず、逆に心無い攻撃すら受ける状況であった。しかし、今となってはネットを中心に同様の言論があふれ始めている。状況は変わったのだ。

今こそ、この問題点に真摯に向き合い、コロナだけでなく、今後の医療のレジリエンス体制を確保する為に、事実を総括し、反省するべきで、分科会も解体し責任を取るべきだろう。

にもかかわらず、まだ新指標とは、開いた口が塞がらない。

エレルギー問題の対応はバランスが重要

エネルギー問題は国家の安全保障にも通じる重要課題であり、本来国家として一枚岩になって取り組むべきなのだが、政局利用や活動家の具となり、本質的な問題をタブー視する傾向が強くなって久しい。更に、環境問題がここに重なってきて部分最適が進み、混迷が深まっている。

はっきり申し上げる、バラ色のエネルギーなど世の中には存在しない。それは物理学のエネルギー保存の法則に従えば自明なのだ。世の中の様々な事象は、このエネルギーの微妙なバランスによって現在の環境が成立しているのであり、そのエネルギーを他の形に変換して利用する場合、元のエネルギーバランスを崩す事に他ならず、偏れば必ず何らかの歪が生じる。従って、エネルギー利用には歪を最小限にするバランスが必要不可欠なのだ。漫画「ドラゴンボール」の「元気玉」の様に、少しずつ分けてもらって大きなエネルギーに変換する、そういった検討が重要なのだ。

この様に考えると、再生可能エネルギーが環境に優しい究極のエネルギーだという論調も基本の部分で間違っている。

例えば、太陽光エネルギー。パネルの設置による自然破壊、土砂被害の可能性も指摘されるが、それだけではない。そもそも自然の恵みで降り注ぐ太陽光があって地球環境が成立している。光合成により栄養源が生成され、太陽光熱は様々な自然現象を呼び起こす。仮に地球の何割かの表面を太陽光パネルで覆ったら、自然環境は劇的に変化するだろう。

水力発電も当初は水の位置エネルギーを電気に変換する、究極の再生可能エネルギーの様に期待されていたが、その実、自然災害のリスク以外にも、河川環境や下流地域の生態系等にも重大な影響を及ぼす事が分かっている。

変化が微小な僅かな利活用であれば問題が顕在化しなくても、量的に無視できなくなると予想できない何らかの影響が顕在化するのは疑い様が無い。しかも、人類の電力消費量は年々増加、日本もIT化を進めようとする中で電力消費量はこの先莫大に増加する事が報告されている。

更に、CO2削減、実質排出ゼロを目指すとなると、石化エネルギーの燃焼という手段は限定的にならざるを得ない。

以上の様な現実に直面している状況下では、あらゆるエネルギーをバランスよく利活用するべきなのだ。従って、根拠もなく、或いは根拠ある様に見せての原子力発電ゼロ化推進は無責任との誹りを免れないというのが筆者の基本姿勢である。

<リスク管理視点で見た原子力発電>

但し、リスク管理視点で見た場合、原子力発電の事故発生時の被害をどう考えるべきかは、大きな課題である。一度、被害発生した場合その規模は絶大で、発生確率が少々低くても、リスクスコアとしての「被害×確率」は高くなるのが必定であり、この点を考慮する必要性がある。どこまで安全対策を充実させてもゼロにはなり得ないので、リスクスコアは決してゼロにはならないのだ。

但し、福島原発事故以前ならば被害想定が困難で、ともすれば人類存続不能ともされる言質もあったが、各所での大小の事故を経験した今なら定量化する情報が存在するはずだ。是非今一度リスク管理の側面で客観的に評価するべきだろう。他のエネルギーのリスク評価と比較して実はそれ程大きくないという結果になるのではないかと想定しているが、極めて専門的な計算が必要であり、冷静な議論が必要だろう。

そして、何より危惧しているのが、技術力の低下だ。筆者が大学入試を受ける頃は、原子力工学は花型で、優秀な学生が集まっていた。今はどうだろう、その種の学部があまり見当たらない。これは、原子力忌避思想に縛られ、非難を受け続ける市中環境では、志望する学生が減少する状況に追い込まれざるを得なかった結果ではないだろうか。かつては、日本の原子力技術は世界に誇るべき水準であったが、今はどうだろう。

ましてや、原子力ゼロ、自然消滅と言っても、今ある原子力発電所廃炉や廃棄物処理には、長い時間が必要である。その為に、何世代の技術者が関わる必要があるのか、まだまだ優秀な技術力の育成は必要不可欠なはずだ。この様に考えれば、後ろ指さされる技術にしてしまっては先行きが危ない。それこそ、技術者不足、技術力低下は、リスク発生確率も、発生時の被害も高めるのは間違いない。

だからこそ、原子力技術を花形の学問にもう一度復活させる必要がある。幸いなことに、小型モジュール化など新技術が期待されている。この技術の実現性に疑問を投げかける前に、渡りに船だと、国家上げての強化、支援を高める事で総合的な技術力向上も期待できるのだ。実情を考えると、戦略的投資をしない手はないのだ。

<期待される水素エネルギー>

筆者はエネルギー問題の解決策の一つとして以前から水素エネルギーに注目していた。燃焼時に無駄な廃棄物も生じないクリーンエネルギーとして。

但し、水素はご存じの方も多いだろうが、取り扱いが難しい。危険で、保存にも膨大なエネルギーが必要だからだ。

エネルギーは、必要な時に必要な場所で必要なだけ供給できる必要がある。その為には、保存・蓄積、運搬も必要になる。水素は液化して運搬も可能だが、その取扱いには注意が必要になる。それらの問題を解決するのが、水素キャリアとしてのアンモニア利用なのである。

筆者は7年ほど前、このアンモニア利用に注目し、各種研究論文を読み漁った時期があった。その時、受験生であった長女も物見遊山で同様の文献に目を通し、自身の第一志望校にこの研究をする研究室を発見し、興味を深め、このテーマで小論文を書いたほど、その時期注目していた。そして現在、アンモニア運搬船が開発されるまでに至っている。

世の中には、否定論者も多く存在する。アンモニアは、燃焼時にNOxという有害物質が生成される危険性がある。そして、生成法として現状の主となるのが「ハーバー・ボッシュ法」であり、これには膨大な熱と圧のエネルギーが必要なので、その時点でエネルギー効率の悪さやCO2発生問題が伴うからだ。

しかし、日本の燃焼技術は世界トップクラスであり、安全な燃焼はそう難しくない。低エネルギー生成法の開発さえ実用化出来れば問題なくなるのだ。そして、アンモニアの生成が工業的に容易になれば、現在の主用途である肥料用途にも利活用が広がり、食糧問題の解決にも繋がる一挙両得なのだ。科学技術は、諦めず、目的に向かえば、不可能を可能にする。期待したい。

若者の政治離れとはどういう現象で何が問題

若者の政治離れが問題とされている。しかし、私が若者だった頃も同じことが言われていた様に記憶している。つまり、日本において、いつの時代でも、若者は政治に関心が無いと言っているのに等しい。これは本当だろうか、そしてどの様な問題になるのだろうか。

選挙を盛り上げるために、カンニング竹山氏はテレビでガンガン放映すべきで公平性など気にしなくて良いと自論を展開(衆院選なぜ盛り上がらない「テレビは選挙を公平に報じなくていい!」カンニング竹山〈dot.〉)した。選挙へ行こうという著名人の呼びかけ、動画も各種配信されている。

しかし、それで解決するのだろうか。本質的な問題や、弊害を忘れていないだろうか。

<政治に関心の無い人が投じる1票>

政治に関心のない人が投じる1票と、普段から様々な問題意識を持ち、論理的思考による検討を繰り返している人の1票を同じ1票として良いのか。いわゆる大衆迎合、ポピュリズムに陥り、政治家の活動戦術が人気取りに注力、ワンフレーズのアピールが主となり、本質的な政策アピールが希薄になる。逆に票を集まるのは大衆扇動する事が最有力となる。

こう書くと差別主義者の様に攻撃を受けかねないが、1票の重みを感じない方が問題ではないか。

選挙権を行使して1票を投じる事は、先人達が勝ち取った民主主義を成立させる為の重大な権利である。権利にはそれを支える責任も当然発生する。当然だろう、投じた1票の結果が自分だけでなく国民全体に影響を及ぼす事に責任を持つ必要があるし、決まった結果には、自分の意見が異なろうとも従うのが民主主義だからである。

そうやって考えると、選挙が始まってから選挙に行こうでは遅いのである。「誰に投票して良いか分からない」と言う人に、マッチングアプリ等で「貴方の考え方に近いのはこの党です」とするのは明らかに誤誘導であり間違っている。考える為の情報として「政策」や「活動実績」などは提供しても、結論を押し付ける様に示すのは、投票所内で誰々に投票しろと指示するのに等しい行為である。

日本人に欠けているのは、『民主主義』や『自由』『平和』に対する意識である。これらは空気の様に何もしなくても普通にあるものではなく、勝ち取ったものであり、G7など価値観を共有する先進諸国の中で一定のポジションにいる、そのありがたさを感じる感覚ではないだろうか。

その原因は教育にあると断言しても良い。日本の教育で、政治に関する各論や持論形成のために必要な論理思考力のトレーニングは殆ど行われていない。諸外国との違いはこの点にある。

若者が政治に関心が無いという逆説は、年齢を重ねれば政治に関心が生まれるという事になる。社会に出て、荒波にもまれ、現実を目の当たりにし、社会の一員として自分事として問題意識を具体的に感じ始めて、政治に目が行く。社会経験の浅い若者にとって、実体験での問題意識もなく、聞きかじりで偏った意見に流されやすいのは当然だろう。

学生運動が先鋭化しやすいのは当然なのだ。グレタさん等は大人に利用された被害者であると筆者は認識している。彼女の子供時代を奪ったのは先鋭的な活動家に他ならない。

<政治の無関心を助長するインフルエンサーの不勉強発言>

政治への関心の無さが偏った意見に流される典型実例として「選択的夫婦別姓」問題を挙げてみる。

「自民党だけが反対だ」とメディアの印象操作が激しいが、全く中身の問題点を伝えていない。そして、中身も知らずに、影響力のあるインフルエンサーがなぜ反対するのだと発信する。

最高裁判決内容など読めば少しは理解できるだろうし、様々なサイトで比較評価されているので、調べる気になれば簡単に確認できる。

「夫婦同姓」を違憲とする根拠は、人権問題として個人の尊厳に関わると言うのが簡潔な説明であろう。つまり姓、氏を選択できないのは不平等、個々の価値観は自由であるべきとのこと。合憲とする根拠は、現行法でも男女どちらの姓も選択でき男女平等であり、別姓とする事で家族の一体感を失い、無用な争いの種が生じるということだ。そして最高裁で合憲となっている。

また、内閣府発表の平成29年度世論調査でも選択的夫婦別姓の「法制化容認」の意見は42.5%、「現在の法律を改める必要ない」と「旧姓の通称利用の法制化容認」を合わせると53.7%もある。国論を2分するとはいえ、半数以上が「選択的夫婦別姓」法制化に慎重なのである。

余り知られていないが、旧姓の通称利用を最も拡大し、女性が結婚した際の活動上の不利益を受ける問題に具体的に対処したのは、自民党の高市元総務大臣時代の業績なのだ。そして、今の自民党案は、この通称拡大を更に一般的に広める事を軸としており、最も、婚姻後の女性の不利益解消に具体的に活動しているのだが、なぜか反対の急先鋒扱い、女性の敵的な印象操作が行われている。

これらの中身を知った上で、各論にも触れ、その上での個人の意見であればそれは尊重されるべきだが、読みもしない、知ろうともしないで、軽く「選択できるのに、なぜ反対するの、自由で良いだろう」と影響力のある立場で発信するのは、誤誘導による大衆迎合、人気投票により気付いたら道を誤った事に成り兼ねない無責任発言なのだ。簡単に賛成、反対で決する内容ではないからだ。

そもそも個人の価値観の自由とすれば、婚姻時だけでない選択の自由に拡大され、戸籍は他と何ら繋がりや連帯もなく個人のものになるが、それならば究極は姓や戸籍など不要で、マイナンバーだけでよくなるが、この層はマイナンバーにも反対意見が多い筈だ。まさか、国家として国民を本人と特定する情報管理は一切必要ないとでも言いたいのだろうか。それでは無政府状態だろう。

ここからも分かる通り、意見を述べるには、それなりの努力と責任を持って自分で考える必要がある。選挙における投票行動はこの意見を述べる行動の一つであり、一定の努力と責任は必要だろう。

<若者は本当に政治に無関心なのか>

しかし、最近の言論空間、特にネット環境を客観的に見ると、筆者の個人的感覚だが、若者は決して政治に無関心ではないと感じている。

電波系メディアを見なくなっている若者達は、ネット空間、SNSで自分の考えを発信している。勿論、玉石混交であり、日本語にもなっていない意味不明発信、誹謗中傷もある。しかし、事実に基づいた思考、論理的な発信も増えているのは間違いない。

その事を一部の活動家達がマスで誘導できなくなっている危機感を持ち、それを防ごうとする『報告』攻撃が増えていると考えれば辻褄が合うし、皮肉にも事実証明にもなっていると感じる。論理的な意見が増えているから、妨害も増えているのだ。

では、なぜ若者の投票率が上がらないのだろうか。ひとえに多忙が故ではないだろうか。

自身の若い頃を考えれば、土日もなく昼日中は仕事で走り回り、僅かな休暇は遊びに走り回り、暇などなかった。働き方改革されているとはいえ、活動的なエネルギーは、選挙よりは自身の活動に時間が割かれるのは自明ではないだろうか。逆に年寄りは暇だから投票率が上がる。

従って、やはり期日前投票もそうだが、ネット投票に舵を切るべきなのだろう。

そして、これらの事を前提とすれば、政治活動は根本的に変わってくるはずだ。ネットの活用とネットに蔓延る不正行動の法的抑止。今や、マスメディアの信頼性が地に落ち、若者は確実に離れている。言論封殺を目的とした「報告」などの行為の公正性の担保、誹謗中傷などの不適切行動に対する公的監視に本気で対処すれば、ネットでの広報戦略の重要性が高まり、健全な両論戦わす場に活性化できるだろうし、しなければならない。そうなれば自ずと教育の必要性は高まり、現実化していくだろう。

そして、セキュリティ性を担保したネット投票が実現すれば本当の意味での健全な民意が反映される民主主義に近付けるだろう。

戦略的投資があって始めて経済成長が実現する

平均年収30年横ばいを打開するには、どうすれば良いか。

インフレターゲット2%目標が実際に実現出来れば、間違いなく経済成長が現実化しており、平均年収も上がってくるだろう。しかし、未だインフレターゲットに懐疑的で、反対勢力の攻撃もあり、財布のひもを引き締める緊縮財政論によるブレーキを踏む傾向が強い。結果として、先進諸国と比較して低成長のデフレ状態を打開できないでいる。

事業視点で考えると明確だが、投資無き所に成長は無い。投資を控え、緊縮財政を継続させると利益率の維持、改善は出来ても事業拡大、成長路線は遠のき中長期的にジリ貧に陥る。実際は、衰退事業に対する投資は控え、撤退戦略で生まれた余力を、新たな事業への資源投入に回す事で、継続的な成長を生み出すのが持続可能な経営だ。

国家運営においても同様、成長分野への投資を増強する事が必要不可欠であり最優先のはずだ。その為には規制緩和が重要になる。それらの投資は、資産となり、成長という果実を生み出す。

規制緩和は実は既得権益勢力の抵抗を受ける。衰退事業であろうとも、しがみつく既得権益勢力が、屁理屈で部分最適思考を隠して自己正当化し、規制緩和を妨害し新規事業を妨げる抵抗勢力となる。

加計問題の本質は、この既得権益と規制緩和の戦いであった。安倍元総理や政府、官邸の不正でもなく、それ自体が既得権益を守る為の屁理屈に、政府攻撃の政治利用が乗っかっただけと理解するべきで、未だに疑惑と言っているのは余りに浅はかだ。獣医学部が新設されず、獣医師が増加しない事で生じる弊害は計り知れなかった。決して動物に対する医療分野だけではなく、生物工学や感染症などの分野にも大きく影響する。この岩盤であった既得権益構造打破にどれだけのエネルギーが必要だったか窺い知れるが、筆者はその次に見えるのが医学部だろうと考えている。

今の医学部は富裕層でないとなかなか進学できない。学費が膨大な金額だからだ。だから開業医の子息が進学し家業を継ぐという医師の固定化が進み、増加させ過ぎない事で権益が保全される。その結果がコロナ禍での医師会や専門家の体たらく、上から目線の国民の緩みへの責任転嫁という非科学的な言動を許すことに繋がっている。更に、厚生労働省医系技官という形で異論を許さない構造を作り上げ既得権益構造が盤石になっている。

規制緩和し、優秀で志の高い学生が、障害なく医学を目指せる様に、門戸を開く事で、医療体制を抜本的に強化する事が出来るだろう。コロナ禍がその必要性を世に問うたというのが真っ当な考え方ではないだろうか。

<財務省の公式見解は日本はデフォルトしないである>

同様の視点で考えるべきが、財務省矢野事務次官の財政破綻の危機論だろう。会計論、金融工学視点から論理的に考えたら、余りにも稚拙な論であるにも関わらず、国家の行政トップの立場において堂々と主張が出来る事が信じられない。既に15年以上も主張を続け、マスコミも公には批判しない。それどころか、政治批判の具として財政危機を煽るのだから始末が悪い。

もし本当に財政危機であるならば、政府保有の資産を一部処分すれば良いだけだ。それは、自らの天下り先などであったりするので決して言及しないだろうが、それこそが既得権益構造なので、なんだかんだ言って焦点はずらすだろう。

何と言っても、財務省の外国格付け会社宛ての意見書として公式見解が発信されている。(https://www.mof.go.jp/about_mof/other/other/rating/p140430.htm)日本は財政破綻しない、自国通貨建て国債はデフォルトしないと明言しているのだから、財務省見解と矢野事務次官論は矛盾するのだ。これは国際的格付けに対する説明なので嘘偽りなどあり得ないし、万が一嘘であれば、国際的に非難を受けているはずだが、そうはなっていない。

つまり一般に考える様な借金でもなく、将来の子供に付けを回す訳でも無いのだ。

もうインフレターゲット2%どころか、4%など目標を引き上げて、達成まではプライマリバランスは一旦置いておき、財政出動をしてでも戦略的投資をするべきでなのだ。

<成長あっての分配>

アベノミクスにより株価が上がったのは、一部では株を保有する富裕層のみが得をした様に論じられている。しかし、これは大きな間違いだ。株価が上がるという事は、将来に明るい見通しが見えてきたという投資家の評価であり、今でなく先行きの明るさを示す指標だ。そして、株価が上がる事で利益を得るのは、株保有の投資家だけでなく、年金も含めた資金運用が好循環する事で多くの人に見えない形で循環してくるものだ。金融所得課税で富裕層から徴税するつもりが、寧ろ大衆課税となってしまう実態が報告されている事からも分かる様に株価上昇のご利益は大衆が受けているのだ。

つまり、アベノミクスは将来の明るい見通しである株価までは効果を発揮したが、その見通しに沿った成長投資が不足、消費増税もあって足踏みしたと評価するのが妥当である。であれば、自民党総裁選で高市候補が公約に掲げたサナエノミクスによる成長投資が実現すれば成長軌道を描けるはずだ。

成長あっての分配。至極当たり前の話であるが、分配が先とする社会主義的発想で語る政策まで語る党が現れた。成長の無い分配は、パイの奪い合いでしかなく、分配から決して成長は生まれない。一定の富を分配する事で社会は停滞し、貧困に陥ることは壮大なる社会実験が実証している。成長が無い分配は効果を生まないのは既に常識である。バラマキの分配が消費を喚起し景気を刺激すると言うのも、将来に向けての成長が無ければ、消費ではなく死蔵に回る。

ましてや、日本の格差は諸外国と比較して大したことはないという報告もある。上位1%の富裕層が持つ資産はたかだか全体の21%程度で、アメリカや中国などと比較しても3分の1以下との報告もある。分配して潤うほどの富など初めから無いのだ。

従って、経済成長を成し遂げることで全てが好循環する。その為に規制緩和での成長投資。自由と民主主義を標榜する限り、現時点ではそれ以外に選択肢は無いのであり、本質的には争点となり得ようがないのだが。

異論排除の原理主義は害、両論の論理的な公開討論が社会の健全化に

選挙直前のネット空間で繰り返されている現象がある。それは、保守系と言っていいだろうか、政治系の情報発信にBANと呼ばれるコンテンツ排除、広告剥がしが頻繁化している。

YouTubeなどレギュレーションが厳密に規定されているとはいえ、各情報発信コンテンツは、かなり表現を意識してコンテンツ制作されているのが実態であり、それを逸脱しているとは思えず、踏み込んだ内容は限定公開などの方法が使われているが、それでも多くのコンテンツ規制事例を耳にする。

AIによる文言監視などとの説明も聞こえてくるが、ビフォーアフターで実験的に確認しているコンテンツの報告もあり、その様な単純な話では論理的な説明ができないのが実態である。

YouTubeなど民間プラットフォームで意図的な偏向行為、レギュレーションの操作が行われるとは思えない。勿論、反ワクチンなどの情報統制の要請に応える事はあるだろうが、自社で意思を持った統制を行う事は基本的にない。

総合的に考察すると、『報告』という形を取った、反対意見潰しとの疑惑が浮上するのだ。

<ヤフコメ問題の実態>

ヤフコメがネトウヨに占拠されていると一部で報じられて、社会的意義が無くなったという極論まで電波メディアで発信されている。

筆者自身もヤフコメは少々閲覧していた時期もある。その際の印象は、『あべがー』『ガースー』等、民主的に選ばれた人物に対する最低限のリスペクトもなく、呼び捨てで誹謗中傷する様な空間であった。その批判の中身も、事実に基づかない、感情的で非論理的な決めつけの内容が殆どで、しかも記事が上がった瞬間に、その種のコメントで埋め尽くされる印象が強く、冷静で健全な言論空間とは程遠い状態に感じていた。同時に、何故こうも素早く、しかも大量に発信できるのか、不思議で仕方が無かった。

余りの状態に、筆者も、事実のデータを示し、冷静な議論を呼びかけた事もあったが、議論どころか、意味不明の誹謗中傷の攻撃も経験している。決してまともな議論ができる空間ではなく、余りにも偏向し過ぎで、最近は閲覧もしていなかった。

そこに、『ネトウヨが占拠』との情報が耳に入り、極めて違和感があったが、確認して見ると、確かに昔とは少々違っている様に見えた。『ネトウヨ』の定義は不明だが、単なる感情的な誹謗中傷よりも、論理的なコメントもそれなりの数が見受けられる変化があった。この状態を『ネトウヨが占拠』と言うのならば、誹謗中傷のストレス発散の場に、少々冷静な意見発信が増える事を良い事と思わない、つまり感情論の持ち主は多様な意見に不寛容で、異論に対して攻撃的性向を持つ現れとしか思えないのだ。

それでも建設的な議論というよりは、両論のコメ主が並立している空間という印象だ。

<反論・異論の公開討論が健全な社会を創成する>

エコーチェンバーという閉鎖的な集団内での意見が増長していく現象をネット空間の特徴の様に巷では言われるが、電波系メディアの方がその傾向が強いのが実態ではないだろうか。両論併記を遵守するメディアはほぼ皆無だろう。放送時間等尺の問題もあるかもしれない、反論で収拾がつかない状態を嫌うのかもしれない。電波メディアでエコーチェンバー状態をもたらす重要な役割を、専門家やタレントコメンテイターが果たしている。画一されたコメントで埋め尽くされ、深く考えず、自身で1次資料も見ず、様々な意見に耳を傾けず、単なる感想を、番組の主張に沿って発言する存在が、あたかも世の中の主意見であるかのような印象操作で錯覚を視聴者にもたらす。

その中で、自民党総裁選が様々な意見を討論する重要さを思い出させてくれた。その後国会が開かれたが、やはり国会は誹謗中傷に溢れ、本質的な論争にはなっていない。

そういう意味で、ネットの言論空間が唯一、両論が存在し、討論できる場ではないだろうか。間違いなく両論は存在する。だが、現状残念ながら、お互いが交わり討論される様な事はそれ程多くない。本来、ヤフコメやSNSはその機能を担う筈なのだが異論をすぐにブロックして自己満足してしまう状態だ。

そういう意味で注目すべき事案が発生している。それは、ロンブー田村淳氏と作家竹田恒泰氏の選択的夫婦別姓における公開討論が行われる事である。

事の始まりは、田村淳氏が自身が賛成する「選択的夫婦別姓」に対してアンケートを取った所、自身の意見と異なる反対意見が多数を占めてしまい、あたかも反対意見を諭すように、反対して何の不利益があるのですかとアンケートを再度取った事に始まる。

個人がどの様な思想信条を持とうと、それを発信しようとそれは自由である。だから、最初のアンケートまでは何の問題も無く、その事実を受け入れれば良かった。ところが、自身の意見が通らない事に、異論を認めず、自身の影響力を行使して自意見に誘導する様なアンケートを実行した事で、多くの非難を受けた。

そして純粋に何が反対理由なのか、何が弊害なのか、それを知りたいだけ、公開討論を誰か受けてくれないかとの訴えに対して、竹田恒泰氏が名乗りを上げた形になって近々実現する様だ。

この『選択的夫婦別姓』は、イメージ先行でその中身があまり語られていないので広く周知されていないのが実態だろう。表向きは、結婚時の改姓によって多くの女性が不利益を被るという事由であるが、その実様々な弊害が伴う事が余り語られていない。最大の問題は戸籍制度の崩壊だろうし、子供の姓を決める為の係争が生じ得るのもリスクだろう。

勿論、戸籍制度には影響ない筈だとの意見も田村淳氏はお持ちの様だし、日本維新の会の様に戸籍制度を維持する選択的夫婦別姓を主張する意見もある。顕在化しない事象も含めてリスクがある事も主張しつつ、通称使用を拡大する事で本来の目的は達成できるとする自民党案(高市政調会長の総裁選時主張)が現実的であり、それでも不利益が生じる事例があれば対処していく事の方が現実的な落とし所とするのが竹田恒泰氏の立場だろうか。

『選択的夫婦別姓』に対して、「なんで自由に姓を選択できない」「男女差別だ」というイメージ先行の感情論は根本的に本質からずれているが、残念ながら現時点で巷の認知度はその程度である。田村淳氏にしても、そのレベルから推進派の意見だけを聞いて反応している様に書き込み内容を見る限り窺い知れる。是非、反対意見にも耳を傾け、視野を広げる機会にして欲しいし、影響力のある者同士の討論が公開される事で多くの人にも同様の周知が為されることを期待する。 あれだけテレビでゼロコロナ路線の主張を繰り返していた立川志らく師匠が、木村盛代氏と対談をした後、別人の様にゼロコロナはあり得ない様に180度変わられた様に、多くの人が異論に耳を傾け討論し、論理的な思考を取り戻すことが望まれるし、それが出来るのはネット空間だろうと確信している。

財務省の闇に対抗し政治は成長戦略に舵を切れるか

財務省の矢野康治次官の「文芸春秋」への寄稿が話題となっている。簡単に要約すると、国家の借金が増えており、プライマリーバランスが破綻して、今にも日本は破綻するという論。その様な状況での赤字国債発行、経済対策などは自殺行為であり、緊縮財政、増税路線を是と匂わせる内容である。

この論は、実は今に始まったものではなく、10年以上前から一部で囁かれていた。今直ぐ対策を打たないと破綻すると、しかし、何故かまだ破綻していないし、国際的格付け、信用も保たれている。とてもデフォルト、破綻が起こる国家として扱われていないのが現実である。

この矢野財務次官だが、この件以外にも様々な話題を振りまいてくれている。スーパーでの『ポリ袋ハンター事件』とでも言おうか、生もの等を個別に入れる無料のポリ袋を必要以上と思われる量を持ち去っている。

レジ袋有料化になった目的を考えると、このポリ袋も必要最小限に抑える事が必要だと、子供でも分かる事だ。スーパー側もこの種の行為が増加する事を問題視しているのも事実である。しかし、当人は、「商品は買っているから問題ない」と言わんばかりの発言までしている。官僚トップの立場として、あり得ない感覚の持ち主である事が窺い知れる。

またまた、噂レベルだが、この人物、目的達成の責任感の強さからか、目的の為には手段を択ばない様な噂もある。本来、官僚は法に則り、政治の決めた政策の方向性に沿った行政を執り行う。民主主義において、法や政策の方向性は政治家によって決定される。そして、政治側も現場の問題を熟知している筈の官僚の意見も吸い上げ、政策の方向性を定める。

ところが、この方、自分の考えを通すために、マスコミへ情報リークして世論を誘導するような行為が囁かれている。勿論、多くの官僚とマスメディアの持ちつ持たれずのズブズブの関係で行われている氷山の一角かも知れないが、テレ朝の玉川徹氏により匂わされた時点で、少なくとも説明責任が生じていると考えるべきだろう。そして、今回の月刊誌への寄稿である。責任を問われるべきではないだろうか。

<借金で破綻するは間違い>

借金というと一般人からは聞こえが悪い。イコール悪と扱われがちだが、浪費ではなく投資に向かう借金であれば、資産が残り、投資効果も期待できるという事が一般人にあまり理解されていない。

失われた30年と言われる時期に、緊縮財政に舵を切り、投資が減退する事で何が起きたかを考えれば明確なのだが。

企業経営の視点で言わせて頂く。古い機械設備を更新せず、騙し騙し稼働させれば、償却も終わった設備が稼働した分だけ目先の利益が増える。資材調達に関しても、非論理的なコスト削減要求を繰り返す事で目先の利益を生み出す。しかし、その結果何が起こるか。設備は老朽化し設備効率は落ち、品質も生産性も、時には安全性も低下する。サプライチェーン全体のデフレマインドを誘発し成長も阻害される。

本来であれば、設備は投資効果を前提に更新する事で、償却負担で目先の利益は圧迫しても設備効率を高め、長い目での成長を促進する。サプライチェーンも新たな開発投資で品質も含めた総合効果を目指す事で、生産性向上、利益拡大に繋がるのだ。

投資を減退させることは、資本主義社会において衰退に向かう以外に無いのが現実であり、それは国家でも同じである。

実際に自民党の高市早苗政調会長が10月10日の番組で真っ向からこの財務次官の論を批判した。

https://news.yahoo.co.jp/articles/093064d3e0d1c469c9af60f293b40cedb6562c01

その中で名目成長率が名目金利を上回る状況で財政は改善すると正論を述べた。

また、元財務官僚、嘉悦大学教授、数量政策学者である高橋洋一氏も真っ向から批判した。(緊急配信の為音声音量に不備があるが、聞こえる範囲でも充分に内容は把握できる)

簡単に言うと、BS(バランスシート)で国家財政状況を示し、財務次官がP/L(損益計算書)だけで説明しようとする欺瞞を非難している。

経営状態を評価する為に、BSとP/Lで確認する事は、企業人であれば、最低でも管理職になるまでに数字が読み取れるように教育を受ける。当然経理部門や、事業戦略系の部門ではこの数字が無くては、経営者が経営判断する際の判断材料提示が出来ない。

ましてや、日本は通貨発行権を有し、その円は国際通貨となっている数少ない国家である。

失われた30年は、成長投資を積極的に行わなかった事により、生産性が低下し、その間、成長投資し続けた諸外国との差が発生しているのが実態である。無論、何の意味も無くバラマキ、効果の無い浪費が良い訳では無い。しかし、投資の無い所に成長は無い。この原理原則を誤ってはならない。

今現在、実行するべきは、増税による財政再建ではなく、積極成長投資による成長促進であると確信している。この財務省からの攻勢に政治が大所高所に立った英断が必要になってきているし、国際社会は注視している。岸田政権が乗り越えるべき最初の難題であろう。

埼玉県でエスカレーター条例施行、目的は達成できるのだろうか

日本人は人に決めてもらわないと、自信を持てない傾向が強い。自分の頭で論理性を保った思考による判断が苦手で、無意味なルールが定められても疑わず受け入れがちだ。特に、安心だとか平等だとか平和という誰も反対できないキャッチフレーズをベースにしたルールには異議を唱える事を憚る。埼玉県の『エスカレーター条例』も同様と断じざるを得ない。

日本エレベーター協会報告では、2018~19年のエスカレーター事故が全国で1550件となっている。更に、その内訳は、手すりを持っていなかったり、歩行中につまずいたりして転倒する「乗り方不良」が805件(51.9%)となっている。

この1550件、或いは805件という数字をどう考えるか。勿論、安全第一の観点で対策を打つことに問題性がある筈がない。しかし、優先順位はどうなのだろう、また、歩行禁止による弊害が総合的に検討されているのだろうか。

ちなみに、交通事故は現在、過去最高の4分の1まで死亡事故を減少させるまでに至っているが、それでも死亡事故で4000人規模だ。その状態でも車を動かすな、自電車で走るな、とは決して言わない。

階段の事故も相当レベルで多い。統計データとしては様々な観点があるが、不慮の事故として死因のトップ10に入る程多いのだ。企業の安全対策、労災防止観点でも、階段の転落は絶対に見逃せない項目である。だから、下り優先、手すり設置などの対策が実施されるが、それでも階段を歩くなとは、絶対に言わない。

それでもエスカレーターを歩行禁止としたのだ。果たして歩行禁止でどれだけ安全性が高まるのか、その効果数値も発信されずにだ。その状態で、禁止行為に対して罰則の必要性に関して議論が為されている。何でも直ぐに禁止、直ぐに罰則、これが正常と言えるのだろうか。

エスカレーターの安全性を体感的にヒヤリハットで考えると、『降り口で立ち止まられての衝突』『隙間に挟まれてしまう』『ベビーカー、手押し車の取り扱い不備』『カバンなど幅広く保持され右側通行者が衝突、或いは避けての転倒』『左側乗降者の急な右側への移動での接触』『乱暴な通行者との接触』『スマホ見ながらの注意不足通行による接触』等が挙げられる。他にもあるかもしれないが、歩行禁止でこのどれだけが防げるのだろうか、他にもっと簡単で有効な方法があるのではないかと疑問である。歩くことが問題ではなく、乱暴に歩く事が危険であり、それはエスカレーターに限った話ではない。また、降り口での立ち止まりなどは、歩行禁止で寧ろ増える可能性は無いのだろうか。

元々、エスカレーターの右側を空けるのは、『急いでいる人の為』という達成すべき目標があった。現実に急いでいる人が存在する事は否定できないのに、公共の場では急ぐな、急ぐことが悪だ、罰する、と言って社会的に受け入れられるのだろうか。歩くことを禁止したとして、急ぐ気持ちを禁止する事など出来様が無く、余計にイライラ、ストレスは溜まるのではないだろうか。

車は、追い越し車線を急いでいる車が追い越しの為に使う。追い越し車線を無くせばいい、追い越しを禁止にすればいいでは社会環境は保てない。禁止すべきは『煽り運転』であろう。エスカレーターも同様では無いのだろうか。そして、禁止行為を明確にして、過失であろうとも注意対象とするレベルの話ではないかと考えられる。安全対策として打つべき手は、歩行禁止ではないだろう。

どうしても、歩行禁止にして、急ぐ人の廃絶を目指すならば、両側に立てば良いだけだ。何故か、多くの人は急いでいる人がいなくても、左側にしか立たない。どんなに混雑していても右に立たず空けている。こんな無駄をして、ラッシュ時の乗り口付近の混雑という危険な状態を生み出している。同時にその混雑は、急ぎたい人の通行を阻むパラドックスに陥っている。全員が左右バランス良く立てば、輸送能力が倍加し、混雑も少しは解消する。まずは、そちらを是正するべきでは無いのだろうか。

世の中には、目的を忘れてしまい、守る事そのものが目的化してしまっている様なルールが多数存在する。それらは、本来の目的達成が覚束ないだけではなく、弊害としてのリスクを生み出す。それどころか、そういうルールが乱立する事で、本当に守る必要のあるルールの優先順位、重要度が相対的に低下してしまう。

何の為にルールを守る必要があるのか、その事を一人一人が論理的に思考し理解する事で、現実には様々なイレギュラー事象が発生する社会活動においても、ルールの目的が達成できる。思考停止する事は、リスクを増大させる最大の要因なのだ。

自民党総裁選における党員党友票取り扱いの課題

事実上の日本国総理を選出する議会制民主主義に則った権力闘争である自民党総裁選が、岸田新総裁誕生で決した。その中で見え隠れする問題の一つである、党員党友票の取り扱いに関して論じたい。

指摘されている問題点を大まかに整理すると

  • 国民の声を反映する党員党友票をもっと重視すべきでは
  • 意思を持たない党員党友の存在
  • 不正投票の疑惑

これらを一つ一つ考察したい。

<党員党友票の反映する国民の声とは>

河野候補の惨敗、過去は石破候補の逆転敗退等、党員党友票で多数から支持される候補が議員票の獲得不足で敗退する捻じれ現象が発生している。マスコミでは、この党員党友票を国民的人気の指標として伝えていて、平時から次の総理候補の支持数として宣伝し続けている。これを国民的人気と称し議員票で引っ繰り返す事を、あたかも密室政治、派閥の領袖の闊歩による悪の様に語られる風潮がある。果たしてどうなのだろう。

河野陣営の反省の弁を聞いていると、あたかも国民の声を聞かない自民党体制の組織問題を原因とする、組織が改善すべき問題との声が聞こえてくる。しかし、その反省では他責転換であり、自己反省亡くして河野さんの再起は難しいと言わざるを得ない。本質的な問題に目を向け反省する必要があるだろう。

国民的人気を形成する要素は『知名度』であり、それは直接でなくマスコミを通じた間接情報によるものだ。ある意味タレント性であり、虚像と言っても良い。タレント性であればマスコミの操作でいくらでも売り出せるし、逆に落とし込めるのも簡単だ。所謂マスコミの伝え方のバイアスがかかった虚像であり、選挙でタレント議員が圧倒的に強いのは、間違いなく政策や能力ではなく知名度なのだ。反して、議員票は、直接働きっぷりを見て、人となり、下働きも含めた実績や考え方、能力を間近で見ている人達の評価である。勿論、そこには自己の損得勘定もあるだろうが、政策実行における損得勘定であれば健全であるし、各議員は政策実効性を選挙で国民の審判を受けるので、これを否定するのは、間接民主制の否定でしかない。

国政を委ねる判断として、『人気』と『能力』のどちらを主に評価すべきかは明確ではないだろうか?この部分を河野陣営は反省する必要があるだろう。

今回、高市候補は河野候補や岸田候補と比較して知名度は圧倒的に低い状態からのスタートであった。それでもネット界隈の人気は急上昇、エコーチェンバー現象の要素も強かったが、後半はそれを凌駕するほどの人気となった。投票日が1週間後であれば結果は変わっていたかもと思わせる急追であった。議員も認める政策の確かさ、説明力、人間的魅力も評価され議員票も躍進した。それでも人気面では大きく及ばなかったのが現実である。今後マスコミ通じての露出が課題となるだろう。

この様に考えると、党員党友票の扱い事態、歴史を重ね練られた現状だとの認識が正しいだろう。国民の声だからと短絡的に重視するのは、実態軽視のポピュリズムへ向かいかねない。とは言え、国民の声を聞くことが民主主義の基本である前提で軽率に取り扱うべきでないのも事実。現時点ではバランスを保っていると判断できても、継続検討、議論が必要だろう。

<党員党友とは>

企業や組織が団体で党員申請するような事があり、個人の認識なく党員になっているケースが指摘されている。旧態依然とした組織票至上主義や党員確保ノルマ等の結果だろう。また、全く政治に興味のない人にも党員資格が与えられてもいた様だ。つまり、党員党友とは決して自民党支持者ではないと言うのが現実である。しかし、それで良いのだろうか?

基本的に現在の通常選挙の勝敗を決するのは組織票の確保が重要で、浮動票の取り込みを課題としながら、明確な取り込み戦略が不足しており、この事は国民への説明不足にも繋がる課題なのである。だから地元密着の選挙活動が必要になり、不正の温床にも成り得るのだ。

では、どうすれば良いのか。党員はともかく、党友に関しては、もっとオープンに個人参加が可能なコミュニティにするべきではないだろうか。但し、反自民活動家が混入するリスクを低減する必要はある。その方法はいくつかレベル感も含めて議論は必要だろうが、広く国民の声に耳を傾ける姿勢としては大きな意味がある。

そういう意味では広報戦略でもあるが、組織票以外の浮動層にもうったえていく効果も狙える。自民党各議員の主義主張、政策提言、議員同士の政策討論の公開、党友参加のカンファレンス、場合によっては野党とのコラボで討論等の企画をネットや専門チャネル開設で実行し充実させる。そこの有料会員を党友とする事で、メルマガ会員等に対する無味乾燥な情報提供ではない、活きた情報提供が視聴者参加型で活性化し、浮動層の取り込みも可能となる。

いずれ訪れるネット選挙。その場合、必ず投票率が増える。浮動層の参加率が高まるだろうからだ。しかし、その分政治は不安定になり得る。今から、健全な情報提供環境整備を進める事はあらゆる意味で有意義だ。法的整備が必要かもしれないが、ネット社会においてあるべき法整備ではないだろうか。

そして何よりも、偏向報道に毒されない情報発信チャネルが確保され、支持率等の指標もより正確な数値分析が可能となるので次なる施策判断の基盤ともできるだろう。

<投票のセキュリティ確保>

米国大統領選挙にて、バイデンジャンプと呼ばれる事象が発生し、不正投票疑惑が囁かれた。筆者も当時論考しているが、本当に不正があったかどうかは知り得る訳は無いが、確実に言える事は、『やる気になればいくらでも不正が可能な投票であった』事である。そして、発生しているデータを自然発生の条件と照らし合わせて統計的に不自然な部分が否定できない事も示した。

だからと言って、不正があったとは言わない。しかし、不正が出来ない様に制度改革、仕組み改善する必要性があると共に、日本の選挙制度ではあり得ないと論じた。ところが、今回の自民党総裁選挙は、同様の疑惑が持てる仕組みであった。そうノンセキュリティの郵便投票だったのだ。

自民党総裁選の党員党友投票で不正があったかどうかは不明である。しかし、不正が起こらない、起こせない仕組みに改善する必要性はあるだろう。

今後、必ずネット投票や郵便投票などに向かう事は間違いないだろう。自民党内でまずはデジタルセキュリティを確保した投票の仕組みを構築すべきだろう。そんな何年かに1回の為に投資をするのかというネガティブ思考ではなく、日本の将来に先駆け先陣を走るデジタル投資として。前述の専門チャネルの認証と連携する形で構築すれば良い。当然、個人認証とする事で、反自民活動家による活動を防ぐ事にも通じる。

リスクを取らない事が最大のリスクだ

話題のCM『UQUEEN』のワンフレーズ『リスクを取らない事が最大のリスクだ』は、マーク・ザッカーバーグの名言を捩ったものであり、リスク管理の視点では究極の課題でもある。

実は、巷で吹聴される『ゼロリスク』志向の問題は、このリスクを取らない事によるリスクなのである。リスクというと後ろ向きのイメージを持ちがちだが、チャンスを掴むためにはリスクは必ず付随し、リスクゼロは、即ちチャンスゼロを意味する。また、リスクは一通りでなく、複数のリスクが共存し、そのバランスで全体最適を図る必要がある。一つのゼロリスクで語るのは愚の骨頂なのだ。

国家運営や企業、組織経営において、リスクは決して単一ではない。複雑に絡み合った環境で複数のリスクが相互関係も持ちながら存在するのである。従って、単一のリスクをゼロ化した所で、その結果生じる他のリスク増要因も現実に存在するのだ。本来であれば全体最適思考で全リスクを総合評価し、バランスが取れたリスク対応計画が必要になるのだ。

<ゼロリスクの弊害実例>

現在の新型コロナ対策を前に進ませない最大の負の要因が『ゼロコロナ』思考と言われている。政府分科会は、感染リスクばかり殊更喧伝し、行動制限、私権制限、自粛の必要性ばかり吹聴するが、一方で発生する経済リスクに関して一切論じない。言葉を選ばず言うと、『自粛させても金さえ渡しておけば良い』とでも言わんばかりに聞こえる。

実際、政府分科会は経済リスクなども総合的に分析する為に、経済の専門家も途中から加わっている。筆者は、この経済専門家が巷に発信するのが感染抑止策ばかりで、経済影響等の発信が無い事を批判してきた。しかし、最近になってこの経済専門家より、分科会で経済リスクに関して発言すると、「それは他でやって欲しい、ここは感染リスクを話し合う場だ」と言われ相手にされなかったと漏らしている。つまり、経済専門家は加わっていても意見の言えない状態で検討のバランスを欠いていたのだ。

経営の立場で考えて欲しい。自らの経営判断を行う為の、情報分析、整理する部門が偏った志向でバランスを欠く状態であれば、信頼できる情報とならず経営判断を誤るだろう。偏っている事を問題視し、バランスを図る為の人材を投入する人事を発動しても、抵抗勢力に囲われ期待の働きが出来ない状態であれば次に何をするべきか。

この抵抗勢力への対峙の仕方は、それだけで何冊も本が書ける内容でもあり、簡単に語れる訳では無いが、どちらにしても対峙して解消するのが最大の経営課題となる。

そして、休業した場合のリスクは決して金銭だけで賄えるものではない事ぐらい素人でも分かるはずだ。固定客の離反や取引先との信頼関係、設備の保全や老朽化防止、事業しているからこそ見える課題も埋もれてしまう等、事業を回しているからこそリスク対応ができる事項も多いのである。

政府分科会に話を戻すと、『コロナ感染リスク』だけを検討するだけでなく、『経済リスク、経済死』等もバランス良く評価する機能が必要になる。今の分科会がその機能を果たせないなら、権限者の行うべきは、人事刷新か組織改革でしかない。ましてや現組織構成員の様々な不正疑惑と説明責任を果たさない不誠実な姿勢が露呈しており、私であればスクラップアンドビルドして、判断できる分析情報が上がる状態に舵を切るだろう。

<日本型マネジメントPDCAがリスク管理でも必要>

リスク管理とは、考えられるリスクを評価する所から始まる。重要なのは、発生確率と発生時の被害であり、出来うる限り数値で夫々算定し、その積をリスクスコアとする。リスクスコアが一定数値を上回った時点で自動的にリスク対応計画を求め、リスク低減策が実行される。このリスク低減策には、当然ながら発生確率を下げる策と、発生時の被害を縮小する策と二通り存在する。低減策が実行された結果として、実際にリスクがどの様に変化したか再評価し、残ったリスクを残留リスクとして更なる低減策が必要か判断する。これがリスク管理のマネジメントサイクルでありPDCAなのだ。

勿論、これはマネジメントであるので、要所要所での経営判断、経営レビューが必要となり、時には経営の意思として、リスクスコアが低く評価されていてもリスク対応計画を求める事もある。これは経営の方針であるので、その様な判断がある事が寧ろ健全なのである。

この観点で新型コロナ対策を考えると、最大の間違いは、リスク評価を誤っている事だろう。特に問題なのは、発生確率を一切評価していない事だ。『かもしれない』ばかりで、可能性があるだけで、あたかも発生確率が高い様に訴え続けている事。これではリスク評価を間違いなく誤る。

同時に、リスク低減策を実行した場合の新たな発生リスク(経済リスク等)を同じテーブルで評価していない。そして極めつけは、PDCAのC、チェックを一切実行できていない事だろう。

実は、このPDCAサイクルとは日本的マネジメント手法である。それは、終わりなく、常に改善しながら回り続ける、季節感で言う春夏秋冬、死生観で言う輪廻転生なのだから、文化的にも日本文化が馴染みやすい筈である。大局的にある、終末思想、マルクスなど究極の理想郷を追求する思考とは根本的に異なるのである。

巷では、エドワーズ・デミングが提唱したとされているが、実態は、日本科学技術連盟が確立し、品質保証などの分野で日本型経営として定着させ、トヨタ生産方式、カイゼンを普及させ、『JAPANasNO1』で激賞されるなど世界の先頭を走ってきた。

その後、ISO認証取得の運用形骸化という問題もあったが、マネジメント運用に問題がある訳ではなく、マネジメントサイクルを回す事自体は見直されてきている。

資本主義社会として、成長を続けるために、経営の意思を込めたPDCAを回し続ける事こそ、新たなイノベーションも生み出し、継続成長を促し、同時にリスク対応も確実に行える基礎となるだろう。