自民党総裁選挙が示す日本の課題

自民党総裁選が公示され、連日論戦が戦わされている。本当に幅広い政策議論が新鮮で、それが故に数々の問題意識が呼び起こされている。

年金問題としながら、高負担高福祉路線の提案をする河野候補。過去に議論され、大幅増税の必要性から現実的でなく、現状の年金改革になっていると訴える他の候補。

エネルギー基本政策に現実的なバランスを考慮した原発の必要性を訴える岸田候補、更に新たな技術への開発投資に言及する高市候補、あくまで再可能エネルギーを主流とする脱原発路線を訴える河野候補。

国防問題で、敵基地無力化の必要性を訴える高市候補、岸田候補、『昭和の概念』と揶揄する河野候補。更に経済安全保障面含めた医療、サイバー、量子技術、半導体等積極投資まで踏み込む高市候補。

多様性、弱者差別問題解消を訴える野田候補、弱者に寄り添い問題視しつつ野党等提案の法案に潜む問題、選択的夫婦別姓法案における子供の人権、LGBT法案に対する性自任と差別禁止に潜む性犯罪増加リスクを訴え、慎重な議論が必要とする高市候補。

などなど、多くの国民の理解を呼びかけ、問題提起しながら、国民一人一人の思考を促している。気付かされるのは、議論の幅の広さだろう。

河野候補の極めてリベラル色の強い政策思考、人権や差別問題を重視するリベラル色の強さは野田候補。保守と思われていた岸田候補も国民の声に寄り添う姿勢を重視し、中道左派とでも言うべきだろうか。右翼だ、タカ派だと一時揶揄された高市候補の政策理念の幅の広さは右というよりは保守中道からリベラル的政策提言まで幅広いポジションだろう。

<総裁選の議論は本来国会で戦わされるべき>

本来であれば、この論争、議論は通常の国会で行うべきものだが、今の国会は、粗探しの足の引っ張り合い、レッテル貼りによる誹謗中傷、スキャンダルの追及に終始し、まともな政策論争が為されていない。野党勢力は否定するだろうし、批判するだけでなく対案も出していると主張するだろうが、国民に伝わっていないのは事実だ。最近の野党の発信は更に極めつけで、ダブルスタンダード、批判の為の批判、支離滅裂な非論理の繰り返しで、この人達が国会に居座り続ける限り、真面な議論が国会では出来ないと諦めざるを得ない気持ちにならされる。

しかし、自民党総裁選挙は一般国民に参政権は無い。広く政策を示し、国民の声を聞いた党員が間接的に候補者を選択し投票する事で決せられると同時に、今回の論争で既に発生しているが、お互いの候補の政策のいいところ取り等で方向性を修正していく手順で担保されているが、それでも直接民意を反映とはならない。

この構造、実は55年体制の自民党政権下で中選挙区制度に近い。民意により、政権交代は起きないが、路線修正を求める国民の声を示す方法があった。しかし、小選挙区制になって、投票行動で現実に政権交代が起き得る状態になっている。そうなると、方向性の修正を求めるが、政権交代ではなく政策シフトを求める国民の意思の反映方法が失われている。

自民党のリベラル色が強まっているのは、この小選挙区制において国民が望まない政権交代が一時のブームで発生するリスクを回避する為に、受け皿として幅が広まったのだろう。要は、現野党が真面な議論も出来ない、他を批判し、自身を絶対正義とする傲慢が故、政権を任すのは危険すぎるという層が多数であり、ここの是正が本質的には日本の政治の課題なのだろう。

事態脱却の唯一の光は、日本維新の会が地方政党色を脱却し、全国的なパワーを持つ事。或いは、国民民主がふらふらせずに、健全野党としての道を究めてパワーを付けていく事だろうか。その場合、本来的には現自民党の河野候補の様なリベラル色の強い議員は、外に出て戦う事なのかもしれない。

ただ、本音を言えば、同じことを繰り返しそうな想像しか生まれない。であるならば、中選挙区制に戻すのが、日本にとって民主主義を守る最大にして最高の方法かもしれない。

<偏向報道で情報弱者大量生産>

次に指摘する課題はマスコミ報道の姿勢である。

告示前、誰が立候補するか等の情報が、マスメディアとネット空間の両方で発信されていたが、内容が全く異なっていた。結論から言うと、正しい情報はネット空間側で、マスメディアの情報はガセと言ってもいい程だった。その後のマスメディアの報道姿勢も意図的と言っていいほどの偏向を極めている。

典型的は、日本記者クラブの候補者討論会だが、質問時間に偏りがあり、『4候補に聞いても良いか』という確認が小声で為された事からも意図的に時間配分を操作していた事が発覚している。当然認めないだろうが、結果の時間が全てである。支持率の調査も余りにも数字が違い過ぎて、どれだけ意図的な誘導が行われた結果の数字か窺い知れるのだ。

情報に普段から貪欲で、自分自身であらゆる手段を尽くして情報取得している人間であれば、より正しい情報入手は可能だろうが、現状では多くの人がマスメディアの情報以外に触れていないだろう。逆に言うと、マスメディアは多くの人に公平な情報を伝える責任があり、地上波メディア等は放送法で規定されているが、全く守られていないのが実態である。

偏向情報、所謂フェイクニュースは、ネットではなくマスメディアの方が悪質なのだ。

巷では、ネットの情報をフェイクと言い、騙されるなと注意する。これ自体フェイクニュースだ。ネットの情報は玉石混淆である事は間違いない、つまり嘘も入り混じる。だが、受け取る側の情報力で見極めれば良質の幅広い情報が入手できる。というより今や正しい情報はネットから取得する以外に方法はなく、しかも便利だ。

マスメディアの報道手法として、関係者へのヒアリングで特ダネを入手しリーク報道をする事がある。予ては、例え特ダネを入手しても、裏取りして正しいか確認するのだが、最近殆ど行っていないのではないだろうか。特ダネが、自分達が報じたい方向に適合していれば、無条件で発信する事でフェイクニュースが生まれる。

更に、誤報であった反省もしないで、繰り返していると常態化してしまい、無い話も少々盛りながら伝える事も横行し、遂には自分達の考えの方向に沿いそうでない情報は見て見ぬ振り、不都合な話を発信しそうな人には聞かない、という状態が現在ではないだろうか。

高市候補がNHKの改革を表明したが、総務大臣経験者でもあり電波法制にも手を付ける、或いは法律の厳格な運用を推進する事が必要な世の中になってしまっている。

恐らく、既得権益者の抵抗が厳しくなり、偏向報道が激しく批判に向くだろうが、この種の煽り批判が実現した事が無い事実を思い起こすべきだ。安保法制で戦争法案と揶揄、若者が徴兵、等は実現しただろうか。寧ろ、あれではまだ生易しく、アフガンの現地法人救出が失敗したのが現実だ。諜報活動も先進諸国と足並みが揃えられず、未だ不充分なのも一因だろうが、これも秘密保護法制の誤解で踏み込みが甘い妥協が故だ。

マスメディアからの情報しか入手できていない人は要注意だ。鵜呑みにせず、出来るだけネットなどの情報にも幅広く触れる様に心がけるべきだろう。

従来からネット情報を取得できている人は、更に幅広く、自身の思想信条に反する情報にも触れるべきだ。更に活字情報に触れると、切り取りでない深い情報が得られる。危険なのは、エコーチェンバー状態なのであくまで多様な情報に触れて、自身の頭で思考する事が重要になる。

首相公選制などの直接選挙を訴える人も多いが、現状では危険だろう。総裁選決選投票の党員党友票を1対1にするという案もこれに近しく、誤った道を選択する危険が増すだろう。国家の宰相は人気でなく、指し示す政策の方向性とそれを実行する個人の執行能力とリーダーシップによる組織牽引力のバランスで選ぶべきだ。一人でできる事は限られるが、リーダーシップがあれば組織で難題もクリアでき、政策も柔軟に実情に適合出来るからだ。

感染拡大と収束に関する仮説

第5波と言われるデルタ株による感染が収束してきた。専門家達は、この収束の原因を説明できない。説明できないから、注意が必要と意味不明の煽り発言まで出てくる始末だ。『5割の行動制限が必要』と言いながら、実行なく収束した事実の検証もせずにだ。

第5波に関して感染拡大時期には『制御不能だ』とも言っていた。制御できていた実績が無かったにも関わらずだ。『人流が~』と言うが、明らかに人流と感染の相関関係もない事は現実が示している。

『2週間の勝負』と言って、2週間後には前言は忘れ去って『これからが勝負』といつまでたっても金太郎あめ状態。

8月の降雨時には、『デパートは雨の日ポイントで寧ろ人が多い』と言って、感染増加の原因とし、収束し始めると『9月に入って天気が悪いので人出が抑えられた』と同一人物が言う。恥ずかしくないのだろうか?しかも、9月の天候不順の前から感染は収束し始めていたのだから、事実認識すら出鱈目すぎる。

どれだけ論破されても、次の瞬間忘れ去ってそれでも『人流が~』と言い続ける。これでは国家の危機事態に対して政策を誤らない為の適切な提言は行えない。

感染症の専門家は、スペイン風邪の終息すら理由付けができていない。風邪やインフルエンザに対する対処もこれまで有効性が高かったとは決して思えない。専門家は万能ではない証拠だ。

寧ろ素人がデータの真実に真正面から向き合い、変な専門バイアスに侵されず、普通の論理思考で分析し、仮説立てした方が真実に近い可能性があると、予てから発信してきた。昨年夏に電子出版した幣著『ファクターXの正体』で記した仮説が今も尚、論理的には成立しており、第5波のワクチン接種拡大後の陽性者数激増にも、同様の推論が成立しているのだから。

<第5波感染激増要因の仮説>

諸外国と比較して日本の感染者数が『さざ波』で収まっている、所謂『ファクターX』として、無暗にPCR検査を増やさなかった事を一番に挙げた。詳細は省くが、簡単に言うと検査の偽陰性者が間違った安心を得て、感染を拡大させるというメカニズムだ。

検査手法や科学実験の事を少しでも理解している人なら分かるはずだが、あの実験手法で白黒明確にする等無謀である。医師の臨床判断の助けとしてCT等他の検査と合わせて確定診断の為の活用、一定レベルの検疫検査、疫学調査の範囲に留めるべきだと分かるはずだ。いつでも、誰でも検査はリスク増大の方が大きいのである。

これと似た構造が、ワクチン接種者の間違った安心が今発生している。

ワクチン接種により、感染後のウイルス増殖を抑える効果があるのだから、重症化や致死率を下げる効果があるだけでなく、無症候感染や軽症の感染者を増加させる事になる。ワクチン接種有無に関係ない行動であれば、接種者の発するウイルス量はマクロで減少するのは間違いない。しかし、社会現象としてはそういう訳にはいかない。

自粛というのは、自分が感染しない為にするよりも、自分自身が感染者であると想定してウイルス拡散を抑える為に行う。そして、ワクチン接種有無は、ウイルス暴露を受ける確率に何の影響もなく、ウイルス拡散する確率にも影響はない。ならば、安心した行動がウイルス拡散に繋がるのだ。

つまり、PCR偽陰性と同様、ワクチン接種も間違った安心が感染リスクに繋がるのだ。

インフルエンザの減少をコロナ感染抑止行動である、マスク、手洗い、手指消毒等のお陰だとする考えが主流だが、筆者はそれだけではないと考えている。コロナ前後で、肌感覚で大きな変化を感じているのが、発熱、風邪症状等の人が市中や企業事務所で激減している事だ。昨年初めの頃でも、風邪症状、発熱しながら出社し、「これはコロナではなく大丈夫だ」と言い張る輩も存在したが、今は目にする事は殆どない。風邪が流行っていれば、身の回りで何人か有症状者を見かけていたのではないだろうか。今はいない。インフルエンザは発症後直ぐの感染性が高いので、有症状者が出歩かなければ、自ずと流行はしないのだ。

<第5波が収束した原因仮説>

昨年末頃の論考で、新型コロナの感染傾向を自然現象と論じた。拡大時期や、波と考えた際の幅、サイクルがほぼ一定で、ピークだけが異なる波形を示すのだ。つまり、人流に関係なく拡大する時は拡大し、一定サイクルで収束する。これを繰り返している。

人の社会的活動範囲は、実はある限られた空間でしかない。時空間を越えた活動をする訳でなければ、その空間内で飽和すれば収束するのが自然現象だ。下図をご覧頂きたい。

各領域範囲内で個人の活動が行われ、人との接種はこの範囲内のグループに限られる。濃い中心(最小が家庭)が密で、薄い周囲へ行く程、疎となる活動範囲があり、他の領域との共通範囲、重なりは僅かなのだ。この僅かを遮断するのが検疫ではあるが、すべて遮断するのは人間の社会活動上極めて困難なので、飛び火は一定数有り、伝搬していく。しかし、それもその範囲で飽和すれば自然に収束する現象だ。

活動範囲に大きな変化は無く、飽和するスピードも一定となるので、収束に転じる波の幅もほぼ一定になるとの仮説だ。あくまで仮説ではあるが、他に説明できる仮説が無く、否定できない限り仮説としては成立し得る。

<Withコロナ>

そうやって考えると、第6波は必ず訪れるだろう。そして、ピーク値は予測できないが、ワクチン接種が更に進む状況からは、ピークが高くなる可能性もあるだろう。しかし、確実に言える事は、それでも重症化率、致死率は大幅に減少する事だろう。

であれば、今までの様に必要以上に不安にならず、正しく恐れて正しく対処するべきである。

交通事故死を減少させる為に、車を廃止、或いは減少させるとは決して言わない。正しく、車には安全機能を開発し装備する。道路交通法で飲酒運転の厳罰化や煽り運転の罰則規定を法整備する。当たり前に行っている事を、新型コロナでも実行するだけだ。

ワクチン、治療薬の開発、国産化を進め、通常医療で診療できる様に5類相当に位置付け初期医療を強化する。それでも感染拡大に伴い重症者が絶対数として増加する場合にも備え、医療資源の全体最適が柔軟に且つ速やかに行える様にインフラと法規制を整備する。医療業界には自浄能力を高める為に事業継続やレジリエンス体制強化を義務化すると同時に実効能力の無い医師会組織解体、厚労省医系技官や自治体保健所等の体制も再構築。何と言っても、煽り一辺倒のメディアを電波法に基づく厳格対応を実行。2~3年なんて待てない、今直ぐ着手すべきだ。

それで国民は通常の社会生活を取り戻せるだろう。

行動規制緩和の科学的提言が出来ない分科会は解体以外に無い

政府よりワクチン検査パッケージによる行動制限緩和の提言が為されたが、分科会尾身会長は、緊急事態宣言解除後でないと行動規制緩和はあり得ない。議論すら緩みに繋がる、誤ったメッセージになると記者会見で答えた。いつまでこの様な発言を繰り返すのだろうか?

まず、緊急事態宣言が解除されたら、当然だが行動制限や酒類提供規制を実施する理由が無くなる。尾身会長の話を聞いていると、いつの間にか、宣言発出の有無に関わらず、日常的に行動規制実施が前提になっている。

政府発信と分科会の提言で内容が異なる、とメディアは指摘するが、当然であろう。分科会が提言した内容が全て政策として実現する等、あり得ない。いつのまに、分科会による専制政治を求める様になったのか、政府攻撃の手段に使うメディアもどうかしているが、その状態を許している国民もいい加減目を覚ますべきだ。

分科会の本来の役目は、現実に起こっている感染危機事態の実態解明が最優先のはずだ。何故なら、危機管理の入り口は危機事態の影響範囲、実態の把握だからだ。それなくして有効な対策は議論もできない。そして、実行した施策の評価、有効な手段と非効率的な手段を切り分けていく事も重要な役割だ。それらは、全て科学的アプローチによって為されなければならない。

例えば、酒類提供禁止での効果は評価されているのだろうか。一切聞こえてこない。実際にマクロ視点でデータを見る限り、酒類提供有無で感染状況に相関関係など確認できない。人流も同様だ。しかし、分科会や専門家は『緩み』『誤ったメッセージ』と精神論を非科学的に言い続ける。定量評価できない専門家はその時点で自ら退くべきだろう。そして、その様な専門家を利用し続けるメディアも混乱の責任を取るべきだろう。

『緩み』『誤ったメッセージ』が如何に根拠もなく、苦し紛れの言い逃れに過ぎないかという事は、言っている当事者がその対象者である事を示し続けている事からも分かる。

思い起こせば、有症状者が生放送に入りクラスターを発生させ、会食自粛状況で会食クラスターを発生させ、その後も会食のドンチャン騒ぎは後を絶たず、再発防止策もない。寿司会食や大規模パーティー開催、移動もしまくっている。間違ってならないのは、これらは世間沙汰になったほんの一部、氷山の一角である。つまり、『緩み』『誤ったメッセージ』を発し続けているのは、言っている当の本人達である、専門家、メディアであって、ダブルスタンダードの極みなのだ。

<ワクチンパッケージのリスク観点での問題性>

緊急事態宣言下でも行動制限を緩和できる可能性としての『ワクチン検査パッケージ』の効用を考察する。

宣言下という事は感染拡大が懸念され、医療が逼迫している状態が前提となるので、規制緩和は『感染リスクが低い』という理由が必要になる。この感染リスクは二通り分けて考える必要がある。『自分が感染するリスク』と『他人に感染させるリスク』だ。

『自分が感染するリスク』は、ワクチン接種で95%リスク低減できると言うのは実は考え方が違う。95%低減は事実だが、それはマクロで見た場合の確率であり、個々人のリスクとしては、個々人の状況によって異なるのだ。5%の確率であってもその該当する当事者にとっては、リスク低減されていないのだ。しかも、経時変化でリスクも変化するので個々には一律で語れないのだ。

未接種者も同様で、全員の感染リスクが高い訳では無い。個々人の免疫力は固有であり、中には感染により抗体を持っている人も存在する等種々の条件に起因するからだ。

次に、『他人に感染させるリスク』を考える。

ワクチンの効用を考えると、あくまで自分が重症化しにくい事が主眼であり、自ずと無症状感染者や軽症者が割合として増えるのは自明。発症前後が最も感染性が高いという新型コロナの性状から考えると、ワクチン接種の無症状者は寧ろ感染拡大のリスクを高める可能性もある。軽症が故、行動の幅が広がるから、安心するからこその現実であり、第5波の感染者数増の原因とする仮説すら成立する。

現在の陽性検出者の内、約8割がワクチン未接種者だ。これはワクチン接種の効果である事は間違いないが、市中感染の機会が接種有無で、接種有無同数だと仮定すると、6割相当の人達が陽性検出から逃れている計算になる。逃れていると言う表現は、同様にウイルス曝露を受けながら、恐らくは症状も無く検査対象にならなかったという事を示す。つまり、この6割相当の人達は感染拡大の一因を担っていると想定できるのである。

つまり、単純に人に感染させるリスクで言うならば、寧ろワクチン接種者の方が症状が軽いが故に、感染させるリスクが高まるとなり、ワクチン検査パッケージの目的をそもそも果たせなくなる。

間違えないで頂きたいが、ワクチン接種は大きな感染抑止効果がある。接種個人の重症化予防と社会全体でも一定率の接種が進めばマクロとしての安全性は拡大する。だからこそ、個々人の差を付けず、社会として行動制限は緩和されるべきである。その時点で緊急事態宣言なる状態から脱している事を意味するのである。勿論、それでも危機事態に陥る可能性は否定せず、準備として医療資源再配分の法整備を急げばよいのだ。

この状態でワクチン接種有無での行動規制の差を付ける事は到底容認できる内容ではない。

<ワクチンパッケージの他の観点での問題性>

そして、ここまでに示した要素を考慮に入れると、個人のサービス認証に使う事も不適切なのだ。個人認証とは、当該サービスを享受する資格を有する当人である事を示す方法であり、感染リスクが低い事を権利の要件とするならば、ワクチン接種有無では資格を有すると示す事が出来ないので認証手段としては不適である。

「この人はリスクが低い可能性が95%です」では、本来の認証ではなく、選別に過ぎない。銀行から預金を引き下ろす際に、「この人は95%権利を持った本人です」で取引を行えない事ぐらい分かるだろうし、認証を少しでも学べば自明であるので、何故専門家が異議を唱えないのか、専門家に聞いていないのか不明だ。

そういう意味で、唯一の可能性は抗原検査によるその場での陰性確認かもしれない。PCRでは時間差が容認できず、CT値も相当低く設定しない限りその場での真の感染リスクを表せない。その点、抗原検査であれば感染に必要な一定のウイルス量が無ければ反応せず、即時性も担保できるので「この人は感染リスクのあるウイルス量を保有していない」と出来る可能性はある。

マーケティング的にも、必ず発生する未接種者の壁、諸外国では70%の壁とも言われているが、30%の顧客を除外するという選択をする客商売が永続的に反映できるのであろうか。顧客マーケティングとして対象顧客との関係性を慎重に見極めなければ、一時的であろうとも重要顧客を選別した事実は、将来に禍根を残す結果にもなり得るだろう。

そして、最後にもしかすると最も重要な問題点は、個人情報保護、しかも要配慮個人情報保護の問題である。

要配慮個人情報とは、『人種、信条、社会的身分、病歴、前科、犯罪被害情報、その他(本人に対する不当な差別、偏見が生じないように特に配慮を要するもの)』であり、通常の基本情報よりも一段高い規律が求められるものだ。

ワクチン未接種の理由は正にこの条件に該当するであろう。理由を宣言する訳では無くとも憶測が定着化する現象を考えると到底容認できる訳がない。それがあらゆるところで、通常のサービスを受ける条件として晒されるのである。

1対1で情報が保持管理され、サービス提供者以外には漏れない、等という運用状態を確立できるはずが無く、学校での手上げアンケート取得などという問題事案も発生しているのだ。それこそ、対応するサービス提供者全てがプライバシーマークを取得するぐらいの運用体制が確保できないと到底守れないだろう。

故に、先行する諸外国では暴動や警察による暴行なども起こっているのだ。

<安全は技術・科学、安心は本来安全状態の周知で成立>

『安全・安心』は、小池都知事が豊洲市場移転問題で『安全だけど安心ではない』という趣旨の発言をしてから一般にも定着している。企業における従来の『安全第一』に安心が精神的要素として加わったが、現場運用的には安全を確保出来ている状態を周知し安心できる環境を維持すると言う意味合いで、安全を維持するマネジメントが機能すれば安心も達成できる内容だ。

しかし、メディアなどで声高に叫ばれる安心はその域を遥かに超えている。一人でも不安に思えば、その理由が何であれ安心が達成できない状況だと言い切る事が出来てしまうのだ。所謂、言ったもの勝ちの世界だ。そして、日常的に不安を煽り立てる。まさしく、不安な状態を作り出し、安心できないと批判する、マッチポンプなのだ。

そして、不安を煽る一役を専門家と称する人達が担う。

安全は技術的に確立でき、科学で立証できる。しかし、安心できないと言い切られてしまうと、対応の方法が無くなる。あくまで安全な状態を説明する以外に方法が無いからだ。

従って、専門家と称する人達が、『緩み』『誤ったメッセージ』等、精神論の安心に関する発信を繰り返すのは、論外であろう。過去の施策や状態の科学的検証が報告されていない時点で危機事態を把握する事が出来ていないと評価すべきなのだ。

やはり、分科会は既に機能不全状態であり、解体する以外に無いだろう。

デジタル庁発進、前途は多難か?

2021年9月1日、デジタル庁が発足した。電子政府が話題に上がったのは、もう昔の事、日本は諸外国に比べ政府のデジタル化周回遅れ状態に陥っている。国民の個人認証の基盤となり得るナショナルIDも過去幾度となくトライし暗礁に乗り上げた事だろう。今や、先進国の中でナショナルIDすら導入されていないのは日本だけという状況で、ラストトライと言われたマイナンバーも数々の批判を受け、未だ充分に普及しているとは言えない状況だ。

コロナ禍は、デジタル化の遅れを現実の問題として国民の前に突き付けた。給付金の支給遅れ、自治体或いは首長のリテラシー格差によるサービスレベルの格差、判断すべき統計データがリアルタイム集計・発信できない実態、バーコード読み取りすら出来ないでシステム忌避しながら自己正当化し政府批判に転ずる事を受け入れる社会環境、等。

市民生活はインターネットを基軸とし、Wi-Fiによる接続環境が充実、デバイスとしてのスマートフォン、タブレット、PCの一人複数台接続、家電も含めたIoT(Internet of Things)どころかIoE(Internet of Everything)へと進展している。

AI(artificial intelligence)人工知能は、ほんの数年前は夢物語の技術で極めて概念的な領域に留まっていたが、計算機能力の飛躍的向上により日常の中で普通に使われる技術になってきた。そして、間もなく量子コンピュータが更に飛躍的、否、爆発的な進化をもたらす。

量子コンピュータでは、従来のコンピュータが2進法で成り立っているのが、3進法に進化する。従来、16bitでは、65,536通り、32bitで43億通り弱なのが、量子コンピュータでは、32bitで1853兆通りとなり、たった32bitの世界で43万倍の処理能力を持つ事になる。64bitだと1861億倍と可能性はとんでもなくなるのだ。

この効果を享受するのは、デジタル化の浸透が前提である。そして、決して2番ではなく、1番を目指さないとこの成果を享受するのに大きな障害構造を生み出してしまう事も自明なのだ。

なのに、未だお役所は、FAXで情報交換しているらしい。バーコードすら読めないと恥ずかしげもなくシステムに責任転嫁する自治体も存在する。果たして、デジタル庁は、この問題状況を突破できるのだろうか?

<デジタル庁発進時の姿から見えてくるもの>

まず、デジタル庁平井大臣のメッセージを見てみたい。筆者が引っかかる言葉が「誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化」だ。極めて聞こえはよく、政治家的発信ではあるが、筆者には大問題発言に感じるのだ。

前述のデジタル化が進展できなかった問題は、ひとえに個々のリテラシーの差に帰結すると考えている。技術進展の著しい分野で、全ての年齢層、様々な個人の適応能力を考慮すると、同様の浸透を図る事は不可能なのである。もし、本当に全ての人を対象とした場合、最大公約数にレベルを合わせる必要があり、技術の進展に取り残される事になる。それこそが今までデジタル化が公的に進展してこなかった最大の原因ではないだろうか。

左派系反対勢力は、表向きは人権と平等を盾にして、進歩を批判し、殊更リスクを喧伝するだろうが、技術の進展が著しい場合は、着いて行けない人達へのケアは別途しながら、先端を走らなければ国際競争力を毀損する事に成り、回り回って全ての人のメリットが大きく目減りする事態に陥る。

そういう意味で、デジタル庁は、先端を独走する『トップランナー』になる必要がある。それが、「誰一人取り残さない」といった瞬間、出来る事はたかが知れてくるのだ。

本当に期待しているからこそ、厳しい言葉とならざるを得ない。

百歩譲って、最終的なケアも含めての「誰一人取り残さない」であったとしても、先端を走るメッセージが決定的に欠落している事は否定できない。

他にも様々な疑問がある。

その一番は、全省庁、自治体等のデジタル化統制を図るなら、実開発、実運用はどうやって責任を持たせるのだろうか。デジタル庁が単なるガバナンスを担うだけならば、政策投信とその実行監視、監査は可能だろうが、実務面での機能は今まで通りになり、強制力なければ大した変化は生み出せない可能性が高い。

実務面までデジタル庁が担うならば、一般企業で言う、情報システム部門の開発や運用機能、最低でもPM(プロジェクトマネジメント)やPMO(プロジェクトマネジメントオフィス)機能を持たねば何も責任持って動かせず、調達も出来ない。それは、丸投げでしかなくなるからだ。

この辺りは、まだ実態不明なので、期待値を高く持って、見守る以外に無いだろう。

そして、早急に取り組むべきはWebページの改編だろう。デジタル化を推進する部門があのコンテンツでは少々寂しい。華々しくトップを走って、各省庁着いて来いと、言えるコンテンツ開発は名実共に重要なのだから。

システムは道具に過ぎない、デジタル化も方法論でしかない。問題はその中身であり、何の為にやるかが重要。技術が発展する中で、その技術を最大限活用し、より良い社会に成長させていく為に、道具を変え、方法を磨く必要がある。原始時代に回帰しないで発展し続けるために、先端を走る牽引力、現場レベルに落とし込む実行力とそれを支えるビジョンが最重なのだ。

偏向する専門家に騙されない、データと事実に基づくワクチン接種の判断

ワクチンは若年層も接種すべきか、という問いに対する発信で公平な論述が殆ど存在しない。接種推進派と反ワクチン派は夫々に自分の考えを絶対正義として他意見を科学無視の印象論、レッテル貼りで攻撃を繰り返す。

勿論、厚生労働省や首相官邸ページには客観的な情報やオープンデータも提示されているので、その情報から個人が判断する事は充分に可能だ。しかし、その判断を惑わすマスメディアの一方的な発信が全てをかき消し、上書きしているのが実態であろう。

テレビに出演する専門家も同様である。交差接種に関して、政府が検討に入ったが、8月30日のある番組では専門家が「安全性が充分に確認されておらず時期尚早」と批判して見せた。デジャビュ―に襲われる感覚だったが、ワクチン接種開始に関しても、日本の専門家や野党が慎重論を発し、ワクチンのリスクを煽り続けた結果、政府として慎重な治験実施を決断し開始時期が遅れたが、後日諸外国と比較して接種遅れを批判しているのは同一勢力である。

交差接種は既に各国で議論が進んでおり、これを否定するなら、ワクチン接種自体の否定にも繋がりかねない意味不明の慎重論に思える。特に筆者は予てからウイルスベクターのチンパンジーアデノウイルスを1回目と2回目で同じモノを使用(スプートニクⅤは変えている)している事にメカニズム上の疑問を持っていたので、1回目アストラゼネカ、2回目にmRNAのファイザーやモデルナという選択は合理的に感じている。(単なる素人の感想であり疑問だがこういう事を論じる専門家がテレビ番組にはいない?)

その様な状況で、専門家のいう事を素人が鵜呑みにするのは極めて危険に感じる。その専門家を信用できるか、思想的に偏ってないか、セカンドオピニオンではないが数多くの情報、多様論に触れなければ判断しようがない。

しかし、素人でも判断する方法はある。それは政府などの発信するデータを元に考える事だ。データは決して嘘をつかない。但し、解釈の誤謬性はあり得るが、バイアスのかかった解釈による誤謬性を見極める事さえ出来れば、データそのものは決して嘘をつかないのだ。

<ワクチン接種の判断情報>

以前もワクチン接種判断の情報として発信したが、その当時まだ接種自体が少なかったので、続報の形で論じたい。

まず、ワクチン接種の安全性に関して、逆に言うとデメリット、危険性に関して確認したい。

ワクチン接種後の死亡例に関して、8月末現在で厚労省のページに掲載されている事例は、900件以上存在する。その中でワクチン接種が原因と特定された事例は1件もなく、圧倒的に多いのが「情報不足等によりワクチンと死亡との因果関係が評価できないもの」である。

この情報不足という表現が発生するのは、病理解剖もそうだが接種前の精密検査が無いので、ビフォーアフターの比較ができない事が大きい。考えてみれば分かるが、ワクチン接種前に精密検査を受けている事例なんてほんの僅かだろうからだ。

素人目に見ても、因果関係が無いと思われる事例も確かに含まれるが、逆にこれは何らか関係あるだろうと思われる事例も事実存在する。そして、数字には自然発生とは思えない不自然さが現れる事もある。接種後の死亡報告までの経過日数がそれにあたる。下グラフをご覧頂きたい。

接種後の経過日数が自然発生とはとても思えない分布を示しているのである。明らかに接種後1週間程度までに事例が集中しているのだ。64歳以下でも実数は少ないが傾向は同じである。

これをもって因果関係を立証は出来ないが、否定はできないという前提を持つべきなのだ。そして、高齢者接種実績との割合を考慮しても、明らかに64歳以下の報告事例は少ない事も特筆すべき事実である。

直感的に言うと、コロナ感染で死に至るのと同様、高齢者は副反応が強ければ体力的に耐えられないケーズも存在するという仮説も成立する。

従って、ワクチン接種によるリスクは確実にあると言っても良いだろうが、だからリスクが高いと言うのは短絡的過ぎる。100万人換算で言えば、全数直接起因だとしても、7.65人程度で、この時点で交通事故の死亡リスク23人程度と比較して3分の1でしかない。更に、全て直接起因ではない事は自明であろうから、更にリスクは低まる。最悪のリスクはその程度なのだ。

一方で接種のメリットは、感染によるリスクを低減させる事。

死亡率は、高齢者の60台で1.2%、70台で4.6%、80代以上で13.2%に至るが、これを95%防ぐ効果があるという事だろう。陽性率は実績で約0.1%だが、隠れ陽性含めて仮に5倍と想定し0.5%と設定すると、例えば80歳代以上なら100万人換算で約70人の死亡者が発生し、ワクチン接種でこの95%、66人程度の命が助かる計算だ。同様に70歳代では24人、60歳代で8人が助かるのだ。70歳代以上で、交通事故死以上のリスクからそれ以下に抑える効果があるのだ。

但し、50歳代、40歳代では交通事故死リスクのおよそ10分の1のリスクであり、30歳代以下では、ほぼ死亡リスクとしては算出範囲外なのだ。

数字で検討すると、高齢者はワクチン接種のメリットが上回り、交通事故死リスク以下のリスク低減が期待できる事は間違いない。体力的に無理がある、例えば看取りを決断せざるを得ない状況では接種は慎重に検討する必要があるかもしれないが、それ以外は基本接種推奨で疑い様がない。

しかし、30歳代以下の若年層ではどうだろう。接種の致命的なリスクは低い。感染による死亡リスクもほぼゼロ。数字上はそうなる。勿論、ワクチンの中長期的リスクは未知数だ。まさか5Gに繋がる等のガセ情報は別として、何らかのリスクは想定されるだろうが、交通事故リスクと比較して大きいと思うか否かが検討のポイントではないだろうか。

これらを表にまとめると以下の様になる

上表の数字は、想定比率の設定以外は現時点の事実である。しかし解釈は様々出来るだろうし、個々の事情に応じて判断は異なって然るべきだろう。個人の事情には社会活動を実行する上での制限や、職業上の事由、思想信条による事由、個人の健康状態による事由なども加味すれば良いが、それでも数字度外視では判断を誤りかねないだろう。

専門家に騙されるのも自己責任といえばその通りだが、出来れば自分自身で数字を見て、調べ、自分の頭で考える、それこそ自己責任であり、自由の原点なのだ。

今回題材として取り上げたのはワクチン接種の是非。筆者自身は積極推進派でもなければ、決して反ワクチンでもない。事実を示すデータ、情報を正確に読み取り、本当に是々非々の判断を不確定要素の部分も含め個々人が行うべきであり尊重されるべきと考えている。

ついに医療体制に対して強制力発動

いよいよ医療機関、医療資源に対しての政府、自治体の協力要請が始まった。遅すぎるという批判はあれども、必要で有効な策が打てる様になってきたと素直に歓迎すべきなのだ。

さざ波状態の日本の感染状況で医療逼迫が起こるという、当初からの課題でありながら、本質的な対策が打てず、国民の我慢を強いる緊急事態宣言を何度も発出するしかなかった。医療崩壊を検知する重要指標の一つである病床使用率は、分母が確保病床数、分子が入院者数なので、当たり前の対策として分子を減らす策と、分母を増やす策の両輪で検討される筈が、分子減少対策の一本足打法に終始する異常状態であった。

ようやく東京都と国が連名する形で医療体制強化策を打とうとしている。それなのに「ラクダと老夫婦」の例えの様に、批判する声は止まない。その声をざっとまとめると

・医療従事者は大変な状況なのにプラスの要請は破綻に追い込むだけ

・同様、折角頑張ってもらっているのに、公表までするのは如何なものか

・結局他の診療に犠牲を強いる事で国民の命は守られない

・政府の強権的なやり方は許せない

見事な誤認識の数々なのだが、一つ一つ確認していきたい。

まず協力要請をするのは、これまでコロナ対応の協力を拒んできた医療機関、関係者に対するものであり、現在コロナ対応に従事して頂いている方々に対するものではない。つまり、ここまで大変な思いをして支えて頂いていた医療関係者の負荷を、少しでも減少させる策、頑張っている方々を支える策なのである。

日本のコロナ対応は、これまで全病床の僅か数%の資源投入でしかなく、諸外国と比較して明らかに劣後していた。今まで何かと言い訳先行で協力が得られなかった、これは抵抗勢力と言っても過言ではない状態なのだ。国民の命と生活を守るためにようやく、ここにメスを入れ始めたのだ。

他の診療への支障だが、全体から言えば、所詮ほんの僅かの支援に過ぎない。何故なら年間1000万人罹患し1万人規模の死者が発生していたインフルエンザの医療体制があるはずなのだ。今まで新型コロナを2類相当に定めていた為に使えなかった医療資源を使えばいいだけなのだ。

それでも慎重を期して、専用病院などの箱モノを用意した方が効率的かもしれない。酸素ステーション等の箱モノも自宅療養者が本来入院まで必要がない状態で、精神不安定による不安感により、救急要請が発生している事に対するバッファ、不安の解消に効果はあるだろう。

実際に東京都議が発信しているが、都立病院のコロナ病床を増床し、近隣の医療関係者による体制を構築するとの事。NPO法人「日本ECMOネット」も全国の医師とネットワークを構築し死亡率の低さを維持するべく支えていくと協力に応じている。

昨年の大阪の専門病院に医療重視者の協力が充分に得られず、自衛隊派遣しなければならなくなった様な事態、直近での要請も全く受け入れてもらえなかった様な事態だけは避けなければならない。

そして、最後に強権的な政府のやり方に対する批判だが、一方で私権制限、強制力を伴うロックダウンの待望論、期待する声が高まっている事と矛盾、全く意味不明だ。国民生活の強制的な規制の前に、医療体制の強制的な構築の方が優先されるべきである。また、諸外国のロックダウンの効果が限定的であった事実も無視できない。この状態で、医療には強制を許さず、一般国民には強制すべきとは、支離滅裂すぎて意味不明なのだ。

<現状の新型コロナの実態>

ようやく東京都の新規陽性者の増加トレンドが変わってきた。これまでの傾向通り、感染ピークの度に、ピーク値は高まり、一定期間で自然にピークアウトする。少々特徴的なのは、予想をはるかに上回る陽性者数が検出されている事と、陽性検出者の内ワクチン接種者と未接種者の割合は1:10である事だ。

陽性者数の多さの検討は後に譲るとして、ワクチン接種の効果が陽性検出にも明らかに表れている。ワクチン接種なければ今よりも倍近くの陽性者が検出されていた可能性が高いという計算になる。更に、陽性率からの推定で、本来の陽性者数は現状ピークの4倍程度と考える事も可能なのだ。

ここまで増えると市中感染、ウイルス蔓延で、ほぼウイルス常在環境にあり、曝露は相当な確率で起こり得ると言っても過言では無い。

風邪やインフルエンザでも経験があるだろう。ウイルス暴露状態にあったから全員が感染する訳では無い。特に風邪は、感染したという意識よりも不摂生等の原因の方が感覚的には強いだろう。つまり、ウイルス暴露状態において、人間の初期免疫が負けた時に感染して発症するのであり、人間は風邪のひき始めを実感し、その時に徹底ケアをすれば概ね発症を防げるのだ。新型コロナでも同様ではないのか。

デルタ株の論文には、症状が従来と異なり、鼻風邪症状に似ているとの報告が為されている。コロナと思わない軽い症状が多数になるとどういう事が発生するか常識的に考えてみよう。今まで以上に初期症状状態、軽症者による市中のウイルス拡散が広まるのは自明だろう。感染力の強化を否定する訳では無いが、軽症状者による感染拡大と考えるのも今の陽性者数の多さを説明する妥当性があるのだ。

もう一つの傾向は、陽性者数と重症者数がほぼ同時に増減している。今まで、陽性検出から時間差をおいての重症者発生なのだが少し様子が異なる。重症化率は大幅減だが、陽性者数が大幅増なので絶対数としては増えており、重症病床使用率は東京都で70%近い状態だ。しかし、確保病床補償金詐欺でも無ければ満床では決してなく、重症者数が増えても死者数は増えない、陽性者数比で0.2%と諸外国と比べて今まで以上にさざ波なのだ。

これは、重症化しても死に至り難い傾向であり、これまでの重症者と少々状況が異なる。結局、初期医療が受けられる体制と不幸にも入院が必要な程の悪化をしてしまった場合の治療の医療資源拡充が為される事が、対策の全てと言っていいだろうから、今回の政策は大きな前進なのだ。

<自己防衛方法>

この状態でPCR検査をすれば陽性率は上がるのは当たり前だろう。常在しているのだから当然なのだ。それだけ、ウイルスは蔓延し、ほぼ常在化、誰でもウイルス暴露環境に居ると言っても過言ではなく、風邪と同様にコロナも普通に感染しうる状態なのだ。

その環境下で個々人が心がけるのは、今まで以上の「手洗いうがい励行」と「体調管理」であり「症状のある時は活動自粛」で、「風邪をひくな、うつすな」に尽きるのだ。

その上で発症してしまった場合も、必要以上に不安にならず、診察を受け、指示に従って療養する事だ。不安は身体に悪いのは間違いないのだから。

インフルエンザでかかりつけ医の診察、投薬を受け、家で寝ている際に高熱で苦しんでいても、不安に苛まれることはそれ程ないだろう。それは、インフルエンザと分かっていて、数日で収まると確信しているからだ。

コロナの場合、同じ症状でも不安に陥るだろう。報道から流れる情報は、最悪の事態ばかりだからだ。現実には、最悪の事態はほんの一部であり、レアケースである事を認識しておけば良いのだが、最悪のケースを標準の様に思わされていると、入院など必要のない状態でも入院を嘱望する様な不安を抱かされる事だろう。結果、メンタル面の影響での症状悪化だけでなく、医療逼迫に繋がってしまうのだ。

従って、正しい情報を正しく判断する事が自己防衛には必要不可欠なのだ。

総務省発表の「令和3年情報通信白書 コロナ禍における情報流通」によると、新型コロナに関して偽情報を入手した先として、ダントツ1位が「テレビ」で58.2%にも及ぶのだ。2位が「ニュース配信」の27.2%、3位は「SNS」の23.2%だが、その次の4位に「新聞」が19.4%と続くのだ。要は、ネット配信も含めたマスメディア発信情報にフェイクニュースが多いので、情報リテラシーを高め、騙されず、自分で調べ自分で考える能力育成が、不必要な不安を抱かず、正しく恐れ、自分自身を守る事に繋がるのだ。

ワクチン接種証明書無くとも経済活動再開は可能

新型コロナ分科会の尾身会長が「接種証明 議論の時期迫る」と以下の様に発信した。

・9月の末、10月中頃には希望者へのワクチン接種が完了する

・ワクチン接種が国民の7割になっても感染が下火になる事は絶対にない

・ワクチン接種や陰性証明書できた人の経済活動再開

まず、ワクチン接種完了はその通りだろう、今でもおよそ1日100万回のぺースの基本的な接種と、そこに職域接種の上積みが継続実施されている。マスコミや一部の自治体の言う、ワクチンが止まっている、という事はマクロ視点では一切発生していない。

8月18日時点で2回接種完了が49百万人38.8%、1回接種が64百万人50.3%、つまり2回目待ちが15百万人と言う計算だ。この後、仮に1日100万回とすると、10月中旬まで60日間で6000万回接種可能なので、単純に1回目2回目均等とすると2回目接種79百万人62.2%、1回目94百万人74.0%となる。これでほぼ希望者は完了でしょう。

ワクチンの作用は体内にウイルスが侵入した後の抗体反応であるならば、感染後のウイルス増殖反応を抑制する効果なので、メカニズム的には感染が下火になる事はない。その通りなのだ。

感染後の発症を抑え、重症化予防になる事は間違いないが、PCR検査では陽性検出され、マスコミ報道の新規感染者数に数えられるのだから、下火にならないのは自明だ。

但し、発症を抑えるという事は、他人に感染させるウイルス量以下に抑え、実行再生産数としては減少させる効果もあり、結果としての感染縮小、正確に言うと陽性検出数縮小になる事は予想される。

しかしよく考えて欲しい、インフルエンザも例年1000万人規模の感染者が報告されていた。それはPCR検査ではなく、発症した人が診察を受け、抗原検査の結果なのだ。もし、コロナと同様のPCR検査をしていたら、その何倍の陽性者が検出されるだろうか、計り知れない。夏季でもひょっとすると大流行があったかもしれないのだ。

以上の様に考えると、尾身さんの話はここまでは同意できる範囲だろう。しかし、次のワクチン接種や陰性証明書の出来た人の経済活動再開には真っ向異論がある。

<ワクチン接種証明書の目的は>

科学的に言うと、ワクチン接種しての効果は抗体生成量に依存するのであり、個人差がある。ワクチン接種は、YorNのデジタル判定だが、抗体生成量はアナログ値であり経時変化もある。だから、本来YorNで判定してはならないのだ。

従って、個々人のワクチン接種有無で経済活動への参加承認とするのは非科学的で非論理的なのだ。諸外国がワクチン証明やPCR陰性証明などを求めるは、宗教的文化的背景を考慮すれば、判断基準に曖昧さは許されず、白黒判定を求めるからだと理解すべきだ。しかし、日本は全く異なるはずだ。国際交流に必要だというのは分かるが、国内の施策に転用する意味が不明なのだ。

民間事業者が顧客を選別する事は営業の自由だ。従って、「喫煙者の来店お断り」「ドレスコードを守らない方の入店拒否」等は一般的にも行われており、差別ではない。それと同様に「ワクチン接種者のみ入店可能」とする考え方を主張する人もいる。それは自由だろうが、何の意味があるのか首を傾げるだけなのだ。

喫煙やドレスコードは顧客サービスの一環としての環境保全となるが、ワクチン接種有無は果たして感染リスク低減の環境保全になるのか。前述の様に、感染は抑えられないのだから意味が無いのだ。

この辺りの簡単な論理を取り違えるのは、自分が感染するリスクと他人に感染させるリスクを混同してしまう事、社会的規制と民間のサービス制限と混同してしまう事が原因だろう。はっきりと分けて考えないとリスク対応等語れないのだ。

間違って欲しくないのは、筆者の主張は、ワクチン接種証明など無くとも、普通に経済活動を再開させるべきだと考えている。それが出来るだけの効果がワクチン接種にある事は、重症化率や死者数のデータから明らかになっているのだからである。社会としての安全性は確保されるのであり、安心の為だけに非論理的にワクチン証明を求めるのは弊害が無視できなくなるのだ。

<他との比較でないと実態は見えない>

新型コロナに関して、他の病気と比較して語られるべきである。これまでは正体不明だったかもしれない。しかし、今やほぼ正体は見えており、臨床実績も積み上がっているので、他の病気と比較できるはずだ。

コロナだけ特別視している例は数限りなくあるが、いくつか確認してみる。「急激な悪化」がその一つである。当初は恐れられたが、肺炎症状がステルス性で進行し自覚症状少なく悪化してしまうというメカニズムも報告された。つまり、急変ではなく、悪化を自覚し難いというのが正確だ。ならば、自覚症状ではなく進行状況を正確に把握する事が必要になる。

対策としてパルスオキシメーターで酸素飽和度を観察、尿検査で確認する等の対策が報告されている。何より、医師が診察し適切な判断を下すのが何より最善策なのだ。ところが、未だに必要以上に「急速な悪化」と必要以上に正体不明と煽り続けているのは良くないのだ。

患者の意思での入院希望を優先する声が大きい。恐怖に煽られ、精神的にも弱った状態で、自覚症状が悪化すれば人間は弱気になる、症状も更に悪化しかねない。しかし、他の病気ではあくまで医師の判断の筈だ。

だから、町医者が普通に診療し、様子見なのか、投薬なのか、緊急入院なのか判断する必要があるのであり、素人の判断ではない。それが日本の医療体制の強みの筈だ。それを実践されているのが尼崎の長尾先生であり、この対応を後押しする為に5類相当への変更が有効なのだ。反対するのは患者視点が欠落していると言っても過言ではない。

そして「PCR検査絶対主義」も未だ特別視の典型事例だ。

PCR検査とは疫学的調査や科学分析に使われる分析実験手法であり、決して臨床診断に使われるものではなかった。確かに、強毒性の感染症の様に、隔離政策が基本になる場合は、有効なのだろう。しかしあくまで治療目的ではなく隔離目的である事を忘れてはならない。

これまで確定診断として臨床に使われていたのは、感染力のある発症者が保有するウイルス量に反応する抗原検査であり、新型コロナの初期はどちらかというと症状の進行を確認するCTが使われている。現場の臨床にPCR検査は必要ないのだ。「PCR検査絶対主義」の弊害で、患者への医療措置が遅れるのである。ここでも、抗原検査で早期に確定診断し投薬等の措置を行えば、確実に早期医療となり、他の病気と同様在宅療養で重症化も防げるのだ。

<終息に向けて>

それでも、冬季にはまた感染が拡大するだろう。発症すれば医者にかかり、抗原検査で判定され、医師の判断で治療される。発症者は、出勤や活動は一定期間停止する。などなど、現行のインフルエンザと同様の対応にすればよい。

ワクチン接種で、重症化、致死率は大幅低下している。感染が爆発的に拡大しても、現時点の数で言うなら年間1000万のインフルエンザやそれ以上の風邪と同等以下である。致死率もインフルエンザと同等以下になってきた。ならば、ワクチン接種証明書なんて不要、普通に社会活動を活性化させるべきなのだ。

そして、3回目のブースター接種というよりも、ある程度の定期的接種の目途が立つだろう。インフルエンザと同様の体制になれば、変異やワクチンの効果期間など関係なく、収束でなく終息となるだろう。

現在のインフォデミックは歴史の教訓「五つの教訓」に反する所業だ

最近の報道、メディアの姿勢などに憤りを感じ、危機感を持っているが、名著とされる『昭和史』(半藤一利著)の指摘する教訓に見事なまでに合致する所業である事を改めて確認した。

本著は戦前の過ちを再び犯さない為の原則、歴史の教訓として「五つの教訓」が述べられており、それを要約すると以下の様になる。

  1. 国民的熱狂をつくってはいけない、そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命である
  2. 最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。すなわちリアリズムに徹せよ
  3. 日本型タコツボにおけるエリート小集団主義の弊害を常に心せよ
  4. 国際的常識の欠如にたえず気を配るべし
  5. すぐに成果を求める短兵急な発想をやめろ。ロングレンジのものの見方を心がけよ

(『そして、メディアは日本を政争に導いた』半藤一利/保阪正康 東洋経済新報社刊)

1の国民的熱狂は、朝から晩までニュース、ワイドショーで新型コロナに関して危機を煽り続け、恐怖の熱狂を生み出している。テレビだけでなく、それをスポーツ紙や夕刊紙が文字起こししてネットに拡散、新聞や通信社まで誤報捏造何でもありの危機煽り一辺倒。そして何より、それに反する情報発信に対してバンと呼ばれるコンテンツ削除やアカウント停止が頻繁化し、言論の自由を侵害しようとしている。トランプ氏のアカウント停止は記憶に新しいが、他にも様々な実例があり、恣意的、偏向的としか思えない状態になっている。

2の抽象的な観念論も五輪に対する反対攻撃は正にその通りである。命と五輪の何方を取る?と比較できない要素による脅迫観念の繰り返し。冷静に考えれば、五輪を取っても命を失う訳では無い事は自明、感染数という結果でも五輪の影響が本来出始める開幕から2週間後から東京都の感染拡大は頭打ちになっている。今までも人流と感染の関係をマクロ視点で見れば相関関係にない事は明らかだが、その様なリアリズムが通用しない。

3のエリート小集団は、分科会や専門家と称する方々の発信。中には、単に学術的に推論を提示しているだけの場合も見受けられるが、メディアによってその単語を切り取り、金科玉条の如く専門家の意見と発信し、テレビ出演の専門家と称する人達は、非論理的な煽りを繰り返す。冷静に時系列で発言をつなぎ合わせると、如何に論理矛盾の発言をその場しのぎで繰り返しているのか理解できるはずだ。

4の国際常識は各国の感染状況との比較、長所短所の分析が冷静に出来ない。他国から見た時に死者数の少なさで日本の状況は穏やかに見えているにも関わらず、何故か大騒ぎ。五輪に関しても、国際公約という観点を持てず、身勝手な中止論を振りかざす無責任さ。他国視点では、日本で良かった、日本でなかったら出来なかったとの称賛は止まないが、未だに悪夢を生み出すと国際感覚とズレた認識を発信し続ける。

5に関しては、常に短期的視点でその場の揚げ足取りの連続。ワクチンに関して、ワクチン慎重論を展開し、副反応のリスクを殊更拡大評価していたにも関わらず、接種が順調に進むと、ワクチンの確保、接種が遅れていると攻撃。1日100万回を目標に掲げると、そんな無理は自治体が対応できないと批判し、実際に100万回を超えると、ワクチンが来ない、停滞していると言う。テレビではワクチン供給は止まっていると批判するが、その時点でも100万回は平均で遥かに上回り、ピークでは200万回まで記録しているにも関わらずだ。

何と「五つの教訓」の全てに反する行為をメディアは見事に繰り返しているのだ。

<教訓に違反する事案例>

そして、その極みとも思える事件が発生した。テレ朝の大人数カラオケ泥酔深夜の転落事件である。

この事件はメディアがあり得ない行為と言い続けた「長時間」「大人数」「飲酒」「カラオケ」の全てにおける違反を行った事件であり、自社の行動を棚上げした身勝手さが問題である。そして、初犯ではなく過去にも同様の違反行為でクラスターまで発生させている。その際、再発防止のための検証をして真摯に取り組むとワイドショーでは発言していたが、その結果は説明されず、今回も同様の発言を繰り返している。昔の事を視聴者は忘れている前提で、その場しのぎの反省の振りして、やり過ごせばそれで良いと考えているとしか思えない。

そして、それ以外にも分かったのが、救急搬送は確実に行われたという事実。救急搬送が機能不全に陥っているとの報道があったが、東京都議員から東京都の救急搬送に報道される様な搬送出来ない事態は発生していないとの、現場確認した上での発信もある。何を根拠に救急搬送先が見つからないと報道しているのだろうか。

断っておくが、発覚した事件は氷山の一角に過ぎないはずだ。ハインリッヒの法則によると、発覚した何倍、何十倍もの事案が水面下に潜んでいるのだ。その全てを洗い出し、再発防止策の説明責任、組織としての引責が必要であり、それまでの間、同社グループ内の報道・ワイドショーは全て放送自粛すべきだろう。そもそも、自分達が他人に要求してきた事なのだから自分達がやってしまった時には、必要以上に厳粛にやるべきであろう。

是非、その場しのぎに騙されないで欲しい。

昔、経験したが、生徒や父兄に大変人気のある教師がいた。生徒の悩みに耳を傾け、何でも相談に乗ってくれるという評判だったが、ある日、優秀な生徒が出現した瞬間化けの皮が剥がれた。それは今まで何でも相談に乗る様に見えて、何も具体的に進める事はしない、単なるリップサービスだったのだ。優秀な生徒が、本当に悩み、前向きに改善する為に、具体的に実行プランを自分と教師に依頼する分含めて計画立案した瞬間、逃げたのだ。その生徒は、そのプラン通り計画を確実に実行したが教師は全く何もやらず、梯子を外した。リップサービスに騙されてはいけない実例だった。

<現状のリアリティ>

今再び、予測のシナリオが発信された。現状を実行再生産数1.7と想定し、3割削減では下げ切らず、5割減で僅かに減少出来るとの事だ。

当たり前だろう、1.7の3割減は1.19、5割減で0.85なのだから算数が出来れば言われなくても分かる。何より、3割減とか5割減と言う発想は、人流ありきの発想でしかない。人流があれば感染するのが基本だと言うが、他の諸条件の方が遥かに要因としては大きいから、人流との相関は今までの所示せていない。GoToとの関係も示そうと調査した論文も、結論は『相関関係があるとは言えない』である。いい加減に認めたらどうかと思うが、観念論と狭い世界の常識から脱する事が出来ていない。

リアルに発生事象と統計数字を見る限り、ワクチン接種がレジュームチェンジの鍵になるのは間違いない。しかし、PCR検査の陽性判定は減らない。何故なら、ワクチンはウイルスそのものを撲滅させないからだ。従って、ウイルス蔓延状態における、曝露は防げないと考えるべきだろう。

従って、個人に要求すべきは、曝露しても感染しない予防策、他人に感染させない対策が全てなのだ。人流減や行動規制ではなく、風邪をひかない、ひき始めに徹底ケア、そして他人にうつさない、即ち健康管理の徹底なのだ。

人流制限に求めるのは、医療資源の再配分、流行状況に合わせた柔軟な体制強化を図り、初期医療の充実と、重症者対応力強化を1年以上怠っている言い訳でしかない。

東京五輪無事閉幕、そしてメディアの暴走が再開

東京五輪が無事閉幕した。

多くの感動を生み出し、同時に多くの悔しさ、次につながるドラマが生まれた。五輪は、他の国際大会と比べても、難民も含めた多くの国家、民族の出場選手が参加し多様性が尊重されている。開催種目も、単一で企画として成立するメジャースポーツだけでなく、多くのマイナースポーツ、地域性にも考慮した種目により、種目の多様性と、その普及に大きな効果がある。これらは横のつながりとして成立する。ノーサイドの精神はラクビー特有のものではなく、全スポーツに共通する事が各種目戦い終わった選手たちの姿や閉会式でのアスリートを見ても分かる。明らかに大きな効果を生み出した。

そして、縦のつながりも同時に生み出せた。本来直接観戦できれば良かったのだが、それでもリモート観戦を通じて、多くの子供達に感動の実感を与えられただろう。また、ミュンヘン五輪から長年の課題でもあった不幸な現実、不運な選手達への気持ちを伝える等、歴史の流れの中での課題に向き合い逃げずに立ち向かい乗り越える、そういった精神も次につなげた。何より、東京で途絶えさせなかった事に安堵させられた。

その結果、世論調査では開催前は反対が大多数だった状況から、大勢の開催して良かったという声に変える事が出来た。

これらは、多くの縁の下の力持ち、大会関係者の方々の献身的で前向きな働きによるものであり、素直に感謝を申し上げたい。本当にありがとう。

私自身、学生時代はアスリートとして戦ってきて、指導者としても多くの子供達と競技に向あってきた経験から言わせてもらうが、大会を開催する為に、多くの人の力が必要なのだ。国際大会であれば尚更だ。

しかも今回は、何か悪い事でもしている様な謂れなきバッシングを受けながらの事だ。辛かっただろうし、厳しかっただろう。こぼれ聞く話では、状況変化や追加施策など、毎日の様に要求が変わり、その為の対応は相当な激務、ブラック状態であったのも事実の様だ。

その様な状況でも全力で支えるという気持ち、アスリートや競技に対する想いが強くなければ完遂出来なかっただろう。

確かに反省点や改善点なども多かっただろうが、それは何をしても、否、大仕事であればある程多いのは間違いないが、それは次の課題への前進なのである。何より、成し遂げた成果は計り知れない。

反対するのも個人の自由であり、思想信条はそれぞれに尊重されるべきだが、この大きな成果を挙げ、絶やさず次へつなげた業績を、無きモノにする事は出来ない。ましてや「瓦礫の山」と貶す論等は、決して受け入れることが出来ない。

嫌いであれば嫌えばいい、嫌なら嫌で、反対でも良い。しかし、純粋に成し遂げた業績に一定のリスペクトを持てないのなら、単なる難癖でしかない。これは、自らを絶対正義として、見下す姿勢が産み出す所作でしかなく、決して許せない。

メディアは開催前、総じて反対の論陣を張った。これでもかというぐらいの攻撃であった。命と五輪の何方を取るのだという、無茶苦茶な無理筋論も、声を揃えて同様に発信する事で無理を通してきた。

開幕後、掌返しの五輪報道で埋め尽くされた。結局、視聴率が取れれば何でも良いというメディアの節操の無さであった。五輪反対の影響で、スポンサー離れまで発生したのだが、それでも目先の視聴率稼ぎを正当とする、反省心の無さを露呈している。即ち、五輪後は再度の掌返しで煽り一辺倒に戻るのだろう。

「司法」「立法」「行政」に次ぐ、第四の権力としての力を歴然と持つ「情報」であり、その担い手である「メディア」だが、一部の左派勢力からは、権力監視という役割を持つのがメディアであり、五輪報道をポジティブに実施した事を政府批判の姿勢を忘れたと批判する論も出ている。しかし、それはメディアに絶対正義としての独裁を要求している様にしか感じない。

第四の権力である時点で、相互監視の対象であり、他の三権を監視するのなら、他の三権から権力行使の監視と牽制を受けなければならない。それを絶対正義で何でも叩けるとした時点で、他を上回る絶対権力となってしまう。そんな簡単な論理も分からない様だ。

健全な相互監視であれば、是々非々でなければならない。ダメな場合は糾弾する必要があるだろうが、良い場合に後押しをする事も重要な相互監視なのだ。何が何でも批判、是とする事は見て見ぬふりの報道しない自由では責任ある権力行使ではなく、「ラクダと老夫婦」の例えそのままのクレーマーでしかない。

「情報」事態が、第四の権力として力を持っている事は誰も疑わないだろう。しかし、その権力を執行する「メディア」にその責任感があるとは到底思えない。視聴率は重要だろう、スポンサー契約もなければ経営が成り立たない。しかし、それだけでは権力行使者ではなく、単なる娯楽企画推進企業、興行関係社でしかない。

第四の権力「情報」の健全な姿への変革の為には、放送法の改正と厳格化、電波権益改革などが必要不可欠だろう。

だが、その健全な方向に向かわせるエネルギーは、逆説的に言うと、そういった踊らされた視聴率を生み出さない、是々非々の健全な議論要求する国民が少しでも多くならなければならない。感覚的、感情的に踊らされ、妄信する空気によって世論を形成させない国民である必要がある。

その為には、教育は重要である。それも論理形成力の直結する理数系の力を育成する教育が。周りを見回しても、数学や科学などを不得手とする人が極めて多く、本人自覚していないだろうが、論理性を保てないのだ。

本当は、国語や社会等の文系科目も論理性が重要なのだが、学校教育では論理よりも記憶科目となっていて、本来の姿である、読解し、誤謬性なく表現したり、歴史の流れを読み解く等は、極めて論理的なのだが、記憶科目化する事で失われているとしか思えない。

第四の権力「情報」は、自国で制度整備をしないと、他国からの影響を受けやすい。それは、意図して他国から世論形成が出来、社会不安に陥れる事も可能という事になる。即ち、国防上の脆弱性にも繋がるのだから、それを防ぐ教育改革と情報制度改革はこの先の重要な国家課題なのだ。

リスク管理視点で考えるコロナ感染出口戦略

危機管理とリスク管理の違いを理解しない、間違った認識が拡散されている事に大きな危機感を感じていると以前より申し上げて来た。繰り返し言うが、危機管理とリスク管理は根本的に違うのだ。

リスク管理とは、将来発生しうる危機状態を予め予測し対策を講じてリスクを受容レベルに低減する事を言う。発生しうる危機状態はリスクを何らかの数値化をする事で評価されるが、一般的には、危機が発生しうる確率と発生してしまった場合のダメージ度合いの積で表される。そして、リスク評価値が取り決めた閾値を上回る状態が確認された場合に、リスク低減対策を実施し、閾値以内に抑える状態を維持するのだ。

従って、対策は発生確率を低下させる策と発生した際のダメージを軽減する策と二通りあり、目的を明確にする必要がある。

そして重要なのが発生しうる危機状態としてどこまでを想定するのかという観点である。考えられる最大限というのは根本的にあり得ない。最大限というのは際限がないからだ。記憶に新しいのは東日本大震災時の津波が想定外だったという言質に対しての様々な批判だ。この件も正確に検討経緯を確認すると、決して想定外ではなく、科学的に検討した結果、発生確率や対策内容等の条件より想定しないという判断をしている。つまりリスクとしては受容したというのが正確だろう。極論言えば、巨大隕石の衝突を想定する訳も無く、リスクとしては受容せざるを得ないのと同じだ。

一方で、危機管理とは、今現在発生している危機事態に対して対応する事である。

即ち発生してもいない危機に、かもしれないと可能性で対策を打つ事は危機管理ではあり得ない。

危機事態と認識、判断された時点で、最初に行うのはその危機の波及範囲、実態の確認である。事実何が起こっているのか、どこまで。そして次に、その危機を危機状態でなくすための具体策を実行する。危機を回避する事が最優先される為、危機状態である事の宣言が必要不可欠になる。

例えばの事例で説明しよう。

大切なお客様とのゴルフの約束が明日。日常よりかなり早起きが必要だが、連日の激務やプライベートのトラブルもあって疲労困ぱい、寝坊の可能性もある。寝坊すれば、大切なお客様を怒らせてしまうので、リスク管理策を実行する。強力な目覚ましを用意、出来うる限り早く寝る等は発生確率を低下させる策。万が一の場合に備え、緊急時にお客様に連絡が出来る様に携帯番号を確認しておくのは発生時のダメージ軽減策。そして、不幸にも寝過ごしてしまった時点で、危機事態発生となる。時間を確認し、スタートに間に合うか否か状況を整理し、予め準備した連絡手段で状況を連絡し、あらゆる手段を使って現地に向かい、謝罪から入り、先方に対して最大限の誠意を示す。そうやってお客様の怒りを鎮めるのだ。

参考までに、よく言われる事業継続計画(BCP)とは、事業が継続困難になる危機事態をリスクとして想定し平時より対策を実施、危機事態発生時に事業として何を優先して継続し、何をやめるか、予め方策含めて計画しておく事である。

実は、東日本大震災後、事業継続計画の取り組みの遅れを認識し、経営課題として多くの企業が取り組み始めている。政府も同様の戦略を持ち、特に医療介護業界に対しては、大きなリスクになり得るとして取り組み強化を業界に訴えかけていたが、業界として殆ど対応してこなかったのが現実である。医療逼迫や医療崩壊はこの事業継続困難事態に当たるので、取り組んでいれば、今の事態は未然に防げていたと残念でならないのだ。

<リスク状況が変化すれば対策も変化する>

さて、リスク管理の視点から、政府の発信した対策変更、自宅療養へのシフトに関して考察してみる。

医療崩壊という危機事態を発生させない為に、直接の管理指標値としては病床使用率がある。正直に申し上げて、現時点で50%前後であれば決して危機事態とは言えず、リスク管理策の実効性を高める時期である。

本来資源として50%も余らせるのは、経営視点からも疑問ではあるが、それは置いておくとして、この数値を低減する施策を検討する。真っ先に考える必要があるのが、分母の数字を増やす事、即ち医療資源を増強する事なのだが、この1年以上国家予算を潤沢に用意して要請しても大きな成果は得られていない。原因は追究必要だが、事ここに及んで分母拡大が期待できない前提に立つと、分子の数値を減少させる以外に方法が無い。

つまり入院患者数を減少させる方法になる。これまでは、陽性者数を減少させる方策に拘っていたが、本来のリスクである死者数や重症者数の減少にも繋がる事もあり、今まではそれでも良しと出来たかもしれない。しかし、重症化数、死者数激減により、リスクの構造が大きく変わってきている。つまり、陽性者が多くても、本質的なリスクは高まらない状況になってきた。

新型コロナの直接的リスクは大幅に低下したのが現実なのである。ワクチン効果や変異による症状軽減などの要因が考えられる。

しかし、残存リスクもある。陽性者が急増する状況で、陽性者が原則入院となると病床使用率の分子を拡大させ、病床の逼迫が生じ、医療の負荷を高め、間接的に医療崩壊に向かうというシナリオである。従って、大半を占める無症状者、軽症患者で病床を埋めるのは得策ではないという判断は適切であろう。

但し、であるならば本来は、2類相当から5類に変更するべきなのだ。現実的には1歩前進の策ではあるが、政治的折衷案としての妥協であり、本質的には誤魔化しの感は否めない。

野党や過激な専門家は猛批判、暴言まがいの発言を繰り返しているが、では対案はどうしようというのだろう、論理的で具体的な説明もない。特に確保病床など医療資源の拡充を図るのは、医療業界の役割なのだがその策を棚上げにしての批判はあり得ない。また、中等症の解釈など、騒動のきっかけとなった毎日新聞が誤報と認め訂正しているにもかかわらず、いつまでも揚げ足を取っているのは、あまりにも酷く嘆かわしい。

危機事態ではないので壊滅状態に至っていないが、もし危機事態であれば大変な事に成り兼ねない。もしかすると、今の日本の国家としての最大のリスクかもしれない。